伍ノ巻 月夜に囁き、柿に風

 それから十年もの年月が経ち。川向こうで大きな商談を成功させた猿衛門は、山ほどの小判を持って再びこの田畑へ戻ってきた。目的はひとつ、あの握り飯をくれた女性に恩返しをするためだ。


(此処の風景は変わらないように見えるが、達者だろうか)


 土に塗れ日に焼けた笑顔を思い出しながら歩く。季節は秋だ。あの日は緑一色だった景色を、赤や黄色の鮮やかな木々が彩っている。


(さて。この辺だったような……あ。これは……)


 記憶を辿りながら歩いていた猿衛門は、やがて一本の木の下で立ち止まった。以前は無かったはずの柿の木が、見事に丸々とした柿をいくつも実らせている。


(見事だ……)


 男性である自分がやっと手を回せるくらいの太い幹から、腰かけても折れる事のなさそうな枝がいくつも伸びている。まさかあの一粒の柿の種から育てたのだろうかと信じがたい気持ちで柿の木を見あげていると、背後から明るい声がかかった。


「猿衛門さんね! お久しぶりじゃないの。お元気?」


 猿衛門が振り向くと、赤い鋏がカチカチ鳴った。ほら、あの時の蟹ですよ。とおどけた女性に、猿衛門は笑顔で頷く。


「忘れるわけがないで御座るよ。貴女は拙者の命の恩人なのですから」

「いやねぇ。相変わらずおおげさなんだから」


 彼女は軽く首を振り、鋏を消して視線を落とした。まだ歩きはじめて間もないくらいの小さな子どもが彼女の服の裾をつかんでいる。


「その子はもしや……」

「そう。私の息子よ」


 猿衛門は腰を落として子どもに視線を合わせた。こんにちは、と話しかけると、彼は夕陽のように赤い瞳を丸くさせてじっと猿衛門を見ている。


「まだ喋れないのよ」

「そのようで御座るな」


 猿衛門は笑った。彼女の夫は出稼ぎで長く帰らないらしく、今は彼女が女手ひとつで畑仕事をしながら幼い子どもを育てているらしい。その後数分の雑談を経て、この木があの柿の種が育ったものだと聞いた猿衛門は、再びそれを見上げて感嘆の息を漏らした。


「見事だ」

 

「この木ね、凄く臆病者なのよ。早く大きくならないとちょん切っちゃうよ! って脅したら、慌てて大きくなったんだから」


 彼女が両手の鋏をチョキチョキさせると、どっしりとした幹が僅かに揺れた気がした。


「不思議だ……本当に、腰が引けているように見えるで御座るよ」


「でしょう」


 笑っている二人の足元では、彼女の幼い子どもが木の幹に手をついて、高い枝に懸命に手を伸ばそうとしている。

 

「柿が気になるみたいね。取ってあげたいけど、私も木登りは出来ないのよ」

「なら、拙者が取ってこよう。少し待つで御座るよ」


 猿衛門はその場に飛び上がって太い木の枝に手をかけると、腕の力だけで難なく登ってあっという間に枝の上に立ち上がった。


「これなんか、大きくて甘そうで御座るな」


 猿衛門は鮮やかな橙色の艶やかな柿をいくつか取ると、ぽんぽん下に落としていった。母親は木を見上げながら落とされた柿を拾い、少年は赤い瞳をパチパチさせて興味深そうにその様子を見ていた。


 そんな、時だった。


「泥棒っ!」


――ヒュン、と猿衛門の頬すれすれを、何か固いものが通った。下を見ると、近所の子どもたちが猿衛門に向かって石を投げている。


「泥棒猿! 俺んちの野菜返せ!」

「お前が荒らした畑のせいで、俺の家は貧乏になったんだぞ!」


 まさか以前野菜を盗んだ家の子たちだろうかと、猿衛門は混乱した頭でそう思った。姿が見られるような下手な盗み方はしていないはずだが、どこからか情報が漏れたのかもしれない。


「泥棒! 出ていけ猿!」

「出てけ! 二度と来るな!」


 子どもたちが投げる石は猿衛門の頬を掠め、腕に当たり、近くの葉に当たって固い柿がいくつも落ちた。そうしたら今度はその未熟な青い柿を持って、子供たちは狙いを定めはじめる。


