十話 在処

「図々しい頼みだとは承知している」

 学舎の一室。沈みかけの落陽が煌々と朱を齎している。

 風が吹き、白いカーテンが揺れた。

 部屋の隅には背子と名乗る少女が、気まずそうに俯いている。

「気にする必要はない。むしろ願ったりだ」

 諦めかけていた怨讐の排除を実行に移せるのだ。不満などある筈がなかった。

「送ってくれ、椎倉の下に」

「ああ」

 背子が歩み寄り、胸に触れた。

 肩まで伸びる黒髪の下で、彼女の眉間が絞られる。

「二階堂を頼む」

「委細承知した」


 轟音。それと圧縮。全身に強烈な浮遊感が襲う。まるで不可視の箱に詰め込まれて凄まじい速度で運ばれているかのようだ。それは背子の世界に来た時と全く同じ感覚だった。

 経路を辿り、二階堂の中から出でると霊体は解凍されて。

 再び現世へと舞い戻った。

 瀕死である椎倉の身体に入りこみ、裡なる真怪を呼び起こす。

「び、ぶ、じ」

 ひつじ

 司るのは恒常性。春夏秋冬、喜び表す。いかなる状況耐え忍び、無垢なる日常希う。十二の位で最も善性。

 天将太裳てんじょうたいもここに在り。

 椎倉の切り裂かれた喉を瞬く間に治癒。流れるままになっていた血も堰き止められた。

 何事もなかったかのように立ち上がり椎倉は──晴明は言った。

「久しぶりだな。いや、初めましてだ」

 倒れる二階堂の前に出て、うすら笑いを浮かべる少年と相対する。

 記憶の臭気で瞬時に理解した。

 目の前の少年は間違いなく。

 やっと出逢えた。

「なに言ってんだ、お前。というか、どうしてあの傷で生きている」

 少年は──道満の贋作は、本質からかけ離れた言葉を並べた。

 思わず嘆息が漏れる。やはり。

「君は、贋作過ぎるくらいに贋作だな」

 言葉には心底からの憐憫と皮肉と侮蔑を混ぜた。

「……意味不明だが、まあいいや。殺す」

 道満の贋作は舌を打ち、「三番」言った。

 本物の道満であれば、瞬時に状況を理解し問答無用で晴明の排除にあたっただろう。有無を言わせず椎倉を屠り真怪を呼び起こす隙すら与えなかった筈だ。

 対峙する前に決着をつけている。道満はそういう怪物だった。だからこそ晴明は一度彼に敗れた。だからこそ道満の実力を認めていた。

さる

 不可視の攻撃を天将白虎てんじょうびゃっこが防いだ。

 紫電の物質化。それは無形だった。故に打撃以外にも形状変化が可能。つまり刃物としても解釈できる。白虎は司る要素を悉く無効化した。

 晴明が治癒を果たし、こうしてこの場に立っている。その状況こそが眼前に立つ少年の真性を損なわせ、何より道満が劣化していることの証明となった。

 積年の眠りが馬鹿らしくなり、自虐的に口角を上げる。

 伝説再現。甲羅を持つ。富と繁栄司る。呼び起こすのは更なる要素。異界渡りの座標移動。

 天将玄武てんしょうげんぶが咆哮した。

「無病息災混沌邪悪」

 青白い巨躯を持つ天将玄武が二つ目の要素を発現させると、指定した対象を刹那の間に移動させた。


 視界が切り替わる。周囲には緑茂る木々だけがあり、そこは沓谷くつのやと呼ばれる森の中だった。

「い、一体何が……!」

 道満の贋作が狼狽する。

 晴明は畳み掛けた。

 朱い炎が立ち昇る。翼はためく尾を持つ災禍。天を仰げばそれは居る。雲を泳いで霧を吹く。

 天将騰虵てんしょうとうだが轟いた。

「鑑!」道満の贋作が吠えた。

「無駄だよ」

「ぐ、ああ、あ、熱い、熱い熱い熱い!」

 贋作の周囲に展開された無数の護符を天将騰蛇は焼き切った。

 彼が『鑑』と呼んだ術式はとうの昔に看破していた。道満の記憶を引き継いだ者が最終的に辿り着くだろう極地。

 蘆屋道満大裡鏡あしやどうまんおおうちかがみ

 歌舞伎の一演目にもなった浄瑠璃作品じょうるりさくひん。道満を善人として描いたそれは、人々の認識に根付いた。道満の贋作が扱う術式『鏡』は、ひとえにその認識を利用したものだ。

 演目の主人公である道満は必ず勝つ。主人公であるのだから、あらゆる困難を突破できる。つまり世界に道満を主人公だと思っている人間が一人でもいる限り、道満への攻撃は通らない。贋作の場合は、道満の記憶を持つ者を害することはできないといった仕様だろう。

