つながり

きづきまつり

つながり

 熱はある。だが、彼女の家に体温計はない。昼過ぎに目を覚ました彼女は、肌に触れるタオルケットが肌を削るように刺激することに気が付き、皮膚の側に問題があることを悟ると、同時に、一気に汗が吹き出る。鼻筋を通る息が喉をくすぐり、軽く咳をしたつもりが、裂けるような痛みが走る。咳き込む。裂ける。半年前に脱毛を終えたはずの全身の毛穴が逆立ち、汗が吹き出る。タオルケットを払いのけようとして端を握ると肘や肩が脈打つようにその存在を主張し、また咳が出る。喉が裂ける。


 ゆっくりと長く息を吐き、それ以上に慎重に息を吸う。何度か繰り返してようやく体を動かせるようになった彼女は、枕元にあるスマホに手を伸ばす。LINEの通知がいくつかと、13時を回った時間が表示されていた。


 乾ききった口を開こうとして、唇が切れる。そこにまた、拍動する痛みが加わる。全身がすでに痛かったはずだが、新しい傷はまた新鮮な痛みを彼女にもたらしてくれる。口を半開きにしたままタオルケットをよけ、ゆっくりとベッドから足をおろす。床に接した足裏は感覚が鈍っており、普段履いている高いヒールよりも不安定だった。それでもベッドに手をおいたまま立ち上がった下着姿の彼女は、何度か目を瞬かせる。コンタクトは外していたらしくぼやけた視界に涙が染み渡り、徐々に世界がいくぶんか解像度を取り戻していく。


 ワンルームの部屋で、床には脱ぎ散らかした服が無造作に散らばっていた。それを踏みつけて歩きながら、深夜と呼ぶには明るんできた時間に疲れ切って帰って来たことを徐々に思い出す。油断してまた呼吸を早めた彼女は咳込み、今度は頭の痛みも襲ってくる。後頭部から首にかけての重みは、四肢の関節とは違う種類のものであるようだ。つけっぱなしのエアコンの風が皮膚を撫で、汗の存在を強調し、体の震えをもたらす。


 流しまでたどり着いた彼女は、裏返して水切りかごにおいたままになっていたグラスを手に取り、水を注ぐ。起きてから初めて、体の外部から彼女の耳に届いたその水の音は普段と比べて甲高く鼓膜を刺激し、徐々に重みを増すグラスに応じて握力をいれると、その筋肉は彼女の意に抵抗するように緩慢な反応を返し、関節の痛みを新たにしていく。水を流したまま、コップを口に運ぶ。乾燥した口腔粘膜になまぬるい液体が染み入り、これは彼女が目を覚ましてから初めて得られた不快でない感覚であったが、それを飲み込もうとしてムセ込み、グラスを流し台に落としてしまう。出しっぱなしの水が転がったグラスで跳ね、彼女の腕を濡らす。潤されたはずの口の中はねっとりした痰に覆われる。立ったまま息を止めて、うつむいたまま体を硬直させ、咳の波が去るのを待つ。やがて彼女はうつむいたまま、流しに落としたグラスにゆっくりと手を伸ばす。水を注ぎ、口元に運ぶ。グラスの端を唇に当てて、いくらかは加湿されたはずの液面の空気をゆっくりと吸う。その行為に意味があったかはわからないが、今度は咳き込まず、僅かな水を口にする。その水を舌で口の中に塗り拡げ、粘ついた液体を流しに吐き捨てる。それを何度か繰り返して口を濯ぎ、ようやく彼女は水を飲むことができた。喉にしみる痛みは襲ってきたが、それでも、何度かに分けてコップの中の水を飲み干したとき、彼女には流れ出したままの水を止める余裕が生まれたのだった。


 コップ2杯分の水は彼女の感覚を徐々に取り戻させていった。それと同時に脈打つような頭痛と、新しい汗が皮膚を覆っていく。長い黒髪の下の頭皮が汗で蒸れ、かゆみを覚える。かといって、少しでも揺れれば重く響く頭の中身を思うと、掻きむしることもできそうにない。長い爪の存在を意識すると、今度は指先のしびれを感じる。どの感覚を意識しても問題が見つかり、その事自体に嫌気が差しつつあった。


