第1話 代替わり

 青山良太郎あおやまりょうたろうは、ぱっとしない風貌の持ち主である。本人もそれは自覚している。

 8月の日曜日の午後。彼がデパートの紙袋を提げて歩いているのはアーケード街の外れ、飲み屋が多いせいで昼間には人影も少ない通りである。


「はー、暑い。暑さが無いって本当? あ、すんません」


 謎の独り言を口にしながらぺこぺこしている彼の服装は、スポーツブランドのTシャツに濃紺のコットンパンツ、年季の入ったスニーカー。160センチ台半ばで太ってはいないのだが、生まれつきのゆるい巻き毛のせいで、もっさりして見える。学生と思われる童顔に、細い黒縁のメガネをかけている。

 

 やがて彼が立ち止まったのは、シャッターが半分だけ上げられた和風の店の前。そのシャッターに貼り付けられた白い紙が、黒いマジックで手書きされた[す。]だけをのぞかせているのを見て、彼はかすかに首を傾けた。

 とはいえ足を止めたのはほんの一瞬で、すぐに腰を屈めてその向こうの引き戸をカラカラと開けた。

 

 奥の灯りが漏れているだけの薄暗い店内には、5人分の席があるカウンターと、丸椅子が逆さまに乗せられたテーブルが4卓。壁にはたくさんの品書きが貼られている。

 良太郎は戸に手を掛けたまま、首を傾げてすんすんと鼻を鳴らしたが、すぐに眉間に皺を寄せた。


「あの、やってないんですけど」

 

 奥の暖簾を分けて、か細い声の主が現れた。灰色のサマーセーターに黒のフレアスカートという地味ななりで化粧っ気もない、赤羽月世である。薄暗い中ではあるが、ひどく具合の悪そうな顔色だ。

 

「え?」

 

 良太郎はいかにも不意を突かれた様子で彼女を見つめ、口を半開きにしたまま固まった。

 その彼の足元を、かすめるように通ったものがある。

 1匹の白猫だ。

 白といっても、ぴんと立てた長い尻尾には、うっすらと灰色の縞が入っている。

 立ち止まった猫は、珊瑚礁の海のように澄んだ青い瞳で、月世を見上げた。

 

「あっ、あら?」

 

 月世はぱっと頬を染め、しゃがみこんで呆けたように猫を見つめた。スカートの裾が床を擦るのも気にしていない。

 薄暗い店内の光をありったけかき集めたかのように、猫だけがぽうっと輝いている。

 その背後には、夕陽を浴びた砂山のような色合いの亀がのったりと歩み寄っていたのだが、そちらは全く目に入らないようだ。

 猫はやがて、いかにも猫らしく目を細め、気に入らぬていでプイッと顔を背けた。

 

「あれっ? あっ、ううん、そうよね」

 

 小さく首を横に振りながら、彼女は早口に言って立ち上がった。その動きで空気が流れ、良太郎の鼻先に微かな線香の香りが届いた。


「よう、良太ぁー、そんなとこに突っ立ってると邪魔だぞぉ」

 

 良太郎の背後から、やたらと響く声がした。

 よっこいせと入ってきたのは、黒々とした髪を整髪剤でてからせた大柄な中年男。黒地に白いペンキが飛び散ったような大胆な柄の襟付きシャツを着ているが、それがぴたりと決まっている様は、昭和のロックスターのようだ。

 

「あん? ……そういうことかい。まったく……いや、わかっちゃいるが」

 

 明るかった声音が一瞬で暗く沈んだが、彼は明らかに、床に向かって話しかけている。月世の目元に怪訝そうな色が満ちた。

 

「いやいや、あなただって、そこで立ち止まらないでくださいよ」

 

 さらにもう1人、シャッターを押し上げてから、白髪のまさった短髪の小柄な男が入ってきた。新品のようにぱりっとしたペールピンクのポロシャツを着た彼は、月世を見るなり天井を仰ぐ。

 

「前もって教えてもらえないのは、難儀ですねえ」

「うん、まったくだ。嬢ちゃん、親父さんはいつ?」

「え、え、え? なんですか、2人とも何言ってんすか? アケさん? アケさんはどこだ?」

 

 黒髪が問い、良太郎はなぜか高いところを眺め回す。月世はわずかに眉根を寄せて、ほうっと長い息を吐いた。

 

「いつもの集まりの方たちですか?」

 

 3人の男たちが頷くと、彼女はきちんと手を揃えて深いお辞儀をした。あたふたしている良太郎を尻目に、黒髪が一歩前に出た。

 

「代替わり、お疲れ様でございます」

 

 言われた月世は、なんのことかわからないように口を開けたり閉めたりした。

 

「そ、そんな! 俺、先週飲みに来たばっかりなんですよ! 大将、別に普通だったし! 代替わりって、そんな」

 

 慌てて早口になる良太郎をじろりと見て、黒髪の男はふっと息を吐いた。

 

「お前が何を言うんだ? お前の父親はどうなったっていうんだ? あん?」 

「え、あの、そちらの方、の」

 

 月世は息を飲んで良太郎の顔を見た。

 

「青山です。青山良太郎です」

「青山さんの、お父さん、も?」

「いや、その、うちの親父は脳梗塞で倒れて、半身不随で、その、生きてるんだけど。どっ、どうもすみません」

 

 うろたえながら頭を下げた良太郎に、月世の硬い声が飛ぶ。

 

「謝らないでください。それじゃ、まるで、お父さんが生きてらっしゃるのが、いけないことみたいじゃないですか」

 

 思わずぐっと喉を詰まらせた良太郎に、年上の男たちの視線が集まる。しかしその直後、3人はさっと揃って振り返った。

 

「あっ、出来もしないこと言ったな! だって、親父にはもう聞こえないじゃないか」

 

 良太郎が背後に向かって拗ねるように言うと、他の2人はやれやれと首を振った。月世はそんな彼らの姿を代わる代わる眺め、困ったようにもじもじした。

 

「いや、悪かった。俺たちにもだが、に会うのも初めてだよな。まあ、親父さんから話は聞いているだろうが」

 

 黒髪はそう言いながら、手近な丸椅子をテーブルから取り上げて腰掛けた。

 

「え? あの、毎月の第3日曜日の午後2時、この店で集まりがあることは聞いていました、けど。何があっても休んではいけない集まりだと」

「その通り。何があっても休んじゃダメなんだ」

「集まる曜日こそ変化はあったでしょうけどね。えーっと、お嬢さん、名前はなんだったかな」

 

 半白髪が穏やかな口調で問い、続いて腰を下ろした。

 

「月世です。赤羽月世です」


 名乗りはしたものの不安そうな様子は隠せず、月世は視線を落としてそっと両手を握りしめた。その視線が白猫のいた辺りをさまよっていることには、本人も気付いていないようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る