 晴明に『鑑』は通じない。

 道満が主人公であるという認識よりも、晴明は善人で主役であるという認識の方が遥かに大きいからだ。

「三番!」

 不可視の紫電が唸り、炎を払った。

 多少は鏡の抵抗力があったようで、道満の贋作は健在だった。

「一番!」

 先刻まで異物──イブを貫いていたいた和服の男が現れた。彼は凄まじい速度で駆け抜けると、刀を抜き振るった。

 首筋に凶刃が迫る。

 六壬りくじんは既に発動していた。

 刃の座標を最低限の所作で避け、

うま

 真怪を呼び出す。

 碧い炎が顕れる。司るのは破手と知恵。翼を広げた口舌凶兆こうぜつきょうちょう

 天将朱雀てんじょうすざくが宙を舞う。

 果たして、刀を空振りに終えた男を天将朱雀は存在ごと悉く焼き尽くした。もはや再び使役することは叶わないだろう。

とり

 清廉潔白公明正大。老婆の姿は嫉妬の証。少女の姿は知恵者の証。

 天将大陰てんしょうたいいん、道筋示す。

 顕れた少女──天将大陰が進むべき道を指し示した。

 視界に光の筋が走る。それは道満の贋作に至るまでの最も安全な道のりだ。六壬の座標予測と合わせれば、接近は容易だった。

 四番、五番、と贋作が繰り出した悪行罰示式神は──

たつ

 ──黄金の蛇、天将勾陳てんじょうこうちんに存在ごと食わせた。

 それらの怪異も同様、二度と使役はできないだろう。

 悠々と歩きながら贋作との距離を縮めた。

いぬ

 それは黄砂を司る。十二の位で最も冷酷。不実と芸術。陽と陰。

 天将天空てんじょうてんくう、刃を纏う。

「鏡! 何をしている! 起動しろ!」

 贋作がのけ反った。

「だから──」

 両腕に纏った砂の刃を振り下ろす。『鏡』ごと贋作を切り裂いた。

「──無駄だって」

 切り裂いた。切り裂いた。切り裂いた。

 鮮血が舞い、

「や、やめ、ろお」

 贋作は尻餅をついた。

 致命傷にならないようわざと手加減していた。痛ぶるのが目的ではない。贋作にはまだ役割がある。手足を振り乱してじりじりと後ずさる贋作を見下ろした。

「ま、まさか。ああ。思い出した。記憶の底にある。嘘だろ」

「劣化した記憶にも残っていたか。忘れているとは贋作甚だしいな、君は」

「十二天将──」

 贋作は息を荒くして、

「──使役する者はただ一人。安倍晴明」

 震える声を吐き出した。

「まさか現存していたなんて……」

 討伐。調伏。そして傀儡として使役するかつての怪物。地球に生命が誕生した時から存在する純粋な超常現象、真怪。遥か昔、人々に厄災を招いた十二天将。

 それを操れるのは当然、調伏した本人、安倍晴明以外にあり得ない。

「気づくのが遅いよ、贋作」

 こめかみが痙攣した。道満の劣化した記憶だけを持ち歩き、かつての道満を穢す贋作の有り様に明確な怒りを覚えた。

 砂の刃を構えて追い縋る。

「く、来るな!」

 贋作が喚き散らした。

「前鬼! 後鬼!」

 二体の鬼が立ち塞がる。