「コロナかよ」

 彼女は声に出してそうつぶやくが、かすれてほとんど音にはならない。昨晩はいつになく指名の多い日だった。いや、他の子が休んでいたのだ。だから私に回ってきた。他の子が休んでいた理由は、今となっては明らかだ。なんで私まで。ワクチンだって打っていたのに。プレイ中にマスクはできないけれど、あのクソみたいな換気の悪い部屋で客と二人きりになるから? 待機室でほかの女がウィルスをばらまいていた? でもなんで私まで……


 恨み言を頭に並べ立てながら、冷蔵庫に向かう。いつ買ったか記憶にない、開封済みの少し嵩の減った500mlペットボトルが何本か入っていた。出先で買ったもので、口をつけたのは確かだ。それでも、ここ2,3日に買ったであろう記憶に新しいジャスミンティーを見つけ、それを飲む。水道水より冷えた液体は口の中を縮こまらせ、喉にもいくらかマシだったようだ。一人用の小さい冷蔵庫の中身は、あとはいつ買ったかも定かではない調味料と、卵が3つ。


 ペットボトルを冷蔵庫に戻し、きしむ関節と脈打つ筋肉を動かして、ベッドに戻る。それだけで摂取したばかりの水分が汗に変わっていく。エアコンの風が当たると気化熱のためか体が震え鳥肌が立ち、その皮膚感覚の変化はまた彼女に咳をもたらす。


 ベッドの手前まで来て、彼女は足を止めた。何度か肩で息をして、踵を返す。三歩先の床に落ちているバレンシアガのトートバッグにたどり着き、中からポーチを一つ取り出す。低用量ピルと、ロキソニンが2錠、抗不安薬は残り3錠しか入っていない。その場でロキソニンと抗不安薬を取り出し、乾いた口から唾液を絞り出し、飲み込む。喉の何処かにつかえているような感覚に、咳き込む。


 ベッドの端に腰掛け、仰向けに倒れ込んだ彼女は、改めてスマホを手に取る。SNSの通知を開くと、店の指示で作り時々自撮り画像を上げているアカウントに、いくつかのいいねと、気持ち悪いメッセージが届いている。リプライで送られる勃起した性器の画像をみて吐き気を感じた次の瞬間、深く咳き込む。関節の痛み、裂ける喉、響く頭痛が新たな咳を招き入れる。流れる涙が汗と混じって首元まで伝っていく。


 タオルケットを顔にのせ、涙と汗を吸わせてゆっくりと呼吸する。いつ洗ったかも定かではないが、馴染んだ少し埃っぽい香りは彼女をすこし落ち着かせた。LINEを開き、店に当欠の連絡を入れる。失われる日当を思い、頭が痛む。


 スタッフから事務的な返信がすぐに来る。そのあと、別のスタッフからは心配するようなメッセージと、療養にはあれがいいこれがいいというアドバイスが聞いてもいないのに矢継早に送られてくる。LINEの画面を開いたままスマホを置き、咳き込む。口元に指で触れると、切れた唇からは思ったよりも血が出ていて、その赤みは爪につけたラインストーンのピンクにはあまり映えなかった。


 彼女はすこし、体が楽になっていくのを自覚する。ロキソニンと抗不安薬は彼女につかの間の安寧を運びつつあった。四肢の痛みはゼロではないが大幅に減じていた。咳は出たが、喉の痛みもいくらかましのようだ。通販サイトのアプリを開き、飲み物や食事を思いつく限りカートに入れていく。ただ、薬を購入しようとして、彼女の手が止まる。表示された配送可能日は明日以降だった。


