プロローグ 

プロローグ 記憶の不死

 私は、眠りたくない。

 きっと、嫌な夢を見るから。

 思い出したくない記憶が、頼みもしないのにやって来るから。

 誰だっていい、私からすべての記憶を消して――



 深夜の当直室は、冷たい静けさで満たされていた。しかし静寂とは破られるためにあるものだし、当直という制度は有事が発生することを見越して設けられている。そして床頭台に設置されている院内電話が突然に、その役目を律儀に果たすかのように電子音を発した。

 涼子りょうこはベッドの上にがばりと跳ね起きると、赤いランプが明滅している電話機を食い入るように見つめた。軽やかな呼び出し音が凶兆を連想させて、呼吸と心拍が無意識に荒くなる。

「……はい、平野ひらのです」

 わずかに逡巡しゅんじゅんした後で受話器を上げた涼子は、果たして自分の予感が的中したことを知った。

「平野先生、急変してます! 先生の患者の高木たかぎさん、三一五号室の。巡回したときには意識がなくて、心電図モニターもフラットで……はい、呼吸も止まっています。至急、病室までお願いします!」

 涼子は当直室で眠ったことがない。何事も起きなくても、神経が張り詰めていて眠れないのだ。備品のデジタル時計は午前三時十六分を示しており、つけっぱなしの液晶テレビはカラフルな幾何学模様を映してとっくに放送終了を告げていた。

「高木さん? 手術してから、もう一カ月近くも過ぎてるじゃない。どうして……」

 どうして。自分が手術した患者が、自分が当直の日に限って心肺停止なんて。混乱した頭の中で、涼子は自分の運のなさを呪った。まったくついてない。

 思わずため息をついてから、強烈な罪悪感と自己嫌悪が涼子を襲う。ばか、そうじゃないでしょ。今考えるべきは、どうして急変したのか、そしてまずは何をしなければならないのか、ということのはずなのに。それを何だ私は、自分のことばかり考えて。

「とにかく部屋を移して心マ、挿管そうかんするから準備して。ご家族に連絡、すぐに病院に来てもらって」

 コールが鳴る前からすでに覚醒していた涼子は、パジャマ代わりに着ていた術衣の上に白衣を羽織ると、当直室から飛び出していった。


 やるべきことは。点滴ルートの確保、心臓マッサージ、気管内挿管。

 回復しなければ。死亡確認、家族への説明と病理解剖の提案。希望がなければ、死亡診断書の作成、病院からの見送り。

 緊張から生じる吐き気をこらえながら、誰もいない深夜の廊下を涼子は駆けた。

 この仕事を選んだ時から、覚悟はしていたはずなのに。私、ドクターなんだから。しっかりしなきゃ。

 涼子は自分の感情を殺しながら、急変した患者がいるはずの病室の扉を開いた。

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