色彩

@enoz0201

色彩


「ふむ、なるほどねえ」

 なるほどなるほどと、先生はしきりに頷く。その動きはややオーバーで、短い黒髪もだらしなく着くずした白衣も、動作に合わせてふわふわと揺れている。

「なんですかね、これ。やっぱり、精神的なあれなんでしょうか」

 先生の「なるほど」だけが聞こえている。聞こえているけど、それは特に意味を持たない頷きしかなくて、ならばこの場は沈黙に包まれているのと変わらない。音のある沈黙が怖くて、それで持たせている間が過ぎ去った後に何か言われるのが怖くて、返事を待たずに次の言葉を投げかけてしまった。

「子どもの頃から、ずっと見えてて」

 言いながら、無駄なのにと自分に呆れる。何も言われなくても、どうせ。これまで話した相手のように、もし先生が信じていないなら、そうとわかるが視界にしみ出してくる。

「まあ、近い症状は結構聞くよ。共感覚……とはちょっと違うけど、音に視覚的なイメージとか形とかを持つ子とかいるしね」

 だが、私の言葉を信じるような返答と同様に、疑わしく見える紫が視えることはない。そこは流石精神科医というべきか、相変わらずなるほどなるほどと続けながら真剣に対処法を考えてくれている。

 ああ、よかった。恥ずかしがらずに、恐れずに、ちゃんと医者に相談してよかった。勇気を出して、本当に良かった。

「え、」

 と、思った瞬間。

 世界が変わる。

「何それ」

 向かいに座っている人間は、背の高い男から小さな子どもになっていた。白の中に暖色があしらわれた病室にいたはずなのに、周りを見渡せば茜差す教室の中だった。じりじりじりじりと、どこかでアブラゼミが鳴いていた。見覚えのある風景の中で、見覚えのある少年が、聞き覚えのある言葉を、言おうとしている。と、して、いる。

 ──あ。

って、かなりこじらせてんねー」

 それは記憶。真剣に話した悩みが、他のみんなとは違うという恐怖が笑いごとされた、そんな遠い夏の思い出トラウマを、私は夢の中で繰り返しているのだった。



 そして、目覚める。

 「はっ!」なんてテンプレートな叫びと共に目を開けると、そこは公園だった。ジャングルジムの横では転んだ男の子が泣き喚き、ブランコに座った二人がコンビニかどこかで買ったであろうカードパックを開けては見せ合い、出口の近くでは帰りたくないと駄々をこねる女の子を母親が引っ張って行っている。夕方だから視界の大半はオレンジだけど、人間の周りには悲しみの青だったり喜びの黄だったり怒りの赤だったり、わかりやすい色が漂っていた。子どもの感情は比較的シンプルなものから発生するからなのか、公園なんかはいつも原色まみれに見えている。

 ただそんな中でも、唯一何の色にも染まっていない人がいた。彼は私と一緒に、公園端の木のベンチに腰かけている。相変わらず何の色も見えなくて、表情も無そのもので、まるでロボットみたく佇んでいる彼とは、いつもこの公園で会っていた。といっても彼は何も話さないので約束してるわけじゃない。毎週決まった日時に彼がここに来るから、私が勝手に会に来ているだけだ。

 唯一感情が見えない彼の色に興味を持って、一方的に話しかけているだけなのだ。

「……」

 私の変な特性が彼にだけは適用されない、というわけではないと思う。ここに来てしばらくぼうっとして一時間もしたら帰る、普段のこれまた機械のような繰り返しを見ると、恐らく彼には感情が欠けているのだ。多分彼は何か悲しいことに遭って、それで心が壊れてしまったのだ。と、私は勝手に考えている。だから感情が戻れば色が見えるはずだと、勝手に必死に話しかけている。あの出来事以来苦手になった他者とのコミュニケーションを、なんとかとろうと試みてる。……たまに心身共に疲れて、さっきみたいに居眠りしてしまうけど。

「もう半年も経つのに、君まだ何も反応してくれないんだもんなあ」

 公園に来るのも感情豊かな子ども達に触れて色を取り戻すための取り組みだろうに、彼は初めて会った時から一向に変わっていない。

「ま、変わらないってんなら私もそうなんだけどね。なんでこんな頑張ってんだろ。感情の色が見えるの、普通じゃないから嫌だったはずなのに」

 なのに私は、彼の色が見たかった。そのために公園に通い詰めるほどに。半年も思いが続くほどに。

 彼と会っているときは、彼のことだけを考えていた。公園では茜色のキャンパスに子ども達の原色の絵の具がぶちまけられていたけど、そんなの全く気にならなかった。いや、彼と会っているときだけじゃない。家にいる時も、病院の待ち時間も。次何を話そうか、どういうアプローチで感情を呼び戻してやろうか、私はずっと考えていた。

