第13.5話 天音の軽トラ

 熱のこもった入浴を終え、二人は並んでラウンジスペースの長椅子に座っていた。

 ぐて~っと、手足を投げ出し弛みきった姿勢で……、それでも肩を寄せあって……外の景色を眺めていた。


 太平洋側のため、海に沈む夕日を眺める訳にはいかないが、それでも山の稜線に沈もうとしている夕日は、美しかった。

 物心ついたときからずっと見ていた夕日の姿だ。引っ越してからは随分雰囲気の違う夕日と馴染んでしまっていたが、やはり自分にとってはこれがしっくり来ると言っていい。いずれ……、海に沈む夕日の方に馴染んでいくのだろうとは思うが、人生を終える時に思い出す夕日は、やはりこちらだろうとも思っていた。


「きれいだね……」

 肩をくっつけたままの操が、ぽつりと言った。

 操の、心の中の夕日は……どんな姿なのだろう。

 思い浮かべようとして、やはり……止めておいた。


 こんな日だ。

 重いことを考えるのはよそう……。


 僕は、努めてそう考え、「うん…」とだけ答えた。


 夕日とは反対の方角に目を向けると、沖の方に漁船と思しき船の明かりが幾つか灯っているのが見えた。

 やがて、夜の闇が深くなれば、あの明かりももっと鮮やかに映ることだろう。


「ねぇ……」

 操が僕の首に手を回しながら、顔を寄せてくる。

 僕は、キスを求めているのだと思って、操の顔に手を添えて軽く唇を合わせた。

「ん……」

 彼女は目を閉じて、受け入れた後……ぱっちりと目を開けて、

「……そうじゃなくて」

 と言った。


 ……ありゃ?違った…


「明日、帰るんだよね……?」

 そんなことを聞いてきた。


 まあ、予定ではそうなっている。

 本当は、車中泊の予定でもう少し先まで進んでおくつもりだったのだが、思いの外のんびりとした行程になっている。もちろん、好きなように過ごすのが目的なので、遅れていようと問題ないのだが、ここから明日の復路を考えると少々強引なルートになりそうでもあるのだ。


「あたしさ……、明後日も予定入れてないんだけど……、天音は?」


 ほほう……

 そう来ましたか。


 たしかに、このまま明日は帰るだけ、というのも少し寂しい。

 僕自身も、ようやく気持ちが解放されかけてきたところだったのだ、その気持ちはよくわかる。

  

 僕は、操の言いたいことをなんとなく察した。

「うん、僕も問題ないよ……。伸ばしちゃう?」


「うん……。三日目は移動日ってことで、余裕があったほうが良いかなって」

 どうやら、操も行程のタイトさが気になっていたようだ。

 この時間までに到着しないといけない、という心理は焦りにもつながるし疲労も呼ぶ。せっかく気晴らしに来ているのに、帰りに心労の種を残しておくというのは、目的から言うと確かにおかしいだろう。


「うん、適当なところでもう一泊してから、ゆっくり帰ろうか?」

 すると、操が安心したような顔でうなずいて肯定した。

「うん、そうしよ。それにね……」


 うん……?


「……ここまで来たんだから、実家か……、姉帯さんのとこに寄って行ったらどうかなって」

「あ~……、そういえばそうか」


 僕も、そのことに思いが至る。

 実家は、このまま北上すればルート上に近いところにある。


 そして……、僕が師と勝手に仰いでいる、「姉帯さん」のお住まいにも近いところを通るのだ。


 師匠……、しばらくご無沙汰していたなぁ。

 せっかくここまで来たんだ、寄っていくのはいい考えだと思えた。


 一方の実家は……、まぁもう少しすれば山仕事の拠点として嫌でもお邪魔することになる(別に嫌じゃないけれど)し、今回はパスでいいだろう。


 時計を確認する。

 午後5時を過ぎたところか……。

 志部谷さん、もう家に戻ってるかな。


 とりあえず、予定は延長だ。

 帰りが遅くなることを一応、隣に住む志部谷さんに伝えておかなければなるまい。明日帰るつもりで待っていて、帰ってこなかったら余計な心配をかけてしまいかねないからだ。


 僕は、スマホを取り出す。

 発信履歴を開いて、志部谷さんの番号を探す。


 ……相変わらず、貧相な発信履歴だ。操の他には、志部谷さんと……他には行きつけの自動車整備工場くらいしか、電話をかけた形跡がない。日付を見ると……一昨年の分まで表示されている。それくらい、かけた回数が少ないのだ。


 僕の、人付き合いの無さが凝縮されている記録だな、これは。

 そう思いながら、志部谷さんに電話をかける。


 すると、2コールが鳴り終わらないうちに、通話がつながる。

「はい、志部谷~」

 調子の良さそうな声だ、妙に嬉しそうでもある。


「あ、草間です、どうも。こんばんわ」


「ああ、天音くん。ちょうどかけようと思ってたとこなんだよ」


 おや、タイミングの良いこともあるのだな。

「あれ、どうしたんですか?」


「うん。明日さ、君んとこの軽トラ貸してくれないか? 明日、資材やらなんやら動かさなきゃならないんだけど、……2tトラックの都合つかなくてね。軽トラ3台で回そうか、って話になってね」