 それはかつての道満も使っていた思業思念体。人造式神だった。初めて対峙した時には相当に苦戦したものだが、対処法を知った今では有象無象に過ぎない。

 砂を形状変化させ鞭のようにしならせた。両腕から伸びる二つの鞭は、現代で言うところのワイヤーだ。

 黄砂の凶刃は鬼の首を二体同時に刎ねた。思業思念体が悉く霧散する。

 後鬼を破れば前鬼が強化される。本領を取り戻した前鬼は、おそらく力を制御される前のイブに迫るほどだ。前鬼を破れば後鬼が夫の死を悼み、水瓶の中に敵を吸収する。故に二体同時に撃破しなければならない。

 それは実にいやらしい、道満らしいやり口だった。

「ぼ、僕を、殺すのか、晴明」

「結果的にはそうなるが、当然それだけに終わらない。浄霊だ」

「なんだ、それは」

「君は道満の記憶を受け継いでいる。金烏玉兎集きんうぎょくとしゅうに載っている禁忌を使っているね」

 道満の存在は追えなかった。

 魂の強烈な匂いがあれば辿るのは容易だというのに、それがないということは既に道満の魂はこの世に存在せず、記憶を持っただけの人間が跋扈している現実を示している。

 無数に生きる人間からそれを探し出すのは砂漠の中から一粒を探すに等しい。故に六壬による可能性の予測を使い、道満と相対できる時間の座標を見出した。来るべき日を待ち望み、土御門の家で積年の眠りについた。

「……それがどうした」

「それはつまり、この世に道満の記憶を持つ人間が何人もいるという最悪の事実を示している。道満の記憶を持った者が子を残し、生まれた子にさえ道満の記憶が宿っているのだからね」

 生まれた子は親となり子を残し、更に生まれた子もまた記憶を持つ。

「ああ、そうさ。だから僕が死んだところで他の僕が必ず大願を達成する」

「大願。簠簋抄ほきしょの書き換えだろう」

 両腕の砂を霧散させて、臀部を地につけながら退く道満に追い縋る。

「そこまで看破しているとはな。ああ。過去に戻り晴明を今度こそ殺し、ふざけた解釈を綴った簠簋抄を書き換える。するとどうだ。現代の誤った認識は正され、道満の真なる伝説が蘇る」

「贋作。君は道満本人ではないのに、どうしてそこまで大願に拘るんだ」

「何を言ってる。僕は道満。蘆屋道満だ」

「劣化した記憶を持ち、かつての大願だけを抱える君が道満の筈ないだろう」

 贋作の自意識は勘違いも甚だしかった。思わず鼻で笑う。

「ふざけるな。僕は道満の記憶を持ち、道満の技術を持っている。それは紛れもなく道満自身だ」

「違う──」

 被せ気味に否定した。声には自然と怒気が宿る。

「──道満の魂はもうこの世に存在しない」

「ここに在る! 記憶と血を受け継いだ僕自身が道満だ。記憶と血。魂はそこに宿る。そうでなければ僕はなんなんだ!」

「だから贋作だと言った。純真な魂を道満の記憶で塗り固めて、あたかも道満であるかのように振る舞うその愚かさ、虫唾が走る。道満のガワだけを被った誰でもない誰か。それがお前だ。お前の正体だ、贋作!」