 彼と初めて会った時のことを、思い出す。

 ──彼は、今と変わらずベンチに座っていて。

 ──その色のない瞳に、沈みゆく夕日を映していて。

 ──冬だから早めに暗くなっているというのに、きっかり一時間終わるまで彼はそこにいて、その、姿が、

 気が付くと、私の身体からも色が漏れていた。自分にしては精一杯のおしゃれでかわいい服装の合間から、感情の彩りが漏れ出していた。客観視できないからなのか、よっぽど強く抱かないと見えない心の色。青っぽいような、黄色っぽいような、クリスマスなんかに町に繰り出せばよく見える、ありきたりでつまらない色。

 ……いいんだよ、私の色は。

「わ、」

 私が一人身体を悶えさせてると、同時に彼の身体もゆらゆらと揺れた。二人の身体が何かしらの繋がりでシンクロしている……というわけじゃなく、さっきから強い風が辺りに吹いている。季節外れの突風は公園一帯をさらっていて、そこらで砂埃が舞い上がって大変だ。元気いっぱいに遊んでいた子ども達も動きを止め、自分で目を瞑りながら「何も見えなーい」なんて言っている。横を見ると、彼も同様に瞼を下ろして瞳を保護していた。なんというか、こういう仕草のいちいちが場所も相まって子ども達と重なって、可愛いと思ってしまう。

 そんな突発的な嵐の中、風に煽られた彼の上半身から何かがこぼれ落ちた。正確には、羽織っているジャケットの内ポケットから、人型のものが飛ばされて足元の砂に落下した。

「これは……?」

 拾ってみるとそれは小さなぬいぐるみだった。随分と使い古された、二足歩行の犬っぽい生物で、恐らく元の色だったであろうピンクは完全に褪せてしまっている。中身の綿もある程度抜けてしまっているのか、急いで手に取らないとそのままどこかに飛んでいってしまいそうだっ──、

「──っ!」

 起きた出来事は、一瞬だった。

 一瞬で始まり、一瞬で終わりが訪れた。

「い、たっ」

 手首に痛みを感じたと思ったら、彼が私の手首をすごい力で掴んでいた。

 その瞳には、溢れんばかりの怒りが漲っていた。

 握力に怯んだ私が取り落としたぬいぐるみを拾うと、彼はすぐさまその場から立ち去ってしまった。

「……」

 しばらく、私はその場に立ち尽くし……座り尽くしていた。子ども達が母親に連れられていなくなり、辺りには夜の帳が落ち、茜色はすっかり見えなくなる。そんな時間まで、私はベンチでただただぼうっとしていた。

 でも、いつまでもそうはしていられない。流石に親が心配するだろうと我に返った私は、小走りで自宅への道を急いだ。

「……すごく、綺麗だったな」

 そんな言葉を、色の見えなくなった虚空にひとつ残して。



 今でも、夢に見る。

 初めて感情を発露させた彼のまとっていた、あまりにも鮮やかな赤色を、今でも目を閉じる度に思い出す。

 きっとあのぬいぐるみは、彼にとって大切なものだったのだろう。だから肌身離さず持ち歩いていて、目を離した隙に勝手に手を触れた私に怒りを感じたのだろう。何かをきっかけにのせられてしまった重い蓋を押しのけるほどに、その感情は強く迸っていたのだろう。だからこそ、あの時映った赤は、私の瞳に焼き付いたのだろう。

 ……本当に、綺麗だと思った。手首の痛みも、辺りを暴れ狂う砂埃も目に入らないほどに、その色は鮮烈で純粋だった。何よりも強く、何よりも美しい。紅蓮のような、灼熱の怒涛のような。でありながら、広く澄み渡った水面のような。こんな色彩がこの世にあるなんて、私はそれまで知らなかった。こんなに透き通った怒りを持つ人は、他にどんな色を内に秘めているのか。前にも増して私は、彼の感情を知りたくなっていた。

 しかし、もうその願いが叶うことはない。私が踏んだ地雷は本当に特大のものだったのだろう、彼はもうあの公園に現れることはなかった。あの一瞬を経て、私の認識の変化とは対照的に、彼の中で目の前の女は大切なものに手を触れる要注意人物になったのだ。彼が望まない以上私も会うつもりはないし、もう二度と、二人が視線を交わすことは、ない。

 でも、きっとそれが正しいんだと思う。あんなに透き通った感情を持った彼と、好きな人を怒らせてしまったのにそれよりも自分の性癖を優先する私とでは、釣り合いというものがとれてない。今回のことがなくとも、どうせいつか終わっていた関係なのだ。

 だから私に出来ることは、ただ一つ。祈ること。とても心が綺麗で、美しくて、優しくて。そんな世界の間違いみたいな誰かが彼の元に現れることを、あの純な色彩がまたこの世界の一部を染めることを、私は今も祈り続けている。

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