 ああ、なるほど、そういうことか。

 別に断らなくても、勝手に使ってくれてよかったのに。


「もちろん良いですよ。鍵は、郵便受けに入れてありますから」


 軽トラックの作業は、長靴で泥だらけになることもよくあるのだ。そのため、鍵を中にしまっておくと、泥の付いた靴で土間たたきに上がることにもなってしまうので、軽トラの鍵だけは、郵便受けにいつも入れておいているのだ。

 無用心と思われようが……実家にいる頃は、そもそも鍵は車につけっぱなしだったことを考えれば、これでも防犯に気を使っている方と言えるだろう。


「悪いね、んじゃあ明日借りるからね」

「はーい」


 と言って、通話を終えようとしたところで、自分の用件を言っていなかったことに気づく。

「ぁあ、ちょっと待ってください!」

「うん?」


 危ないところだった……。


「あの、実は帰りの日程なんですけど……」

「うん」


「……一日伸ばして、明後日になると思うんですけど、大丈夫ですかね?」

 別に、なにか悪いことをしているわけではないのだが、なんだかちょっと後ろめたい気分になってしまう。


「ああ、なんだそんなことかい。全然構わないよ、ゆっくりしておいで。その方が、うちも気兼ねなく使えて助かるよ、ははは」


 そう言って、志部谷さんは笑っていた。

「すみません、そう言うことで……、おねがいします」

「あいよ、きをつけてな~」


 和やかな通話を終えて、用件も済んだ。


「なんて?」

 通話を終えると、操が聞いてくる。

「軽トラ、使わせてくれって」

 すると、操は、あぁ~、と言って、

「鍵、ポストに入れておいて良かったね」

 と喜んでいた。


 さて、今度は……。

「師匠のところだな……」

 僕は深呼吸した。


 なぜだかわからないけれど、あの人に電話するときは無性に緊張するのだ。

 決して、苦手な人じゃないのに……なんでだろう。


 そんな僕の緊張を察してか、操が、

「……あたし、かけようか?」

 そんな事を言ってきた。


 本来なら礼節的に、自分でかけるべきところなんだろうけど……。

 なぜだか、今日は緊張の度合いがいつもより、更に大きい。

 操の提案が、助け舟のように思えてしまっているのだ。


「うん……、お願いしようかな?」

「うん、じゃあ、スマホ貸して」


 操は、僕のスマホを手に取ると躊躇なく通話を開始していた。


 ……こういう時、女の人は度胸がいいと云うか、思い切りがいいよなぁ……。

 社会で生きていくには、こういうところが必要なのだろうけど……。

 僕は全然だめだなぁ、電話一つまともにかけられない。


「……あ、恐れ入ります。姉帯あねたい穂垂ほたる様でいらっしゃいますか?……わたし、秋田遊佐町の草間と申しますけれど、……はい!はい、ご無沙汰しております───」


 のびのびと電話する操を見て……、少しの疎外感と寂寞感を感じる。

 こういう姿を目の当たりにすると、改めて僕は社会不適格者なんだなぁ、というのを実感してしまう。普段から付き合いのある人にしか電話をすることがないため、偶に疎遠な人に電話をかけるときなどは、同様に極度の緊張を感じるのである。


 そして、楽しそうに話す操を見て……、なんだか師匠にさえ微かな嫉妬も覚えてしまうのである。

 この気持ちは、なんなんだろうな……。


「───はい、明日寄らせてもらおうと思いまして……。はい、はい。………あははは、そうできればよかったんですけど、次の日帰らないといけないもので………。はい、今度はゆっくり、時間を取ってお邪魔しますから、……はい───」


 泊まっていったらどうだ、とか言われたのかな?


 ……そうできればいいんだけど。

 会って話すだけなら楽しいのに、ひとつ屋根の下で一夜を過ごすとなると、急に胸が苦しくなるのだ。僕は、本質的に他人と近くにいられないのかもしれない……。


 操が、特別なんだ。

 僕が一緒にいて、心を許して、楽しい気持ちになれる人は、操しかいないんだ。


「───はい、じゃあお邪魔しますね。たぶん、お昼頃には着けると思いますけど……もう少し早いかな? はい、今日は宮古に泊まりです~ ───」


 どうやら、そろそろ電話は終わりのようだ。


「はい!……はい、じゃあ失礼しま~す……」


 ふぅ、といって、操は通話を終了した。


「うん、気をつけていらっしゃい、って」

「……うん、ありがと」


 操は、スマホを僕に返してくる。

 僕は、受け取ったスマホを放り出し……、操の手を取って引き寄せ、ぎゅっと、少し強めに抱きしめた。


「……なぁに?」

 操が、僕の背中を擦ってくる。


 急に、抱きしめてびっくりさせたかと思いきや、操は随分冷静だった。

 あるいは……電話中にも僕の表情は……見て分かるほど、崩れていたのかもしれない。


 ……操のストレスを受け止めるのは、僕の役目だ。

 ………操の心の傷を掘り返してはいけない。

 …………操は僕に捨てられるのを恐れている───


 全部、逆だ───。

 支えてもらって……いつも、抱きしめてもらって、

 そして、恐れているのは……

 全部、僕の方だ───。



「ん~………」

 操は、敢えて微笑んだまま目を閉じて、僕にされるがままになっていてくれた。



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