 贋作と不必要に言葉を交わす意味はなかった。目の前で無様に狼狽する男は道満ではない。だというのに、晴明は贋作との言葉の応酬に囚われ始めていた。

「違う違う違う違う違う──」

 贋作は頭を掻きむしり、

「──そうだ。この術式が、鑑が何よりの証拠じゃないか。蘆屋道満にしか反応しない鏡は僕が真作である事実を示している」

「痴れ者め。自分で組んだ術式の本質すら掴めていないとはな。それは道満に反応しているのではなく、道満の記憶に反応しているに過ぎない。真の道満がその術式を使えば身を守る程度に収まらない。術の強度がまるで別物になる」

「本質が見えていないのはお前の方だ。生まれながらにして記憶を持つ僕は道満の生まれ変わりであって然るべきだろう」

「魂は唯一のものだ。複製も受け継ぐこともできん──」

 故に晴明は道満を見つけることが叶わなかった。金烏玉兎集で記憶の複写をしたのだと気づいた時には時既に遅く、晴明は寿命の尽きる間際に居た。

 確証はなかった。しかし僅かでも可能性があるのなら見過ごすことはできなかった。魂が人類の膜に吸収されればそれで終わりだ。霊体のままでは膜に引っ張られ道満の捜索はままならなかった。魂を後世に残し眠る他なかった。

「──お前は自分を道満だと思い込んでいる質の悪い屑だ。人を塵のように扱うその悪性だけがお前のモノだ。贋作!」

「この悪性だって道満のモノだろう!」

「断じて否!」

 道満は晴明にしか執着できない男だった。人の命になど興味はない。殺すほどの関心すら持てない哀れな人間だった。

「奴は狂人ではあるが、悪人ではない。生涯手にかけたのは私だけだ。お前はどうだ。一体どれだけの人間を屠ってきた!」

「覚えている筈がない。どうせ簠簋抄が書き変われば、世界も上書きされる。いくら殺したところで意味ないだろう」

「それが殺していい理由になるものか。私は覚えている。この争いで現代人を二人。私を裏切った細君。そして本物の道満だ」

 本物という単語は殊更に強調した。

「細かい奴。僕だって何も無意味に屠っていいたわけじゃないさ。存在が希薄になり浮遊霊と化す前に回収し、次元に穴を空ける資源として使うつもりだ。そして特異点を流用すれば、ようやく術は成る」

 それも金烏玉兎集の禁忌だった。他にも方法はあるだろうに。贋作は最も邪悪で醜悪な手段に手を染めていた。他の贋作は別の方法を摂っているのだろう。そうでなれけば記憶を持った者同士で示し合わせ、とうの昔に術は完成している。

 やはり目の前の贋作は、生まれながらに悪性を帯びているのだ。

 かつての道満が魂は唯一のモノだと気づけていれば。記憶を託す擬似的な転生など試みなかっただろう。純正の魂から生まれた思考でなければ、それは真に道満本人の意思だとは言えない。それはただの独り歩き。記憶を持った他人が、身勝手に歩いているに過ぎなかった。

