十一話 悪性

 肩を回す。サスペンダーがしなる。体内で気泡が弾けた。

「情報の対価としては、ちょっと高すぎるんとちゃうかなあ」

 脳裏には柔和な笑みを浮かべる白髭瞬太がいた。

 知り得ない未来の情報や異物関連の裏事情を提供した対価として、一つ仕事を頼まれてくれ。白髭にそう言われて動かないわけにはいかなった。未来を見通す彼の言動には必ず意味が宿る。それに従わないということはつまり、彼の言う未来の循環が滞り世界の均衡が崩れることを意味していた。

 隣り合う世界に穴が開けば偏在する神が顔を覗かせて、人類は多大な損害を被ることになる。その事実を知った上で彼の言葉に背くなどできる筈がなかった。偏在する神と対峙したことのある玉井は尚更、従わざるを得なかった。アレともう一度戦うなんて考えられなかった。次もまた帰ってくれるとは限らないのだから。

「せやさかい、しゃあないんやけど」

 落陽が朱色の顔を構えて佇んでいる。蝉の劣情に塗れた耳障りな合唱は未だに響いていた。どこかで烏が鳴く。

 辺りを見回す。そこは東京の街とは正反対な田舎だった。

 用宗の大和田。静岡駅から一駅離れただけで緑は突然に増えた。県道に囲まれるようにして聳える山々は、まるで街を侵さんと言わんばかりに幅を利かせている。住宅と河川と山と田畑。周囲にはそれしかなかった。

 そこは白髭が指定した座標だった。

 白髭曰く、大和田に真怪が現れる。異物争いを通して、稀代の天才から逃れた純正の神が姿を見せる。彼が言うのだから間違いないのだろう。

 腕時計を見やる。時刻は十八時二十二分。白髭の言を思い出す。あと一分もしないうちに真怪と見えることになる筈だ。

 東京支部で最も高い評価を得た身だろうが緊張はする。自ずと独り言が増えた。

 白髭の台詞が頭に蘇る。

 勝てるよ、大丈夫。

「結果だけしか言うてへんのがミソなんよ。どれだけの損害を被るのかは言うてへん。そらこすいで、なあ」

 突如として背後に現れた存在に対して訊いた。

「我に言っているのか、小僧」

 振り向いてそれを見た。肌が粟立つ。夏の齎す熱気が霧散し、背中に冷たい感触が走った。居た。間違いない。

 異質に過ぎる、あるいは神々しいそれは純正の神。人間の認識を汲み上げて作られた恒常性とは一線を画す、真に怪異と呼ぶべき存在。井上円をして本物の超常現象だと断言された怪物。真怪。

 筋骨隆々な肉体。肌は不健康なほどに白く下半身を覆い尽くして余りある黄砂が上半身にも上り蠢いている。背の高い鼻梁、真一文字の薄い唇、漢らしい太い眉。隆起した額の下には鋭い眼光が湛えられていた。おそろしく長い髪が風に煽られて乱れる。

「小僧っていうほど若くないで」

「我から見れば等しく小童だ」

 それもそうや。と首肯して続けた。

「十二天将、天空とお見受けするが、如何に」

 天空から殺気が迸った。

 思わず一歩、退く。

「我の素性を知る現代人など、もはや存在せぬと思っていたが」

「うん。僕もさっきまで知らへんかった」

「それでは信仰なき民草よ。わざわざ我を迎えに参じたということは、供物としてその身を捧げる用意があると捉えても構わぬな?」

 天空の言葉には有無を言わせぬ圧力があった。白と言えば、黒は白になる。それだけの強制力が宿っていた。彼が供物なのだと言えば、言葉を受けた有象無象はその気が無くとも首肯してしまうだろう。

 しかし。平時から怪異と相対し、常日頃から超常現象に触れる玉井には耐性があった。

「まさか」

「では、お前はなんだ。如何なる意図を以て神に言葉を投げた。返答によっては貴様。命を落とすことになる故、留意せよ」

「討伐」

 逡巡することなく返した。

 天空は絶大な力を秘めていると肌で感じ取れた。純正の神なのだから当然だ。それでも退かせる自信が生まれていた。

 白髭の言葉により後押しを受けたのではなく、心底から確信できた。事情は不明だが、眼前の神はひどく力を失っているように見えた。それこそ玉井の手が届く位置にまで。

 まるで自身が灯す火によって崩れる蝋のようだ。初めて相対する真怪に対して緊張こそあれど、敗北を喫するほどではないと思えた。

 なるほど白髭が勝てると言うわけだ。これなら大した傷も負わずに場を収めることができそうだった。

 歳を重ねるごとに傷の治りが遅うなってかなわんからなあ。心の裡で呟く。

「なんだと?」

 天空に漲る圧力が更に肥大化した。やはり上位存在にしては力が希薄だ。偏在する神の足元にも及ばない。

「君を討伐しに来たんや。純正の神なんて真っ当な存在、現代には要らへん」

 その言葉は白髭の受け売りだった。

 信仰。それは人々の心の裡にだけ在るもので崇拝される神は偶像でなければならない。真っ当な神が姿を現し、新たな信仰を獲得すれば、戦争が起こるだけで誰も幸せにはならない。白髭の考えには深く同意できた。

「そうか。その言葉の責任、貴様自身の命で贖え」

 黄砂が舞った。天空の両腕に砂の刃が形成され、細かく振動した。

「これでも疲れているのでな。手早く済ませよう」

 閑散とした道路の中央に立っていた真怪が消えた。

 残ったのは陽炎だけで、耳朶には唸るような風切音だけが残った。

 上半身を逸らす。眼前に砂の刃が走った。姿勢を戻して後退する。

 天空は追い縋ってきた。振動する砂の凶刃が凄まじい速度で空を切る。

 しかし。そのどれもが玉井には届かない。避けながらポケットに手を入れて中から小型のスプレー缶を取り出す余裕すらあった。紫電を纏う必要もない。

「小蝿のようにすばしこい奴」

 天空が舌を打った。

「こう見えてめっちゃ鍛えてんねん」

 木々の中でひっそりと建つ小屋まで後退すると、刃の間隙を縫って建物にスプレーを吹きかけた。それは赤色を伴って一筋の線を描いた。

「何を」

 天空が訝しむように太い眉を曲げた。

「廃墟やから落書きされるんやのうて、落書きされるから廃墟になるってな」

 頭に紫電が走り、思考を反物質化させた。

 世界が書き換わる。


 そこは落書きに塗れた廃墟だった。光源は割れた窓から入ってくる月明かりだけで、数歩離れただけでも互いの姿が失せてしまうほどに暗かった。

「仮想の世界、か」

「せや。近隣住民の皆さんに迷惑かかれへんようにしんとな」

 サスペンダーに下げていた懐中電灯で天空を照らす。薄闇の中にしなる肉体が浮かんだ。

「どこであろうと貴様の死は変わらない」

「そうは思わへんけど」

 またしても天空が消える。音と殺気を頼りに身体を捻り、斬撃を避ける。

「ちょこまかと」

 薄闇の中、数歩離れた先から真怪の声が反響した。

 懐中電灯で照らした空間に夥しい黄砂の刃が浮かぶ。

「それ飛ばせるんかい」言いつつ窓から身を投げ出した。

 砂の足場を作り、それを蹴飛ばした天空が宙で迫る。

「下策だったな」

「いいや」

 唸る天空の腕を掴み、それを軸として彼の背後に回った。背中に足裏を乗せて重力に従うまま地へ堕ちた。土煙が舞う。

「劣等種が、我を足蹴にしたな!」

 天空の背中から飛び退く。瞬間。彼の身体から砂の槍が突き出した。

「危ないなあ」

 ホルスターからリボルバー式の拳銃を取り出した。内部安全装置は既に外してある。

 そして。

 立ち上がる天空に向かって照準を合わせると、引き金を引いた。同時に紫電を発露させる。銃声が轟いた。

 闇の中に火花が散る。肉を抉る凶弾の悲鳴が上がった。

「なんだ、これは」天空が呻いた。

「人類の編み出した悪性や」

「こんなくだらない玩具で……!」

 覇気の籠った声とは裏腹に、天空はよろめき血反吐を撒き散らした。

「鉛玉自体に効果はあれへん。そやけど紫電を纏わせた音速で駆ける鉛玉であれば真怪だろうと貫ける。魂に穴が開いたら、しんどいのは当たり前や」

「こんなもの、容易く治癒──」

 鼻を鳴らした天空が紫電を手繰る。青白い稲妻が彼の肉体を走った。

「できひんやろ」

「──莫迦な!」

 震える声を吐き出して、天空が膝から崩れ落ちる。

「言うた筈や。いま君を貫いたのは人類の悪性。自然発生した真怪は、きっとガイア側でもアカシャ側でもあらへん。つまり双方からの影響をもろに受ける。人類側の悪性は十分有効──」

 それも術者から離れた彼の背後には何の恩恵もない。全盛期の真怪であれば銃弾如きで傷を負わせることはできなかった筈だが、今の天空に悪性を退かせるほどの余力は残っていないのだろう。

 拳銃が叫び、更なる凶弾を発射した。天空の悲鳴が暗夜に轟く。

 先刻と同様に急所。致命傷だった。

「──っちゅうのが仮説なんやけど、当たっとるみたいやな」

 天空がぶつぶつと何かを呟きながら倒れ伏した。

 紫電が頭部で弾ける。


 と、世界は元の姿を取り戻した。眩い落陽が田畑の向こう側で沈みかけている。時間はそう経過していないようだ。

 リボルバー側のサムピースに鍵を挿しこみ左に回して内部安全装置をロックした。撃鉄に『LOCKED』の文字を刻印されたタブが現れる。

 拳銃をホルスターに収めて、地に伏したままの天空を見やった。

 純正の神にしてはあまりにも呆気ない最期だった。

「晴明に破れ、気が遠くなるほどの間、傀儡として操られ。ようやっと奴の呪縛から逃れたと思った矢先に、これだ。笑い話にもならん」

 天空は自虐的に笑って続けた。

「ああ、寒くて冷たい。初めて知る感覚だ」

「失血死。君がこれから身を以って経験する死因や」

 元々反物質の存在として生まれ、器官を持たない真怪であろうと、悪性に触れた怪異は人類側の法則に従わざるを得ない。人型を採用しているのも輪をかけてまずかった。それでは益々、アカシャからの影響を受けてしまう。

 悪性で怪異を退けることができる人間は生まれながらに悪性を持っているということの証明であり、だからこそ玉井は性悪説を絶対的に信じていた。

 生まれ持った悪性を抱えながら、しかし自らで形成した善性を以てそれを退かせることができる。そんな人間は一握りしかいない。

 この世界はきっと異色膾炙だ。偏在する隣合わせの世界は、もっと平和であるといい。

 などと詮無いことを考えながら、真怪が朽ちていくのを見守った。

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