世は巡る

シンカー・ワン

第1話 足取り軽やかに

 初秋の午後、雑居ビル群の片隅、一際古げな建物の一角。

 陽に灼けてあせた鉄製の扉には『烏丸からすま探偵事務所』のプレートが掲げられている。

「結果だけ申せば、御懸念の通り御主人は浮気をされていました」

 コンクリート打ちっ放しの素っ気無い内装をした事務所内、応接室に備え付けられたビニールレザーの表皮がほど良くくたびれている一組のソファー。その一方に窮屈そうに座る黒スーツの男が、頭を下げつつ申し訳なさそうに告げると、

「……やはりそうでしたか」

 黒スーツ男の対面、出入り口側に腰かけた生活に疲れた雰囲気を身にまとった女性が諦観に満ちた口調で洩らす。

「……覚悟はしていたつもりなんですけど、ね」

 手にしていた派手な格好をした若い女と髪に白いものが混じる中年が仲良さげに並んでいる写真を見て、力なく笑う。

 ソファーの間に鎮座する、調査資料が広げられたローテーブルに写真を戻し、深くため息をついてから居住まいを正して、

「――ありがとうございました」

 と深々と頭を下げた。正対して座る黒スーツの男も併せて頭を下げ「いえ、良い結果をお伝え出来ず……」と力なく返す。

 調査結果一式の入った書類封筒を手持ちのバッグにしまうと、請求書に記されていた安くはない調査費用を支払い黒スーツの男から領収書を受け取る。

 支払人の欄には『秋野あきの あかり』と記されていた。

 

 烏丸探偵事務所からの帰路、今日何度目かのため息をつくあかり。

 配偶者が浮気をしている。

 うっすらとは感じていたことだったが、ハッキリした証拠を見てしまうと、さすがにショックを受けた。

 夜の営みが途絶え、夫婦の会話が減り、あげく夫は外泊を繰り返し家を空けることが多くなってから数年が経つ。

 すでに夫婦として破綻していたのは確か。

 夫として最低限の義務からか毎月の生活費はキッチリ入れてくれてはいたが、いつまで続くかがわからない不安からパートで働き出してもいる。

 "自分で稼いだお金で最初にしたことが、夫の浮気調査だなんて、ね。"

 自嘲するあかり。

 子があれば今のようにはならなかったのだろうか? と何度も夢想した。

 妊活もした、体外受精だって試みた。

 けどダメだった。

 自分の卵子には受精する能力が乏しいことを、医師から告げられたときの絶望感は今も忘れられない。

 そう言えば、夫が家に居つかなくなったのは、子供が成せないことがわかってからだったなとまた嗤う。

 顔をあげる。仰ぎ見る空は澄んでいて、気持ちの靄も晴れていくよう。

 ――もういいか。別れるに十分な理由もある、ハッキリした証拠もある。

 お互いに原因があることを認めて、責任半分こで離婚しわかれよう。

 そんな気分の中、ふと思い出す言葉。

「あの……差し出がましいですがよろしければ……」

 "あの探偵さん……烏丸さん? いい人だったな。弁護士まで紹介してくれた。ああいうお仕事だから、弁護士さんとも懇意にしているんだろう。ある意味アフターケアもバッチリね。"

 そんな風に考える自分かおかしくて、口元に笑みを浮かべるあかり。先ほどまでの自嘲的なものとは違う、自然な笑顔だった。

 あのひととちゃんと話し合おう。もう無理して夫婦でいる必要はないと、お互い自由になりましょうって。

 あかりの足取りからは引き摺るような重さは無くなり、未来へと向かおうとする軽やかさが宿っていた。


 後日。

 秋野夫妻の協議離婚が成立した。

 間に入った弁護士が良い働きかけをし、理由もハッキリしていたこともあり、さほどもめることなく話は進みまとまった。

 実を言えば秋野氏の浮気相手は妊娠しており、彼にとってもあかりからの離婚の申し出は渡りに船だったようで、非は自分があるとして多くはないが慰謝料を支払うことを申し出る。

 わずかながらも慰謝料を手にしたあかりは秋野家を出て、小さなアパートへと移りそこで新しい暮らしを始めた。

 幸いアパートには良い住人が多くスーパーでのレジ打ちパートも順調で、裕福とは言えないが少なくとも離婚する前よりも充実した生活を送れていることを実感している。

 生まれ変わった気持ちで取り組んだからか、堅実でまじめな仕事態度に社員雇用を打診されるなど前途は明るい。

 月に数度、店で長身の黒スーツ姿を目にすることがある。

 立地的に遠い事務所から、わざわざこの店に来る理由は言わずもがなだろう。 

 なのにあかりのいるレジには絶対に並ばない妙な気遣いに、自然と笑みが浮かぶ。

 お店のスタッフ、アパートの住人たち、そしてあの探偵と、自分はひとりではなく支えてくれる見守ってくれる人たちが周りにいることを幸せに思うあかりだった。 


――次話に続く――

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