序ノ参 食い逃げ犯ときび団子
「ごめんなさいっ!」
「…………」
桃太郎は川で鉢巻を洗いながら半目で柔らかそうな白い耳を見た。黙っていれば愛らしく見えなくもない顔が、砂利に半分ほど埋まっている。
「本当にごめんなさい……お腹空きすぎて、桃がとっても美味しそうに見えちゃって……」
「絵に描いた桃は食えない。知らないのか?」
「お腹いっぱいになったらわかると思います……」
ぎゅるるる、とまた腹の虫が鳴った。桃太郎は深い溜息をついて洗い終えた鉢巻を絞り、腰に下げた袋からきび団子をひとつ取り出す。食べ物の気配に、彼女の顔が砂利から離れた。
「きび団子食う……」
「ワンッ!」
いつの間にか、娘は犬の姿になっていた。白い耳がピンと立ち、尻尾がぶんぶん動いている。桃太郎は仕方なさそうに笑って、団子を差し出す。
「ほら。これ……」
「ワフ」
言い終わらないうちに、団子はもう犬の口へと消えていた。もぐもぐと忙しく口を動かしている横で、桃太郎は鉢巻を広げて染みが無いかを確かめる。
「よし! 大丈夫そうだな」
「おいひいでふ!」
「いや団子じゃなくて。美味いのは当然だけどな」
「あぁ。そのハチマキ?」
ごくり、と団子を飲み込んだ犬が鉢巻きに鼻先を寄せた。犬の姿で会話されると違和感があるな、と思いながら、桃太郎は頷く。
「……そういえば、何で桃なんですか?」
「これは、故郷のおばあさんが作ってくれた大切な物なんだ」
「ふうん?」
犬は鉢巻きの匂いをクンクン嗅いで、続いて桃太郎の顔をのぞき込む。鼻先が触れるほどの近さに先ほどのトラウマが発動し、桃太郎は仰け反った。
「うわっ!」
そのままバランスを崩して後ろに倒れ込んだ桃太郎の手から鉢巻きが消える。いつの間にか人間の姿に戻っていた彼女は、頬を膨らませて鉢巻きをひらひら振った。
「もう食べませんよ! こっちの方が似合うなって思っただけですー」
桃太郎は身を起こして自分の額に触れた。額には今、白い包帯が巻かれている。茶屋の娘が遠くから投げて寄越したものだ。
彼女は余程このイヌを店に入れるのが嫌だったようで、手当てをしてはくれなかった。しかし包帯をくれて団子のお代も
「……似合うか?」
「はいっ! この方が美味しそうだし」
彼女は満面の笑みで桃太郎に鉢巻を返した。桃太郎はそれを改めて見る。
家を出る時にお婆さんが巻いてくれた、大切な鉢巻。しかし通行人には二度見され、言葉を交わした人には馬鹿にされるこの鉢巻を、似合うと言われたのは今日が初めての事だ。
(「外した方がいい」と、何度言われた事か……)
桃太郎は桃の刺繍をなぞるように指を動かした。「日本一の桃太郎」、この名が国中に届くように。そんな願いが一針ごとに込められた、世界に一つの贈り物。
「……本当に、似合うと思うか?」
「はいっ! えぇと……」
「桃太郎だ」
「桃太郎さん! ぴったり! アナタのためのハチマキですね!」
白い耳がピンと立った。「桃」という美味しそうな単語に反応しているだけだとわかっていても、桃太郎の心に、彼女の言葉はあたたかく染みていった。
「ありがとう」
「えへへ」
桃太郎は彼女の白髪に手を置いた。今彼女は娘の姿をしているが、気持ち的には犬を撫でているつもりだ。そのまま髪を梳くように手を滑らせると、彼女は心地良さそうに目を閉じる。
「お前の名は?」
「シロ」
「シロか。穢れのない良い名だ」
「ふふ。ありがとうございます」
シロは機嫌良さそうにパタパタと尻尾を動かした。そのまま二人はしばらく並んで、水面が太陽の光を受けて煌めくのを眺めながら、ぽつりぽつりと話をした。
「
「そうらしいが、詳しい事はわからないんだ」
シロは桃太郎から
「不思議ですね。「鬼ノ島」までの絵図があるなんて」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって。「誰もたどり着けない幻の島」っていうじゃないですか」
「そうなのか?」
桃太郎は聞き返した。シロは当然のように言ったが、初耳だ。
「宝物が眠っていると聞いたんだ。だから、鬼に奪われた宝もそこにあるんじゃないかと思ってるんだが」
「あるかもしれませんね。私が聞いたのは、宝を手にしようと何人もの旅人が鬼ノ島に向かったっていう話です。でも、たどり着いた人はひとりもいなかったらしいです」