「悪性だって、お前の思い込みだよ晴明。道満は元々こういう奴だった」

「もう……うんざりだ。この世から悉く消去してやろう」

「僕は真作だ。魂の在処は僕が決める」

 贋作は立ち上がると、紫電を手繰った。

 破れた服の隙間から覗かせる式札が閃く。

 思わず目を細めた。借り物である椎倉の髪が靡く。

「魂の在処は生まれながらに決まっている」

 魂と融解した真怪を呼び出した。

うし

 十二の頂点。方位神。富と豊穣司る。北斗七星から堕ちた。

 天将貴人てんじょうきじんが稲を産む。

「番外」

 漆の影が四方八方から贋作の下に集い、彼の肉体を包んだ。

「僕らの共通認識。それを集めて一つに」

 刃となった稲の応酬が贋作を襲う。

 しかし。その悉くを器用に避けると、贋作は変身した。

 おそろしい速度で骨格が変わり髪は腰まで伸びた。瞳は切れ長に冷たい色を宿す。骨ばった鼻梁が隆起し、肌はみるみるうちに青白くなった。

 贋作は寸法の合わなくなった服を破り捨て皮と骨だけの貧しい身体を晒した。肉体の表面には数枚の式札が埋め込まれている。

 服の一部を髪留め代わりに長髪を結うと贋作は笑った。

 それは形だけを完璧に模倣した蘆屋道満の姿だった。

「久しいな、晴明」

 贋作は懐かしい声音を震わせた。

「気取るなよ──」

 いくら姿形が真に迫ろうとも。

「──所詮、お前は演者に過ぎん」

「あの時の続きだ。橋の上での決戦。それを今ここでやろう」

「もう喋るな。それ以上、私たちの記憶を穢すんじゃない」

 貴人が吼えた。鋭い稲が夥しい死の切先を放つ。

「まだ十二天将を従えているとは。見上げた精神力だ」

 贋作は紫電を手繰り怪異と成した。稲が悉く撃ち落とされる。

「少年が云うところの、三番だ」

 贋作は突如として出現した手斧を握った。凄まじい速度で稲を避け、時には稲を斧で切り落とした。

 徐々に贋作との距離が縮まる。貴人から稲を一本受け取り刃と化した。

 手斧と稲がぶつかり、火花が散る。

「もう一度、首を落としてやるぞ、晴明!」

「気安く呼ぶな、贋作!」

 剣戟が真昼の森に響く。紫電で膂力を強化した者同士の切り結びは、時にかまいたちを生み出して、双方の肌を切り裂いた。

 稲の応酬が贋作を襲う。が、華奢な身体に見合わない膂力を以て、その悉くが切り伏せられた。

 後方に飛び退いて距離を取り、真怪を呼び出す。

「卯」

 秘め事暴き。優柔不断な態度を嫌う。禁則破れば男は猛り。無類の力を発揮する。

 天将六合てんじょうりくごう、その目で問う。

「一つ、破ったな」

「そうだ」その言葉に思わず首肯した。

 真贋曖昧な態度に六合は憤怒した。

 猛る真怪は瞬く間に贋作との距離を詰めて斬撃を切り抜けると、禁則破りの罰を乗せて拳を振るった。展開された鏡を貫く。

「これはまた──」

 骨の砕ける音が鳴る。

「──懐かしい!」

 贋作は拳の刺さった腹を抑えて後退するも稲の強襲をその身に受けた。

 稲の数本が右腕を貫き、手斧も砕けた。

 六合も止まらず、稲の動きに紛れて贋作を叩き伏せる。

 地を転がる贋作は、いつの間にか脇に巨大な水瓶を抱えていた。

「後鬼ィ!」

 瓶が振動し渦を巻き起こす。それは貴人だけに反応し、彼女の体を絡め取った。夥しい稲とともに貴人が瓶の中に吸い込まれる。

「思業式神は応用の世界さ!」

とら」

 それは東の河川に棲む。吉兆齎す龍の神。しかして陰で人を喰う。

 天将青龍てんじょうせいりゅう、宙を舞う。

 背の高い木々が空を隠す中、青を隠すように巨龍が顕れた。

 青龍の雄叫びが空気を震わせ、鋭い牙は贋作に迫った。

 その動きと合わせるように六合も駆ける。