 猿衛門は木の下にちらりと視線を向け、母親に逃げるようにと合図した。彼女と子どもの安全さえ確保できれば、あとはこの子どもたちの気が済むまで的になろう。そう決意した猿衛門だが、彼女の思いはそれとは違った。

 

「もうやめて! 猿衛門さんはそんな事しないわ!」


 木の下で、彼女は必死に猿衛門の潔白を表明しようとしている。幼い息子を必死に背に隠して叫ぶ彼女に、流れ弾がいくつも当たっていた。

 

「きゃあっ!」

「危ないっ!」


 猿衛門は尻尾を木の枝に巻き付けてくるりと一回転すると、母蟹のもとへと向かった。彼女はせめて息子だけでも助けようと、背中を向けて抱きしめている。


「君たち、頼む。拙者には当てても構わないから、彼女には……」

「あぁ!」


 彼女を庇うように腕を広げた猿衛門の脇をすり抜けて、母蟹の頭に青い柿が当たった。猿衛門は倒れこむ彼女を支えるが、ぐったりした身体は少しも動かない。


「やべぇ、逃げろ!」


 子どもたちは逃げていき、あとには猿衛門と母蟹、そして小さな子どもが残された。

 

 

         ◇



「それは気の毒な話だが……その「泥棒猿」ってのは、お前の事じゃないだろ」


 話を聞き終えてすぐに、桃太郎はそう断言した。その不幸な事件が起きたのは、猿衛門が野菜泥棒から足を洗って十年後の話なのだ。猿衛門も頷いている。


「当時はあまりに急なことでそこまで考えが及ばなかったが、おそらく人違いであろうな」


「でも、過去が過去だからすぐに否定できなかったって?」


「即座に違うと主張できるほど、拙者も潔白ではなかったので御座るよ」


 因果応報とはこの事だと、猿衛門は肩を竦めた。彼はずっと、あの日の自分を責めている。


「拙者が過去にしたことの報いを受けて勝手に倒れるならば問題なかったし、当時もそのつもりだった。彼女の事も、自分が狙われているわけではないのだから当然逃げるだろうと……」


「思ったよりもずっと、いいやつだったんだな」


「彼女以上の女性には、出会ったことがないで御座るよ」


 あの時すぐに否定をして彼女を先に逃していれば。青い柿の実をじっと見つめる猿衛門の横顔は、後悔に満ちていた。桃太郎もそれ以上何も言わず、ふたりは並んで夜風に吹かれる。


 

 それを隣のイチョウの木の陰から、こっそり見ている影があった。


「(そんな……猿衛門さんが、探してた猿……?)」

 

 口元を押さえて力なく座り込んだのは、蟹の少年。その耳元で、姿の見えない声が再度囁く。


「(あの猿は君の母親を殺した)」

「(で、でも! 人違いだったって……)」

「(それでも、あいつは君の母を守れた。なのに、守らなかった)」


 その声の正体が何なのか、少年にもわからない。しかし繰り返し囁かれる言葉は夜風のように冷たく、月夜のように怪しく、幼い少年の心を惑わせる。


「(猿は母の仇だ。復讐しなければならない)」

「(復讐……)」

「(そうだ。君はなぜあの木の下に罠を仕掛けたんだ? 母親の仇を取るためだろう)」

「(そう、ですけど)」


 少年は迷っていた。彼は母亡き後、心配した近所の人たちに面倒を見てもらいながら育ってきた。なかでも遠方に住んでいるにもかかわらず度々訪ねてきてくれる猿衛門を、彼は慕っていたのだ。彼に猿のような尻尾がある事も、今の今まで知らなかった。


「(猿衛門さんは、僕の憧れで……)」

「(奴は敵だ!)」

 

 小さな声がきっぱりと言った。


「(奴があの時きちんと君の母を守れていれば……彼女は今も生きていて、君と一緒に住んでいたはずだ)」

 

(おかあさん……)

 

 もうとっくに覚えていないはずの温もりが蘇ってくるような気がしたと同時に、夜風の冷たさが少年の柔らかな肌を刺した。小さな身体を屈めて自らを抱きしめるように腕を回した少年は、小さな声に問いかける。


「(あなたは、誰……?)」


「(私は蜂の化身・・・・。全てを知る者)」


 ブウン、と虫が飛ぶような羽音に、少年は身を竦めた。


「(君の『復讐』。私が手伝おう)」

 

 遠ざかっていく羽音。変わらず姿の見えないそれに、少年はコクリと頷いた。

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