「たどり着いた人がいない?」
桃太郎は繰り返した。帰ってきた人がいない、なら、鬼にやられたのだと理解できるが、そもそも鬼ノ島に着いた人がいない。という事は、その場所は巧妙に隠されているということだろうか。
「それが本当なら確かに、
手を口元に当てて考え込む桃太郎の横で、シロは次のページを捲る。そこには葉のない一本の枯れ木が大きく描かれ、横には表紙と同じ字体が流れるように墨で書かれている。
「はなさか……なに?」
たどたどしく読むその様子を見るに、シロは字を読むのがあまり得意ではないらしい。桃太郎が横から
「花咲か
「知らないデス」
ぶんぶんと首を振ったシロも、全く心当たりがないらしい。桃太郎は周囲を見回そうと立ちあがり、ついでに固まった身体をほぐそうと大きく伸びをした。
(案内板のようなものか、この辺りに詳しい者がいればいいんだが)
桃太郎はこの街に来たばかりで、何も把握していない。シロはどうにも心許ないし、この街の事が気兼ねなく聞ける者を探したいのだ。ちなみに先ほどの茶屋の娘は早々に候補から消した。あの店には二度と行かないと心に決めている。
「どうしたんですか?」
「ちょっとここで待ってろ」
川の少し下ったあたりに渡し舟を発見した桃太郎は、シロにそう言い残して船へと向かった。渡し舟の船頭なら、この街の事に詳しいかもしれないと思ったのだ。
「すまない。少し聞きたいことがあるんだが」
桃太郎は、まず一番近くにいた船頭に話しかけた。若い男の船頭は、まず桃太郎の頭の包帯を見て心配そうな表情を浮かべ、彼の陣羽織と手に持った鉢巻にでかでかと描かれた桃を三度見してからようやく返事をした。
「……はい! 何の御用でしょう」
「この辺りに、「花咲か爺」という人は住んでいるだろうか」
「花咲か爺……? うーん……ちょっと待ってください」
船頭はしばらく考えて隣の船に声をかけ、同じ質問を繰り返した。いかにも歴が長そうな、年配の船頭が首を振る。申し訳なさそうに帰ってくる船頭に、桃太郎は軽く頭を下げた。
「仕事の邪魔をしてすまないな」
「いえ、こちらこそお力になれず……」
「いやいいんだ。自力で探す……あれ?」
踵を返し戻ろうとした桃太郎の目に、大きな川の中ほどを渡る一艘の小舟が目に入った。乗っているのは船頭の他に、ひとりの老人とひとりの娘。老人の方は見た事がないが、娘の方の白髪の間からのぞく真っ白な耳は、記憶に新しい。
「シロ!?」
「え? あぁ、あの船ですか?」
「向こう岸に渡っている女だ。あの老人は誰だ!?」
「あ。ちょっと、危ないですよ。この川けっこう深いんですから」
桃太郎は冷たい川にざぶりと入り、足首まで水に浸かった状態で小舟を見た。
(連れがいるようには見えなかったが……)
先ほどの様子を思い出しながら、桃太郎は首を傾げた。彼女とは出会ったばかり。老人の知り合いがいても何ら不思議ではないし、ずっと一緒にいるつもりもなかったのでそれは問題ない。しかし、このまま解散というわけにはいかないのだ。桃太郎は大切なものを、彼女に預けているのだから。
「
桃太郎は叫んだ。その叫びはシロには届かなかったが、代わりに船頭の視線が鋭くなる。
「盗人ですか? もしそうなら、早く追いかけないと」
「何!? 盗人だと!?」
隣の年配の船頭も、話の断片を聞いて近づいてきた。桃太郎は頷き、先ほどより小さくなっていくシロの後姿を指さす。
「あいつか! この前息子の蕎麦屋で食い逃げしてった奴だ!」
「あの娘、そこの茶屋でも団子泥棒してました! 逃げ足速いから捕まらなくて」
「よしっ。こうしちゃおれん。兄ちゃん!」
「え?」
次々に明らかになる余罪を飲み込み切れないまま船を目で追う桃太郎の背中を、年配の船頭がバシッと叩いた。
「
「お……おぉ!」
日に焼けた皺だらけの顔が、期待を乗せて彼を見る。その熱量の高さに桃太郎は一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直して頷いた。
どちらにしろ、
「この「日本一の桃太郎」に、任せておけ!」
生乾きの桃の鉢巻きを包帯の上から巻いて固く結び、桃太郎はシロを追うべく、渡し舟に乗り込んだ。
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