 出前アプリに切り替えると、対応しているドラッグストアはあるようだった。ただ、ロキソニンは商品にない。彼女はいくつかのワードで検索をして、ロキソニンが第一類医薬品にあたり、出前アプリはその販売に対応していないことを知る。ただ、いくつかの風邪薬や頭痛薬は購入できるようだ。ろくに効いた覚えのない第二類医薬品に該当する解熱鎮痛剤や風邪薬、スポーツ飲料、ゼリー飲料、レトルト食品をかごに入れていく。割高なその値段にか頭痛にか、彼女は眉間にしわを寄せる。


 生きていくだけで金がかかる。彼女はその金を得るために体を売っているわけだが、熱があればそれさえも叶わない。一日3~5回のセックスで得られたはずの金額を頭に思い浮かべ、咳にかき消されながら、アプリの注文を確定する。一時間もしないうちに物が届くだろう。集合玄関のインターホンには出ないと、玄関前に置いていってもらえない。抗不安薬はその脳にブレーキをかけつつあったが、ロキソニンでも抑えきれない喉の痛みは、彼女を覚醒の側に傾けていた。


 昨日からシャワーも浴びていないことに気がつく。仕事を終えて店を出たあと、店の娘と飲みに行ったことは、おぼろげながら記憶していた。おそらくは何も食べず飲んでばかりいただろう。ふと、もしかして感染症ではなく、ただの二日酔いなのではないかと思いつくが、その直後に彼女を襲った咳はこれまでで一番長く深いもので、まるでウィルスが自己主張を始めたかのようであった。咳が出る、痰が喉に絡み、息のできない時間はまた全身の汗を生み出していく。


 ゆっくりと体を起こし、シャワーに向かう。やはりロキソニンは偉大だ。下肢の痛みは殆ど消えていた。ふらつく上半身には、まだ痛みが伴うものの、起きたばかりのときと比べ物にならない。体の熱もいくらか下がったようだ。


 下着を脱ぐだけでも、何度かバランスを崩して転びそうになる。シャワーの水が温まるのを待つ際に、太ももに浅い傷がいくつかあるのを見つけた。記憶にはないが見当はつく。酒に酔って帰り、家についた彼女は抗不安薬を煽る。客たちの性器の味をこみ上げる胃酸で上書きしたあと、抑圧する理性を脱した衝動は、汚れた肉体を上書きする。学生時代に、実家時代に身についた悪癖だったが、ここ最近では珍しかった。まあ、ちょうどいい。メイク落としを顔に塗り広げ、そのままシャワーを浴びる。足の傷にわずかに浸みたが、関節や喉の痛みに比べれば、ないに等しい存在感だった。傷があるうちは店に出られない。熱で休む今が、ちょうどいい。どうせなら、出勤できない期間が一度で終わる方がマシに違いない。客の精液が傷口を通じて体に取り込まれていくことを想像した彼女に、咳でなく吐き気が込み上げてくるが、その差は些細なもので、結局またむせこんでしまう。ただ、吸う空気がシャワーの湯気で十分に加湿されたおかげか、咳のあとの喉の痛みはこれまでになく楽になっていた。


 シャワーを浴びて体を拭き、Tシャツとパンツだけ履く。髪をドライヤーで乾かす体力は今の彼女にはなかった。最後にいつ使ったかも記憶にないタオルキャップを探して被り、ベッドに戻る。


 スマホを再び手に取り、反射的にSNSアプリを開く。そして、店の娘のアカウントを開いた彼女は、昨晩のことを少し思い出した。それでも手は止まらず投稿を遡ってしまい、2週間ほど前のいくつかの連続した投稿にたどり着く。メンヘラ、リスカ女、過食嘔吐などの言葉が並ぶ同僚を揶揄するそれらの投稿は、その店をよく知る人が見れば彼女を容易に連想させるものだった。


 黙れよ。お前が家で面倒見てるヒモのことでも店のアカウントで呟いてろよ。私より指名が少ないせいで彼氏の餌が足りないなら、金目当てのあいあるせっくす笑で毎晩あんあん遊んで膣を緩めてねぇでプロとしてのセックスで体目当ての客のチンコを締め上げろよ。


