亡き親友を偲びて、新たな想いに焦がれる

第21話

 年季の入った猪口に透明な清酒を注ぐと、朧は誰も座っていない、盆を挟んだ反対側に置く。

 弥生の着替えを用意した朧は清酒を入れた徳利との猪口を用意すると、全ての明かりを消した暗い縁側に座って一人酒を嗜んでいたのであった。


(あの娘はもう寝たのか?)


 離れたところで襖の開閉音が聞こえてくる。耳を澄ませながら猪口を傾けていると、床板が軋む音と共に足音が近づいて来たのであった。


「眠れないのか。それならお前も月見酒でもどう……」

「相変わらずしけた顔をしているな、朧」


 弥生だと思って振り返らず話していた朧だったが、二度と聞けないはずの声が聞こえてきて手が止まる。振り向くと、そこには亡き親友が最後に会った時と同じ姿のまま、何食わぬ顔をして立っていたのであった。


「弥彦! お前は死んだはずじゃ……」

「死んだよ。今のおれはやよちゃんに宿っている風鬼の魂に残った意識。やよちゃんの身体を借りて実体化したんだ」

「やよって……あの娘はどうした?」

「疲れて眠っているよ。死んで鬼になって、力が暴走して散々な目に遭ったからな。布団で横になったらすぐ寝落ちしたよ……。で、いつやよちゃんが目を覚ますか分からないから単刀直入に言う。朧……今すぐ脱げ」

「脱げってなんだ。まさかお前そっちの気があったのか。それとも死んでようやく本性が……」

「ちがうちがう。勘違いするな! お前の背中の傷が心配なんだ。落ちてきた瓦からやよちゃんを庇った時に背中を怪我しただろう。隠しているみたいだがバレバレだぜ」

「別に隠しては……」


 弥彦の言う通りだった。廃社となった拝殿の屋根瓦から弥生を庇った時に割れた瓦や瓦の欠片が礫のように朧の背中に当たっていた。幸いにも頭に当たらなかったが、鬼の力どころか妖力も無い、人間も同然の今の状態で当たっていたら、命は無かったかもしれない。

 湧き水を汲みに行きつつ軽く背中を冷やしたが、腫れも痛みも引かず、弥生と話している間もずっと痛み続けていた。本当は家から飛び出した弥生が靴を履いていないことに気づいていたものの、朧は弥生を背負うことも手を貸すことも出来ないどころか、怪我を悟られないようにして、どうにか平静な振りをするのが精一杯であった。

 歩いている間も傷口は疼き続けていたので、朧は背中を丸めて歩いていたが、いつ弥生が気付くか気が気じゃなかった。家に着くまで弥生と話すことで、どうにか自分から弥生の目を逸らさせたのであった。


「お前のことだから、力を暴走させたやよちゃんがますます自己嫌悪に陥らないように気を遣ったつもりだろう。でもおれは気づいてたぜ」

「お前以外に誰が気づいていたんだ」

「そのやよちゃんだよ。気づいていたけど、お前が何も言わないから聞けなかったみたいだな」

「気づいていたのか……隠した意味が無かったな」

 

 朧は深い溜め息をついてしまう。結局本人に知られてしまった。偶然とはいえ、たまたま手に入れてしまった鬼の力を暴走させて落ち込んでいたから黙っていたというのに。

 頭を押さえて苦い顔をしていると弥彦に一笑される。


「意味はあったさ。お前が隠していたからおれが出て来られたんだ。もしやよちゃんに正直に話していたらおれの出る幕は無かった。こうして過去の人間が出て来て話しをするつもりはなかったさ」

「過去の人間って言うな。お前は今もあの娘の中で生きているだろう」

「死んだ以上、もう過去の人間だよ。今のお前は夢を見ているんだ。三月は夢見の月というからな。ほら、早く背中を見せろ。やよちゃんが目を覚ます前に」


 渋々、朧は羽織を脱いで帯を緩めると上半身を脱ぐ。その間に軟膏を持って来た弥彦が後ろに座ったのだった。

 

「こいつは酷いな。あちこち痣だらけだ」

「そこまで酷いのか?」

 

 自分では背中が見えないので分からないが、そこまで酷いのだろうか。弥彦は「ああ」と首肯すると遠慮なく背中に触れてくる。やはり傷口が熱を帯びていたのか弥彦の冷たい手と軟膏が気持ちいい。

 気の置ける親友に身を委ねていると、急に痛いところをぐりぐりと押されて、朧は声にならない悲鳴を上げる。


「痛かったか?」

「……ああ」

「痣になっているからな」


 痣になっていると分かっていながら押してきた弥彦を睨みつけると、弥彦は失笑しながら軟膏を指に取って痣に塗ってくれる。

 子供の頃は弥彦とあちこち遊び回り、時には喧嘩をして怪我を負っていた。その度に、弥彦共々母親に𠮟られながら、こうして軟膏を塗ってもらっていた。

 母親が亡くなり、弥彦も死んだ以上、もう背中を晒して薬を塗ってくれるような家族も心友もいないと思っていた。今回の怪我も自分の手の届く範囲にない傷は何の手当てをしないつもりだった。

 それなのに家族も同然の亡き親友が心配のあまり、巻き込まれただけの人間の身体を媒介に現れてしまった。昔と同じように傷口に軟膏を塗って、寝間着を着直すのさえ手を貸してくれる。この時間が過去のものだと、まだ認めたくなかった。


「今ので軟膏も結構減ったな。買い足しておいた方がいい。そして明日はやよちゃんに塗ってもらえ。嬉しいだろう、可愛い女子に軟膏を塗ってもらえて。人間のやよちゃんも可愛かったが、鬼になった今のやよちゃんも別嬪だろう。お前好みに身体を作り変えたからな」

「あの娘の姿はお前が原因だったのか……。最初に会った時から、随分姿形が変化したから驚いたぞ」


 弥彦の鬼の力を取り込んだ後、意識を失った弥生の姿はみるみるうちに変化していった。初めて会った時の陰鬱で重苦しい雰囲気は消えて、優美な清らかさを纏った可憐な女性へと変貌した。まるで蛹が蝶に羽化するかのように。

 人があやかしになる瞬間に立ち会ったことがないので、こんなものだろうと思って見守っていたが、やがて変わりゆく弥生の姿から薄々あることを感じ始めた。そして目を開けた弥生を一目見た時には確信を持てた。弥生の頭の先から爪先まで、全て朧好みの理想の女性に変化していると。

 そんな複数の偶然が重なった喜びで沸き立つ心も、弥生に頭突きをされたことですぐに冷めてしまったが――。

 それでも麗しい姿に開花した弥生に微笑まれ、名前を呼ばれる度に、胸が高鳴ってしまうのは事実だった。気付かれる前にどうにかしたいが、これも弥生から自分の鬼の力を取り戻すまでの短い間だけのこと。しばらくは信望強く耐えるしかない。

 そういう意味でも、弥生からは早く鬼の力を返してもらわなければならない。そうしなければ、自分の願望を押さえきれなくなってしまう。

 弥生のことを知りたい、弥生に触れたいと、既に思い始めているのだから――。

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