 果たして、六合の拳を避けた贋作の隙を突いて、青龍の牙は彼の右腕を捉えた。

 血飛沫が舞う。

 贋作の腕は龍の胃袋に消えた。

「く、は、はは」

 漁業と航行司る。かつての黙娘もくじょう、天に召し。母性の象徴。信仰得た。

 天将天后てんじょうてんこう、命を成す。

 贋作の背後に出現させた天后は、袖を振り乱し手刀を振り下ろした。

 天后に膂力はない。が、彼女の身体に触れた者は等しく命を得る。

 手刀の軌道。そこにあった贋作の左腕は触れた先から魚と化した。

 秋刀魚さんままぐろあじあゆいわし海月くらげ。様々な種類の魚が地に落ちて、それと同じく贋作の左腕も切り離された。水瓶が割れる。

 贋作は姿勢を崩して地に転がった。

 水瓶の中から稲が迸る。それは贋作を稲が巻き取り、宙で磔にした。

「やはり、勝てんか」

 贋作は自虐的な笑みを浮かべた。

「未」

 失血死されてはこれから行う術式が起動できない。未の治癒力で贋作の傷を治した。滝のように流れていた血が止まる。

 我ながら圧倒的な展開だった。それもその筈。道満の姿形に近づけば近づくほど。かつての陰陽師に立ち返れば立ち返るほど。道満は晴明に勝てなくなる。

 道満は晴明に敗北する。だからこそ蘆屋道満なのだ。それは贋作であっても例外ではない。

「僕を殺したところで、意味はないぞ。途方もない年月をかけて集めた超質量が無に帰すのは無念だが、他の僕がいつか必ず大願を成し遂げるだろう」

「だから言っただろう。浄霊だ」

 十二天将。未だに意志を持つ真怪。それらを全て一つにする。

 そして道満の記憶を持つ者の血を捧げ、同じ匂いがする者から魂を引き抜く。

 天将が持つ強度の高い魂と混ざれば、人の脆弱な魂は文字通り消える。人類の膜に到達することすらできずに、現世から消滅するだろう。

 そして道満の痕跡は、この世から悉く消え失せる。

「今こそ集え、十二の将」

 掌に傀儡となった全ての真怪を凝縮し、空に放つ。それは十二色の玉となり回転を始めた。稲の一本が贋作の身体を切り裂くと、流れ出る血は回転する玉の中へと消えた。

 やがて。夏の空に流れ星が舞う。

 それは全て道満の記憶を持つ者の魂だ。

「まさか、晴明、貴様」

 贋作の顔から薄ら笑いが消える。

「全ての怨嗟。あらゆる恩讐。過去の亡霊よ。十二の魂に溶けて消えろ!」

「やめろ、やめろおおおおおお!」

「急急如律令!」

 十二色が弾けた。

「晴明ィィィィィィィィィィィィ!」

 森に贋作の慟哭がこだました。

 凄まじい速度で回転を続ける十二の魂は、やがて円となった。道満の記憶を持つ魂を攪拌し溶解させる。老若男女の嘆きが響いた。

 果たして、回転を止めた十二の魂は天高く昇ると、割れた硝子細工のように弾けた。

 もはや人の世に真怪は必要ない。厄災を振り撒きながらも文明を後押しした彼らの役目はとうの昔に終わっていた。神に等しい純正の神秘が無くても、現代の人間は科学という術式でどこまでも進んで征ける。

 贋作を縛り付けていた稲は崩れ、宙から空の肉体が地に落ちた。

 白目を剥いた哀れで無血な男の死体を見下ろして、独り呟く。

「道満、君の試みは失敗だった。どうして君ほどの秀才が、この顛末を予想できなかったのだ。それほどまでに私が憎かったのか」

 一欠片残しておいた騰虵の炎で贋作の身体を焼き尽くした。


 沓谷の森を抜けると、晴明らの死闘など知らず顔で白々しい日光が網膜を焼いた。眉間を絞り目を細める。

 積年を経た怨讐との決着。晴明の中ではひどく長いようにも短いようにも感じられる目的の達成。犠牲者を出したとはいえ、それは俯瞰的に見れば世間からすれば無関係で。変わらず時間は進んでいく。