 咳き込んだちょうどその時、インターホンが鳴った。彼女が思うより、時間は経っていたようだ。二度目のインターホンが鳴る頃にようやくたどり着き、通話ボタンを押したところで、彼女は自分の声が出ないことを思い出した。かすれる声で返事をしても、画面に映る配達員の女性は動かない。解錠ボタンを押して、画面を切る。すこしして、玄関の方からガサゴソと音がして、配達完了の通知がスマホに届いた。その通知は同時にチップを要求する。割高な買い物ではあったが、インターホンに返事ができなかったことがどうも彼女の後味に悪く残り、普段なら送らない5%のチップを送る。玄関のドアを開けると、9月を回っているとは思えない熱気が部屋に入り込んできて、エアコンで冷やされた彼女の体はその冷気を保つためか鳥肌を立てた。玄関先に置いてあったビニール袋は重たく、取っ手は力の入らない指関節に食い込み、切断するような鋭さを発揮していた。


 何度か休みながら荷物を運び入れ、飲み物やゼリーを冷蔵庫に入れる。メタリックな外装のゼリー飲料を一つ開け、口に加えたままベッドに戻る。まだ冷えてないそれは過剰にケミカルな甘さであったが、喉にはいくらかいいようだ。


 内服してまだ1時間も経っていないが、抗不安薬の効果が少しずつ切れてきたのを、彼女は感じていた。あと2錠で熱が下がるまではとても持ちそうにない。熱さえなければ今日あたり貰いに行く予定だったのだ。受診するたびに変わる精神科医たちの、上から目線かつ他人事のように薬を出し渋る声が思い出され、だんだんと苛立ちが高まってくる。摂取された僅かなカロリーは、その活気を生み出しつつあった。


 ゼリーを飲み終えた彼女は、それを捨てに台所にあるゴミ箱に向かう。さきほど届いたビニール袋のなかには、まだ総合感冒薬や痛み止め、のど飴が入ったままだった。風邪薬の箱を取り出し、成分を眺める。コデインはいくらか入っている。これを多めに飲めば、抗不安薬の不足を補えるだろうか。


 そのとき、スマホが不慣れな振動をした。画面を見ると、出前アプリから通知が届いたようであった。反射的に通知を開くと、「ありがとうございます。おだいじになさってください」と、チップに対する感謝の言葉が、さきほどの配達員の自撮りらしい写真とともに綴られていた。


 金で買った言葉だ。彼女はまずそう感じた。彼女自身、金で彼女を買い、性器を彼女の肉体に挿入する客に礼を述べるのだ。配送者も、残暑の続く炎天下に病人らしい内容の重たい荷物を運ばせて、ごく僅かなチップを気まぐれに送っただけの客にも礼ぐらい述べる。わずかな小銭を得たあとに、手数料代わりにスマホの入力画面をいくらかタップすれば、予測変換がすぐにこれぐらいの文章を吐き出してくるのだ。意味も気持ちもない、アプリが手配しただけの電子的な社交辞令だ。


 それでも、彼女はいったん風邪薬を袋に戻した。抗不安薬は1錠を2つに、もう1錠は四分割でもして、2日ぐらいもたせられなくはないだろう。何年か前は、市販薬のODから処方薬にスイッチした当初はそれでもそれなりに効いていたのだ。


 スマホが、今度は慣れたパターンで震える。店からのLINEだ。彼女はスマホをその場に落とし、そのままベッドに戻り、身を投げ打つ。うつ伏せになりながら、鼻でゆっくりと息を吸う。慣れたはずのタオルケットの匂いは、ウィルスが嗅覚を奪いつつあるのか単に鼻が詰まりつつあるのか、起きたばかりより少し遠のいている。


 床に落ちたスマホのバイブレーションをかき消すように、彼女は咳を繰り返す。のどの痛みがまたすこし酷くなる。傷つけた大腿よりも痛む喉を通り出てきた痰は、わずかに血の味もした。これで十分だな。彼女はまた深く咳き込む。エアコンがゆっくりと作動して、彼女の汗を冷やす。体が震える。頭痛に響く。涙が滲んでいく。一人の部屋を、彼女の咳き込む音が満たしていく。

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