第2話 ピッチャーです

 小学校低学年までの記憶はほとんどない。

 特に好きなことも得意なこともなく、かといって嫌なことも苦手だったことも思い浮かばない。

 野球を始めてからだ。自分のことで記憶があるのは。


 小学四年生の春に少年野球に入った。

 きっかけは忘れてしまったけど、始めて軟式のボールを握ったときの、指先に吸い付くような感触は今でもよく覚えている。


 その白い球を、私は同学年の誰よりも速く、誰よりも遠くに投げることができた。


 ストライクゾーンに投げる、ということを苦労することなくできていたから、チームで一番球が速くてストライクを投げられる私は、当然のようにピッチャーになった。


 そのころはまだ、野球をすることに対して特に問題はなかった。

 私が入った少年野球チームには、私以外男子しかいなかったこともあってか、多少奇異の目で見てくる人もいたが気にならなかった。

 問題は中学に上がってからだった。


 中学までは規則上、野球をプレイすることに対して男女の違いによる制限や区別はないが、高校では明確な切れ目がある。高等学校での男子硬式野球では、女子は試合に出られない。

 女子野球部のある高校なんて全国でも数えるほどしかなく、私の住む県内に限れば、調べた限り1校もなかった。


 ただ私の場合は、中学の時点で試合に出ることができなかった。

 それ以前に、仮入部をした翌日に野球部を辞めてしまったから。


 私の進学した中学の野球部は、女子の選手としての入部を認めていなかった。そもそも、そんな発想自体がないようだった。

 それでも体験入部ができたのは、顧問が私のことを男子だと勘違いしていたせいらしい。


 男みたい。普段は不思議と、そのような言葉を投げかけられることはない。

 けれど制服を脱ぎ、ジャージやユニフォームに着替えグラウンドに立つと、男子と勘違いされることも多かった。

 それは私が髪を長く伸ばしていないせいかもしれないし、顔立ちがあまり女性的でないのかもしれない。女子で野球をする人間が少ないから、先入観でそう思ってしまうのかもしれない。


 そのこと自体は別にどうでもよかったけれど、性別を明かすたび、女子だと話すたびにいちいちある問答は、以前からずっと鬱陶しかった。


 初めて体験入部に参加した翌日、クラスの担任教師を経由して私の性別を知ったらしい顧問が、体験入部2日目の活動開始直前に私の目の前で、それもわざわざ他の体験部員たちの前で言った。


片崎かたざき、だったか。悪かったな、男子たちと一緒に練習なんかさせて。女子なんだからマネージャー希望だろう」


 馬鹿か、喉元まで迫り上がったその言葉を、私は無理やり飲み下した。


 この男は、私が流されて練習に参加していたとでも本気で思っているのか。どれだけ間抜けなんだ、私は。


「いいえ、選手希望です」


 私がそう告げると、顧問の体がピクリと揺れた気がした。


「選手?」


 その単語だけ、私に向かって反芻する。声が微かに震えているように感じた。その震えは戸惑いからだろうか。僅かに怒りが滲んでいるようにさえ見えた。


「はい。ですから練習にも参加します。問題ありません」


「それを決めるのはお前じゃない」


 今度は明確に、声に怒気が乗っていた。練習に参加すると、私の方から言い切ったのがそんなに癪に障ったのだろうか。


「女子が野球部に選手として参加なんて、我が校で今まで一度もない。大会にも出せないし、入る意味もないだろう。そんなにプレイがしたいなら、ソフトボール部にでも入ればいい」


 さも当然みたいな顔で、まるで意味のわからないことを言い放たれた。

 調べた限り中学までは男女の区別はなかった。それになにより、


「野球とソフトボールは、まったく別の競技でしょう」


 私はソフトボールのことは詳しくないが、野球とはまったく別の競技だ。それくらいは分かる。


 ボールもまるで違う。野手の動きには多少似通った部分があるのかもしれないが、私は投手だ。投球フォームひとつとっても、ソフトボールは下手投げ限定だが私はオーバースロー、動きがまるで違う。


 そもそもが別競技だ。比べることがおかしい。私は野球にしか、野球のピッチャーにしか興味がない。


 けれど顧問も意見を変える様子はまるでなく、一方的に言い放つ。


「野球から派生したスポーツだ。まったくの別物というわけでもない」


「別物です」


 顧問の顔が歪む。

 そうしたいのはむしろこちらの方だ。だが目の前の男はそんな私に構う様子もなく、怒りを沈めるように息を吐き出す。そして言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


「野球部に女子が入った前例はないし、これからもない。ほかの部活を見てみろ。例えばテニス部だって、男子と女子で分かれている。なぜ分かれているかわかるか? 体力に、運動能力に男女差があるからだ。他にも理由はあるだろうが、それが一番大きい。無理に男子についていこうとしても身体が壊れるだけだ。まして野球は危険なスポーツなんだ。軟式とはいえ野球のボールは凶器になり得る。そんななかで、もしお前が怪我でもしたらどうする? 誰も責任が取れないし、誰も得をしない。悪いことは言わん。マネージャーになるか、それが嫌なら他の部活に入れ」


 言っている意味がわからなかった。

 理路整然と、少なくとも本人はそのつもりで言っているらしい言葉の羅列が、まるで頭に入ってこない。


「危険なのは男子も一緒でしょう?」


「女子だとそのリスクが高まる。打球についていけなければそれだけ怪我のリスクも高まる。接触プレイだって身体が弱いほうが怪我をしやすい」


 なら、あるのか?


「女子野球部があるんですか?」


「は?」


「女子野球部が、この学校にはあるんですか?」


「……ない」


「それなら、テニス部みたいな理屈は当てはまらないじゃないですか。サッカー部もそうでしょう? そのスポーツがやりたい人間はどうすればいいんですか?」


「だからソフトボールをやれと言っている」


 だから、お前はなにを言っているんだ。


 砂利の擦れる音がした。目の前の男がほんの少し、足を後ろに引いたらしい。生徒に、女子中学生相手になにをびびっているのか。後ずさるほど酷い顔をしているのか、私は。

 ……どうでもいいか、そんなこと。

 

 無言で硬直したままの時間に耐えられなかったのだろうか、私より先に顧問が口を開いた。


「お前、希望のポジションは?」


「ピッチャーです」


「なるほど」


 考え込むような数秒の間の後、顔をしかめたまま、顧問が口を開いた。


「片崎、マネージャーをやれ。練習には参加させてやる。ただし、やらせるのはバッティングピッチャーだけだ」


「は?」


「防球ネット越しに投げるのならリスクはだいぶ減らせる。他にもボールに触れない練習になら、参加させてやってもいい」


 させてやってもいい?


「これが最大の妥協点だ」


 なんで、こんなことを言われなければいけないんだろう。


 ただ野球がしたい、それだけのことにどうして他人の許可がいるのか。

 やらせてやる、なんて上から目線で、出てきたのはバッティングピッチャーだけならやらせてやるという言葉だけ。

 

 そんなものなら、いらない。


「それでしたら、結構です」


 そんな紛い物は、いらない。

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