飼っている

秋永真琴

飼っている

 実は入学したときからずっと好きだった。


 山田やまだ麻耶まやだけがいつも光っていた――って言うと、ちょっと違う。むしろ、暗かった。高校生活のはじまりを迎えて、高揚と不安できらきらしたエネルギーを振りまいている同級生の女子たちの中で、この黒いロングヘアの子がひとりだけ、周囲の華やぎとは無縁だった。夜の静けさをたたえている――そんなふうに僕の目には見えた。

 他の子とつき合っているときも、毎回、勝手に「山田さんに悪いな」という後ろめたさがあった。だから別れるたびにほっとした。そのくせ、一年生のときも、二年生のときも、麻耶とは友だちともいえない遠い関係だった。同じクラスになったこともない。


 麻耶は美術部で、絵のコンクールに入選して地元の新聞やウェブメディアから取材を受けたりしている子だったので、きっと芸術系の大学に進むのだろうと思っていた。だから三年生になる直前の三月、予備校の「地元国立文系コース」の春期講習でいっしょになったときは驚いた。まあ、画家になるってのが、地方の進学校もどきの美術部でエースだからってそうそう叶う夢じゃないことくらいは、僕にもわかる。

 話してみると、麻耶は思っていたよりも気さくな子だった。麻耶も「谷口たにぐちくんは、私みたいな子とは仲よくしない男子かと思ってたわ」なんて言って、僕を好ましげに見つめるのだった。


 まさか――と僕の理性は首を横に振ったけど、行ける――と僕のこれまでに培った経験はささやいた。経験のほうを信じて麻耶との距離を詰めていき、結果、ゴールデンウィークの初日には、両親も姉も働いていて日中は誰もいない僕の家のベッドで、麻耶を腕の中に収めていた。

 こういうのは、うまくいくときは恐ろしいくらい都合よく事が運ぶものだ。でも、麻耶が僕の求める姿勢にも行為にも意外なほど素直に応じてくれるたびに、これまでの相手とは次元が異なる興奮で脳が焼き切れそうだった。

 

 麻耶の話には、川辺かわべという美術部の後輩がたびたび出てくる。

「高校まで絵を描いたことがないなんて信じられない。しんくんを誘って本当によかったわ」とか「慎くんが飼っているけものはすごいの。わたしなんか喰べられちゃったわ」とか、わざと僕を挑発しているかのような言葉を選んで、うっとりとその男の素晴らしさを語るのだ。けものというのは、才能とか衝動みたいなものの比喩だろうけど、僕の脳裏には言葉通りの、麻耶が狼みたいな獣とからみあう光景が浮かんでしまう。


 その川辺は、絶対に麻耶が好きだ。僕がいちど、ちょっと挨拶して話しただけで確信したのだから、部活でいっしょだった麻耶が気づかないわけがないと思う。しかし麻耶は僕を選び、いっしょにいるときは普通に僕に甘え、しかし「慎くん」の話は止めない。


 学校の自習室で勉強していても、たびたび美術室まで「慎くん」に会いに行く。そしてなかなか戻ってこない。

 いてもたってもいられなくなって、僕は麻耶を迎えに行く。


     *

 

「お邪魔しまぁす」

 僕が美術室のドアを開けると、絵のキャンバスの前で、麻耶と川辺が肩を並べて座っている。一瞬前まで身を寄せていたんじゃないかという妄想が胸を灼く。

「山田、やっぱりここ! 川辺くん、入っていい?」

「――どうぞ」

 とは言うけれど、川辺が僕を見る目は心底から邪魔そうだ。その視線を受け止め、僕はゆったりとした笑顔で、ふたりに近づいていく。

「どうしたの、谷口」

 人前では苗字で呼び合っている。麻耶、蒼大そうた、と下の名前で呼び合うのはふたりきりのときだけだ。

「こっちが『どうしたの』だよ。山田、なかなか自習室に戻ってこないから」

「ごめんなさい。少し顔を出すだけのつもりだったんだけど」

「見とれちゃったんだ、これに」

 僕は川辺の風景画とも抽象画ともつかない絵を目線で示す。

「いい絵になりそうでしょう」と、麻耶は誇らしげに言う。

 もちろん僕には描けないけど、どこがどういいのかよくわからない、なんだかぼんやりした絵だ。麻耶の絵は上手いと思うけど。

 もう少し婉曲な言い方で麻耶にそのことを言ったときがあるけど、麻耶は「蒼大はそれでいいと思うわ」と微笑むだけだった。初めて麻耶に怒りを覚えたのはその瞬間だ。

「うん。濃いと思う」

 当たり障りのない感想の後に、僕はこんな言葉を喉から押し出した。

「山田は本当に川辺くんが好きだね」

 麻耶は一瞬だけ――僕に向けたことのない、すがるようなまなざしで川辺と川辺の絵を見てから、僕にはいつもの雰囲気で「ええ、好きよ」と言う。

 僕は努めて明るく「おぉ」と冷やかすような声を上げる。

 川辺は無表情だが、苛立ちが殺意にまで高まっているのが、僕にはわかる。麻耶にはわからないんだろうか――本当に?

「そろそろやるよ、山田。はい立って」

「そうね」

 立った麻耶は名残惜しそうに「じゃあ、行くわ」と川辺に行った。

「がんばってね、川辺くん。高二の夏は最後の楽園だよ」

 僕は川辺の肩を撫でるように叩く。馴れ馴れしく。感じ悪く。余裕を篭めて。

 川辺のけものとやらは、さぞ悔しそうに身体の中で暴れているだろうと思い、僕は少し溜飲を下げる。


     *


 その日の夜に麻耶を叩いた。撫でるようにじゃない。本気のビンタだ。

 麻耶を打った手がぶるぶると震える。心臓が倍の大きさになったみたいに激しく脈打っている。

 赤くなった頬を押さえもせず、裸身を隠しもせず、麻耶はベッドの上に座って、立ち上がった僕を見上げた。僕に対する恐怖や怒りの気配はない。痛ましそうでもあり、なぜか嬉しそうでもあった。

「途中なのに、もういいの?」

「ふざけんな」

 抱き合って高まったときに、切なげに「慎くん」とつぶやいた後悔を、麻耶はみじんも感じさせない。こんな間違い、本当にする女がいるのかよ――

 ある想像が、僕の背中を凍らせた。うっかり間違えたのでは、ない?

「もう、蒼大の家には来ないほうがいい?」

「な――」

 いきなり、その段階の話を麻耶が始めて、僕はますます混乱した。

「蒼大とはもう会わないほうがいい? つらいならそうするわ」

 麻耶は意外と素直に甘えてくるけど、僕を試すようにして、拗ねた台詞を言ったことはない。そんなことを言うのは、本当に、そうなってもいいからだった。それがわかるくらいには、僕は麻耶のことを考え続けてきたのだった。

 僕は、麻耶にのし掛かる。

 麻耶の気持ちが全て「慎くん」のところに飛んでいってしまわないように、声を上げて泣きながら、麻耶の身体を固く抱きしめる。

 飼い犬の毛並みを確かめるように、麻耶は僕の頭をやさしく撫でる。

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飼っている 秋永真琴 @makoto_akinaga

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