「よう。終わったのかよ」

 大木に背を預けた二階堂が訊いた。服は破れ血を流し、絹のような黒髪は秩序なく乱れている。彼女も身勝手な怨讐に巻き込まれた一人だった。

「ああ。もはや悔いはない。ようやく土御門を私から解放できる。十二神も空に消えて。私もとうとう存在を保っていられない」

「遠くから見ていたけど、あれが例の道摩法師だったのか?」

「……間違いないよ」

「……そうか」

 二階堂の隣で隠れるようにして、怯えた眼差しを送ってくるイブに気づく。

 彼女を見やり続けた。

「君にも酷いことをしたね。しかし、私は道満との決着を、後始末をしなければならなかった。それが間違いだとは思えない。故に私は謝れない」

 イブは一歩を踏み出し、かぶりを振った。

「人間的に見て、道摩法師の疑似人格を残しておくのは危険。どうしても成し遂げたかったという君の意思は否定しない」

「そうか。そう言ってもらえると、少しは心が楽になる」

 沈黙の空隙。蝉の情欲に満ちた鳴き声が厭に耳へと響いた。

 二階堂が口を開く。

「それで、この後はどうするんだよ」

「私は間もなく人類の膜に吸収される。その前に椎倉への言伝を頼みたい」

「ああ。聞いてやる」

 椎倉も心の裡で聞いているとは思うが、念押しだった。万一にも聞き逃すようなことがあれば、この後の顛末に支障が出てしまう。

「人類の膜に吸収された後でも、私ならば少しは工面が可能だろう。気休めにもならないだろうが、望むのであれば君の存続は私が保証しよう」

 六壬で観測した椎倉が辿り着くだろう座標を想い、嘆息した。

「それと、君はこの短時間で二階堂に情を抱いている」

「嘘じゃん」二階堂が鼻を鳴らした。

「嘘じゃないさ」借り物の口角が上がった。

「故に、二階堂を想うのであれば、この後すぐに帰りなさい」

 以上だ。と、言伝を締めた。

「世辞の句にしては短いな」

「潔いだろう」

「アホか。お前が本当に安倍晴明なら、平安の時代からだらだらと存在を保ってきたんだろ? どこが潔いもんか」

「……それもそうだ」

 二階堂の的を射た返しに笑いが漏れた。

 魂が強烈に誘引されている。やはり浮遊霊の待機列には参じることができないようだ。遥か昔に死した魂。優先順位が高いのだ。

「私が安倍晴明だとは、まだ認められんか」

 言葉にできる時間は僅かだというのに、借り物の口から漏れた台詞は至極くだらないものだった。

「私が信じよいうが信じまいが、お前には関係ないだろ。お前は自分のしたいことを成し遂げたんだから」

「そうだな」

 奇妙な浮遊感が襲う。まるで吊り糸を肩に付けられた人形のように、晴明の魂は宙に引かれ始めた。

「ああ。それと最後に──」

 紫電を発露させて、二階堂の頭に情報を直接流し込んだ。

 背子から事情は聞いている。彼女らは一人の友人を救い、人生を狂わせた怨讐を祓いたいのだという。そのためだけに背子は寂れた校舎と落陽以外に何もない退屈な世界で、長い間、待ち続けている。彼女らの怨讐と晴明が持っていた積年の目的には通じる部分があった。

 だから託してもいいと思った。

「──うまく使えよ」

「おいおい、こんなの使って、本当に大丈夫なのか?」

 紫電を通じて無事に情報を得たのだろう。二階堂は怪訝な顔で訊いた。

 その疑問は最もだった。

「一度だけだ。それ以上は脳が壊れる」

 託した奇跡は、椎倉のように類稀なる才覚を持つ者であればともかく、凡人が何度も利用できる代物ではなかった。

 しかし一度くらいなら問題ないだろう。行使すれば、おそらくひどい酩酊感に襲われると思うが、注意喚起する時間は残されていない。もはや椎倉の肉体にしがみつくことができなかった。

「物騒なモン寄越しやがって」

 最後に借り物の口で、

「では、もう逝くよ。言伝を頼む」

 言い残した。

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