第2話 代替わり
9月のとある日曜日の午後。彼がデパートの紙袋を提げて歩いているのはアーケード街の外れ、飲み屋が多いせいで昼間には人影も少ない通りである。
スポーツブランドのTシャツに濃紺のコットンパンツ、年季の入ったスニーカー。生まれつきのゆるい巻き毛のせいで、もっさりして見える髪。背は高からず低からず、太ってはいないが痩せているわけでもない。卒業して数年経つのに、いまだ大学生と間違われることも多い童顔に、細い黒縁のメガネをかけている。
やがて彼が立ち止まったのは、シャッターが半分だけ上げられた店の前。そのシャッターに貼り付けられた白い紙が、黒いマジックで手書きされた[す。]だけをのぞかせているのを見て、彼はかすかに首を傾けた。
とはいえ、足を止めたのはほんの一瞬。すぐに腰を屈めてその向こうの引き戸をからからと開けた。
奥の灯りが漏れているだけの薄暗い店内には、5人分の席があるカウンターと、丸椅子が逆さまに乗せられたテーブルが4卓。壁にはたくさんの品書きが貼られている。
良太郎は戸に手を掛けたまま、首を傾げてすんすんと鼻を鳴らしたが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「あ、申し訳ありません。お休みなんですけど」
奥の暖簾を分けて、か細い声の主が現れた。灰色のサマーセーターに黒のフレアスカートという地味ななりである。髪はあっさりしたショートカットで化粧気もないし、高校生くらいに見える。
「え?」
良太郎はいかにも不意を突かれた顔つきで彼女を見つめると、口を半開きにしたまま固まった。
その足元をかすめるよう通ったものがある。
1匹の白猫だ。
白といっても、ぴんと立てた長い尻尾には、うっすらと灰色の縞が入っている。
立ち止まった猫は、珊瑚礁の海のように澄んだ青い瞳で、娘を見上げた。
「あ、あら?」
娘はぱっと頬を染め、呆けたように猫を見つめた。
薄暗い店内の光をありったけかき集めたかのように、猫だけがぽうっと輝いている。
その背後には、クサガメくらいの大きさで夕陽を浴びた砂山のような色合いの亀が近づいていたのだが、そちらは全く目に入らないようだ。
猫はやがて、いかにも猫らしく目を細め、気に入らぬていでぷいっと顔を背けた。
「あれっ? あっ、ううん、そうよね」
小さく首を横に振りながら、彼女は早口に言って背筋を伸ばした。その動きで空気が流れ、良太郎の鼻先に微かな線香の香りが届いた。
「よう、良太ぁー、そんなとこに突っ立ってると邪魔だぞぉ」
良太郎の背後から、やたらと響く声がした。
よっこいせと入ってきたのは、黒々とした髪を整髪剤でてからせた大柄な中年男。黒地に白いペンキが飛び散ったような大胆な柄の襟付きシャツを着ているが、それがぴたりと決まっている様は、昭和のロックスターのようだ。
「あん? ……そういうことかい。まったく……いや、わかっちゃいるが」
明るかった声音が一瞬で暗く沈んだが、彼は明らかに、床に向かって話しかけていた。娘の表情に怪訝そうな色が満ちる。
「いやいや、あなただって、そこで立ち止まらないでくださいよ」
さらにもう1人、白髪のまさった短髪の小柄な男が入ってきた。新品のようにぱりっとしたペールピンクのポロシャツを着た彼は、娘を見るなり天井を仰ぐ。
「前もって教えてもらえないのは、難儀ですねえ」
「うん、まったくだ。嬢ちゃん、親父さんはいつ?」
「え、え、え? なんですか、2人とも何言ってんすか? アケさん? アケさんはどこだ?」
黒髪が問い、良太郎はなぜか高いところを眺め回す。娘はわずかに眉根を寄せて、ほうっと長い息を吐いた。
「お三方は、いつもの集まりの方たちですか?」
3人の男たちが頷くと、彼女はきちんと手を揃えて深いお辞儀をした。あたふたしている良太郎を尻目に、黒髪が一歩前に出た。
「代替わり、お疲れ様でございます」
言われた娘は、なんのことかわからないように口を開けたり閉めたりした。
「そ、そんな! 俺、先週飲みに来たばっかりなんですよ! 大将、別に普通だったし! 代替わりって、そんな」
慌てて早口になる良太郎をじろりと見て、黒髪の男はふっと息を吐いた。
「お前が何を言うんだ? お前の父親はどうなったっていうんだ? あ?」
「え、あの、そちらの方、の」
娘は息を飲んで良太郎の顔を見た。
「青山です。青山良太郎です」
「青山さんの、お父さん、も?」
「いや、その、うちの親父は脳梗塞で倒れて、半身不随で、その、生きてるんだけど。どっ、どうもすみません」
うろたえながら頭を下げた良太郎に、娘の硬い声が飛ぶ。
「謝らないでください。それじゃ、まるで、お父さんが生きてらっしゃるのが、いけないことみたいじゃないですか」
思わずぐっと喉を詰まらせた良太郎に、年上の男たちの視線が集まる。しかしその直後、3人はさっと揃って振り返った。
「あっ、出来もしないこと言ったな! だって、親父にはもう聞こえないじゃないか」
良太郎がそちらに向かって拗ねるように言うと、他の2人はやれやれと首を振った。娘はそんな彼らの姿を代わる代わる眺めて、困ったようにもじもじした。
「いや、悪かった。俺たちにもだが、
黒髪はそう言いながら、手近な丸椅子をテーブルから取り上げて腰掛けた。
「ええ? あの、毎月の第3日曜日の午後2時、この店で集まりがあることは聞いていました。何があっても休んではいけない集まりだと」
「そうか。えーっと、お嬢さん、名前はなんだったかな」
半白髪が穏やかな口調で言い、続いて腰を下ろした。
「
そう名乗った娘は、下げた頭をなかなか上げなかった。
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