世界は接吻と引き換えに
南木 憂
1王城へ向かう道
故郷が恋しくなるのなら、両親の顔を見に帰るべきではなかった。
ルネは一人、朝の日差しに目を細めながら通りを一人で歩いている。
未だ寒さの残る春先であったが、太陽は徐々に人々より早起きになっていた。爽やかな朝だ。しかしルネにはまだ冬のように寒かった。それは心細さに起因するものだろう。彼女はこれから一人で、首都中央部にある王城へと向かうことになっている。
首都・ジルバーハーフェンの通りを歩き、大きめの広場へと出る。ここまで来ると王城のてっぺんが見えた。
この広場はルネにとって馴染みの場所だった。魔導師養成学校に通っていた頃、休日はよくここに遊びに来ていた。友人たちとお喋りに花を咲かせたカフェ、お揃いのアクセサリーを買った露店、月に一度だけ季節の花を買った花屋――楽しい思い出ばかりだ。
それなのに、この漆黒のローブを身につけると別世界に見えた。
学生時代はそんなことなかったのに、制服からローブに替わると他人の視線が気になった。まだ開く前の店先で立ち話をする妙齢の女性たちがルネを見てひそひそ声で話す。
「彼女が新しく宮廷魔導師になるお方なのかしら」
「まだ若いのね」
まだ寝起きの静かな街では、ルネの耳に届いてしまう。彼女たちにとってルネは、ただの会話の種であった。しかしルネは、それが好意的な口振りだとは思えずにいた。
ルネが身につける漆黒のローブには意味がある。丁寧な縫製で金糸の細かな刺繍が入ったそれは、宮廷に仕える魔導師――宮廷魔導師の証しだ。
宮廷魔導師、当代――五代目の宮廷魔導師は御年七十歳を超え、退任の運びとなった。彼は六代目が急逝したため役割を引き継いだ先々代だった。五代目の退任のため次代として白羽の矢が立ったのが、魔導師養成学校を首席で卒業したルネだった。
ルネは今、叙任式が行われる王城へと向かっている。
国を守る任を請け負っている魔導師は好意的な見方をされることが多い。しかし、妬み嫉みを向けられることもある。魔導師の中でも特に宮廷仕えというのは、仕事が安定しており、なおかつ高給取りと言われている。ルネのような若い娘がそのような立場になることを許せないという心持ちの人間は一定数いるのだ。
ただし、実際にどうこうするという人間は滅多にいない。裏を返せば、いないことはない、ということだ。
「アンタ、噂の新しい宮廷魔導師か?」
酒臭い男がルネの目の前に立ちはだかる。ルネは急に向けられた不躾な視線に、嫌悪感を示し僅かに顔を歪めた。朝方から飲酒をして他人に絡むだなんて、この国ではまともな大人だとは思えない。職もなければ、守る世間体もないのだろう。こういう手合いが一番苦手だった。
「俺がテストしてやるよ。何か魔術を使って見せろ」
「すみません。急いでいますので」
男の横を抜けて先を急ごうとすると、強い力で肩を掴まれる。ルネはそのまま後ろにバランスを崩して、その場で尻餅をついた。そんなルネを見て、男は厭らしい笑みを浮かべる。
広場は朝の開店準備とは違うざわついた雰囲気になった。
「なんだ。宮廷魔導師サマは魔法の一つも使えやしないのか!」
「宮廷魔導師は
「すかしやがって!」
振りかぶられた拳がルネの頬を捉えようとした瞬間――その拳が燃え上がった。
「うわぁっ」
拳を包んだ炎が、袖口に引火し腕を登ってゆく。慌てふためいた男は、どうにか延焼を抑えようと地面に転がった。男を火だるまにした魔法は、ルネのものではなかった。ただ、彼女はこの魔力の主が誰であるかわかっていた。
同じ学園で学んだ、優しく頼りがいのある彼の魔力だ。
「ルドヴィグ先輩!」
「怪我はないか⁉」
「はい。大丈夫です」
駆け寄ってきたルドヴィグはルネに手を差し伸べ、力強く引き起こす。ルネはその腕に安心した。学生時代から頼りになる人だった。
特待生として学園で学んでいたルネは、時折やっかみとしか思えない扱いを受けることがあった。無理もないと今では思う。幼い頃から魔法を鍛えてきた首都の人間が必死になって取り合った特待生の座を、ぽっと出の片田舎の人間がさらっていったのだ。ただ、勘違いして欲しくなかった。幼い頃から魔法について学び訓練をしてきたのはこちらも同じだ。彼らの目に見えない所で努力してきただけなのだ。
それは、ルドヴィグも同じだった。ルネ同様に田舎出身だった彼は、彼女のことをよく気に掛けてくれた。
「先輩、どうしてここに?」
「どこかの宮廷魔導師が迎えの馬車を断ったって聞いて、国家魔導師が警護に回されることになったんだよ。全く、面倒かけやがって」
国家魔導師――それが彼の肩書きだ。ルドヴィグはルネより一年早く学園を卒業すると、国家魔導師として働き始めた。
それは宮廷魔導師と同じく国家で任命される仕事であるが、中枢で宮廷魔導師の補佐をしたり、首都の巡回をしたり、地方で近隣国の動向を窺ったりと仕事は幅広い。地方で働く者は地方魔導師と呼ばれることもある。
「ルドヴィグ先輩、煤が……」
ルドヴィグが燃やした男の服が燃えかすとなってローブに付く。綺麗好きのルネは気になったが、彼は「大したことねーよ」と意に介していなかった。
彼が身につけている国家魔導師のローブは、宮廷魔導師のローブと同じく上質な生地を使用している。しかし生地の色は白く、刺繍は銀糸だ。それが彼らの決められた装いだった。
ルドヴィグはそれをサラリと羽織っていた。彼の赤毛は白に映え、夜更けから朝日に切り替わるようだった。そして彼は口角の上がった形の良い唇を開く。
「ルネ、俺はこの男の処分があるからここからは馬車で行ってくれ。近くまで呼んでいるから」
「すみません。皆さんのお手間をかけたくなくて馬車をお断りしたのにこんなことになってしまって……」
「俺の仕事が余計に増えただけだったな。これを期に学生気分は辞めろ」
「すみません……」
申し訳なさにルドヴィグを直視できなくなったルネは、つま先に視線を落とす。すると、ローブに合わせた黒のブーツが傷付いていることに気が付いた。転んだ時に傷付けてしまったのだろう。
(……ついてないな)
汚れから目を離せないでいると、頭にぽんと温かい物が触れた。それがルドヴィグの手のひらだと言うことはわかっている。炎魔法の得意な彼は、人より体温が高かった。
「顔上げろって。俺も学生気分はやめなきゃな」
「えっ?」
「宮廷魔導師様にこんな言葉遣いじゃ駄目だろ。ルネ様、ここからは馬車で王城まで向かってくださいますね?」
「先輩、なんというか、むず痒いです」
「慣れてください」
「でも」
炎上して石畳を転げ回っていた男性が起き上がると同時に、馬車が広場にやってきた。それを見てルドヴィグがルネの背中を押す。
「行ってこい。ローブ、よく似合ってる」
耳元で囁かれた台詞は、取り繕ったものではなく、いつものルドヴィグの声音だった。ルネの鼓動は早くなる。それはきっと、言葉に混ざった吐息が耳に掛かったからだ。
そう思わないと、顔の熱が抑えられそうになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます