そういう趣味はありません
天川
第1話 解体された日常
「……念のため、もう一度聞くけど……」
もう何度目か分からない彼女の問いに、僕は黙って頷いて応じる。
もとより、こちらに拒否権は無い……のだろう。
だが、さすがにここまで疑われると、少々悲しくもなる。
犯罪沙汰など、しようというのではない、
……迷惑をかけるつもりも無かったんだ。
それでも、彼女に黙っていたことは……よくなかったのかもしれない。
しかし、これは簡単に言えることではない。
世間的には、たぶん……いや、間違いなくアウトであろうことは僕も承知している。
それくらいの分別はあるつもりだ。
ただ、このライフスタイルに馴染んでしまってからだいぶ経つので、少々緩んでいたのかもしれない。長い付き合いの中で、油断していたとも言える。
だが、止めろと言われたとしても、やめられないと思う。
そして、……やめるつもりもない。
一度知ってしまった、この甘美なる愉悦……。
どうしても受け入れられないなら、別れるしかないと思う。
僕としては、受け入れてほしい──などと高望みはしない。
最低限、見て見ぬふりをしてくれればそれで充分だと思っていた。
だがその最低限さえ、今は危うい状況なのだろう。
改めて、常識と云う名の同調圧力に、やるせなくもなる。
迷惑をかけるつもりは無かったのだが、彼女にとっては、やはり迷惑だったのだろうか。
「……他人の、その……洗濯物とか……」
彼女は目をそらしながら、言いにくそうに聞いてくる。
「……欲しくなって、つい……とか、そういう衝動は……無いのね?」
「無いよ」
僕は静かに、でもはっきりと答える。
むきになって否定したりしない。必死さが見えるとかえって疑わしいだろう。
「他の人が身に着けたものとか……やだよ……。そんなの触りたいとも思わない」
「……うん」
目は合わせてくれない。しかし、頷いて肯定は示してくれた。
別に潔癖というわけではないし、むしろ無精寄りでもある僕だが、自分の持ち物に他人が触れるのを嫌う事を、彼女は知っている。
清潔とか衛生面とか、そういう理由ではない。
自分は物を増やさない主義なので、周りにあるものは、基本的に全部「大事なもの」なのだ。
それを、無造作に手に取ったり壊されたりしてはかなわない。位置が変わってしまうだけでも気になる。他人が見れば散らかっているように見えるだろうが、僕には最適な配置なのだ。
そういった、自分の領域と他人の領域を明確に区別する癖があるので、当然、他人に対してもそこは厳格に守っている。他人の領域を侵さない。
だから……他人の持ち物を奪うなんて、もっての他だ。
そこは彼女も、理解……してくれるだろうと思う。
お互いに、「アドラー信奉者」を自認する者同士。シンパシーを感じて付き合い出したのだが、僕は他者との関係性をうまく維持できなくて、この心理学に縋ったのに対し、彼女は新しい社会のあり方を模索する「積極的なアプローチの方法」として、この思想を手に取ったのだった。
お互いの、軸になる考え方が共通している事もあって、衝突することはこれまでも皆無だったし、意見が食い違っても擦り合わせたり尊重したりできていたのだ。僕自身は、理想的な関係だと思っていた。
だが、たとえ軸は一緒でも、彼女は現代社会にきちんと適応して生きている。
浮世離れした僕と違って、彼女は世俗の感覚も同時に持ち合わせているのだ。
僕とは違う、常識人だ。
だから、今回の僕のやらかしによって……この関係は、終わるかもしれない。
彼女は今、──深刻な顔をしている。
……自分にとってはささやかな趣味のつもりだったのだが、彼女にとっては受け入れられないものなのだろう。
それは、そうかもしれない。
自分を棚に上げて言うのもなんだが、彼女が男物の下着を愛用していたら、さすがにショックを受けるだろう。しかしながら、自分のいないところで着ているくらいなら、それは別に構わないとも思う。
……ただ、目の前でそうだったら…?
……さすがにちょっと、……となるのかな。
いや、脱がなければどうということはない、とも思う。
見せるのが目的でもないし、アウターに響かないような服装には僕だって気を遣っている。むしろ、そういうやりくりが楽しくて嵌まり込んだのだ。
改めて、この世界の奥深さを感じる所でもある。
着るものなんか、裸でなければいいだろう、の精神で平気で安物を着回していた僕だ。
3枚980円のシャツ、5足780円の靴下、ぱんつなんか穴が開いても穿いているほどだ。見えなければいいんだよ、どうせ仕事じゃずっと車に乗りっぱなしだ。誰も見ていやしないのだ。
……そんな考えだった。
世間的な普通がどうなのかはわからないが、僕の衣食住の経費比率でいけば、食費が6割を占めている。住居にかかる費用が3割程、衣服なんか1割でも多いくらいだ。
身に付けるものに、こんなにお金をつぎ込む日が来ようとは、自分自身思ってもみなかった。
だが、経費比率は今や大きく変動し、住居費を上回り食費の領域までをも浸食しようとしている。
しかし、さすがにそこまでお金をかけるのはどうかと思って、最近では中華系の通信販売を利用して安く上げようとしていた。
……結果的には、これがいけなかったのだろう。
…………………
二週間ほど前に注文していた商品が、薄いくしゃくしゃのビニールの封筒状の梱包で届けられたのが、つい一時間ほど前の事。
中華系の通販は、いつ届くか分かったものではない。時には2ヶ月くらい平気で遅れてくることもある。届いた時には、すでに注文したことを自分で忘れていることさえあるくらいだ。
今回も、そんな遅れに遅れた配送物となって、予想外のタイミングで届けられた。
自分で受けとればよかったのだが、あいにく僕は入浴中だった。
日本郵政の小包扱いで届けられた、
運の悪いことに今回の物は、ことのほか梱包が雑で封が不完全、中身が一部はみ出していたのだ。
【中が見えないような梱包でお届けしますのでご安心ください】という───よくある宣伝文句だったが、これでは意味が無いだろう。
はみ出たゴム紐状の先に付いている、紫色のレース生地が見えていたことで、彼女が察した。
……浮気か? 浮気なのか?!
別な女に贈るための下着を、こっそり買っていたと云うのか?!
───彼女は、脱衣所の戸を開け浴室に踏み込んで来ようとしたところで、それに気づいた。
普段は、一緒に入ることもあるのだが、それ以外の時は決して踏み込んでくることなど無かった為に、こちらも油断していた。
脱衣かごには、僕が先ほど脱いだばかりのぱんつとブラが入ったままだったのだ──。
諦めた顔をした僕と、「……どゆこと??」という顔をした彼女。
風呂から上がり、とりあえず浮気ではないことを証明するために、彼女に開示した。
……僕の、宝物たちを。
今思うと、これは悪手だったかもしれない。
とりあえず、浮気ではなさそうだと察したようではあったのだが……。
目にした女性下着の量が尋常ではなかったため、別な疑惑が湧いてしまったようなのだ。
リアルに
──盗んで集めたものではないのか?
当然、その疑惑を持たれた。
まあ、男が女性下着を隠し持っている理由の筆頭であろう。
むしろ、それ以外は思い浮かばない人が殆どではなかろうか。
そこで疑惑を晴らすため、通販サイトの購入履歴を開示して確認して貰った。
自分で買ったものであることは、納得して貰えたようだ。
しかし……、
今度は別の、例えば精神疾患のような……精神に異常性があるのではないか、という危惧が彼女の中に生まれてしまったようである。
これは、なかなか難しい。
異常者が、正常ですと言ったところで誰も信用しないであろう。現に、僕はすでに彼女の中では異常者扱いだろうから。
僕自身は、ごく普通、というか人には言えないまでも、異常性のあることだとは思っていなかった。
むしろ、目に見えるかたちで女装したり女として生活するというスタイルさえ理解され始めているというのに、それを隠している方は理解できないというのもおかしなことだが……これが現実なのだろうか。そんな理不尽さを、今さらながらに感じる。
……世の中の、LGBTQの精神はどこへ行ったんだ? とさえ思う。
あるいは、同性愛者だと勘違いされたのではないかという危惧もあったが、僕と彼女との性交渉は既に日常だ。あるとすれば、両性愛者という認識をされるということだろうか。
だが、声を大にして言いたいのは、僕は異性愛者です、ということだ。
僕は、間違いなく女の人が好きなんだ。……少し年上趣味ではあるけれど。
僕の頭の中は、ぐるぐるとかき乱される。
そんな中、沈黙を続ける……彼女の心の内は、わからない。
別れることになったとしても、僕は恨んだりはしない。
どっちが悪いかと問われたら、それは間違いなく僕の方だろう。
別れたあと、ヒステリックにかつての男をSNSで晒したりするようなことも、彼女の場合は無いだろう。そもそも彼女はSNSを使っていない。今どき、珍しい……というか、いるのかそんな人? というレベルである。
そういうところにも惹かれて付き合うようになったのだ。
しかし、そんな絶滅危惧種とも云える女性とも、これでおしまいか……。
そう思うと無性に、寂しかった。
……哀しかった。
もとより、女性と付き合えるなんて思っていなかったのに加えて、それがこんな素敵な人だったなんて、僕にはあまりに出来すぎた幸運だったのだ。
そう思って、諦めることにしよう。
……そう、決意しようとしたところで、ぽろりと、涙がこぼれた。
ああ……、これが失恋か。
人生で貴重な体験が出来たな、と、皮肉めいた別の自分が嘲笑うのが感じられた。
肩が震える。
「……やだ、ちょっと? ……泣かないでよ……、ごめんね。私が悪かったわ……」
ん……?
「……誰にだって……い、言えないことあるもんね。で、でも、大丈夫! あたし、誰かに言いふらしたりしないから……!」
うん、知ってるよ。
そういうことは、しない人だもん。
だから、こんなに好きになったんだ。
「……ありがとうね、今まで」
……そう言うのが、僕には精一杯だった。
別れ際にいい人ぶるのは、もしかしたら卑怯なのかもしれない。悪党になりきって恨みを全部請け負って別れれば、彼女もすんなり次に行けるのかもしれない。
でも、口から出てきたのは、そんな陳腐な感謝の言葉だった。
「……こっちこそ、ごめんね? ……言い出せなくて……辛かったでしょう?」
……あぁ、別れ際でも優しいな。
でもね……それだと僕が余計に辛くなるんだ……。
僕は、財布と携帯を掴んだ。
別れて出ていくなら、僕の部屋にある私物とか、洗面道具とか諸々……痕跡を消したり、回収したりしておきたいだろう。
そこに僕が立ち会うことすら、彼女には不快かも知れない。
気持ちの整理にも、時間が要るのかも知れない。
いずれにせよ、ここは彼女を一人にしなければ、解決しないだろう。
「……しばらく、留守にするから……。荷物の整理できたら、連絡して……」
僕はそう言って、立ち上がった。
「うん、……うん?」
彼女は、きょとんとしている。
そして……。
「え、ちょっと……。なに? ……出ていけ……ってこと?」
戸惑ったようにそう、聞いてきた。
「……ううん、荷物の整理ができてからでいいよ。それまで僕、外に泊まるから……」
僕は答える。
「だから、出ていけってことでしょ……!?」
彼女が掴みかかってきた。
「だから……! ごめんなさいっ……て、勝手に郵便物開けちゃったりしたのは悪かったから……。だから、もうしないから! 追い出さないで!」
何故か、彼女は涙目だ。
「あたし……、もう30なんだよ!? ……
なんだか、言っていることがおかしい。
捨てられるのは、……僕のほうじゃないのかな?
「……あの、……いてくれるんだったら、それは……ありがたいけど……」
まだ、そんな余地があるのだろうか。
僕はもう一度、座り直す。
「でも……、嫌じゃないの? ……その、変態と一緒にいるのが……」
僕は、恐る恐る彼女に尋ねた。
「え……、
「……そう、思われたと思って……」
彼女は、ほっと、一息ついて情けないような顔をした。
「そ、そりゃ……ちょっと、ち……ちょっとだけ……うん。────ちょっとだけ! 驚いたけど……」
そうして、少し怒ったような顔をする。
「……それで嫌になって、別れるとか……無いから。……ありえないから!」
……そう、なのかい?
「まだ、……一緒にいてくれるの……?」
「むしろ、……あたしのほうが、その……、かってに天音の領域に踏み込んじゃったから……」
……どうやら、
お互いに勇み足だったようだ。
彼女は、はっ、としたような顔をして、両方の拳をぐっと握りしめた。
そして、彼女がいつも使う言葉が飛び出す。
「外交努力!!」
僕も、つられて復唱する。
「が、外交努力……!」
……そうだ。
争いは、外交の失敗の結果だ。
話し合える余地があるなら、それはまだ決裂には至っていない。
「まだ、この件は全然……一度も、話し合えてないじゃない」
言われて気づく。
本当だ。
……郵便物を見られて驚いて、隠し事が一つ露見しただけだ。
お互い、混乱したままで結論を出すなんて、愚かしいことだ。
まだ、全然話し合っていない。
「……ほんとだ」
僕にも、ようやく力ない笑みが浮かんだ。
それを見て彼女も、うんうん、と頷く。
「お互いどうするかは……、話し合いが済んでから、でしょ?」
……そうだった。
付き合い始めた時に、決めたことがある。
何かあっても、感情的にならずに、話し合いで決めよう。
お互い納得する形で、ちゃんと議論しよう、と。
僕も、隠し事が露見したことで、冷静じゃなかったかもしれない。
「とりあえず……」
うん、と、一つ頷いてから、
「お風呂、入ってくるわね」
彼女がそういう。
そうだ、今日は珍しく僕が先に入っていたから、彼女はまだ入れていないのだ。
落ち着くには、丁度いいかも知れない。
「……一緒に入ろっか……?」
そして、彼女はそんなことを言ってくる。
「で、でも……僕もう入ったよ?」
すると、彼女は、
「ちゃんと洗った? なんか、無理やり上がらせちゃったみたいに、なってたから……」
言われてみれば、中途半端にしか風呂のルーティーンをこなせていないような気がする。
「……頭、まだだった気がする」
「ほら」
彼女が、ふふふっ、と笑った。
「洗ったげるから、もう一回入ろ?」
そうしようか。
僕も、ちゃんと落ち着こう。
話し合いは、それからだ。
少なくとも、このまま二人はお終い、という事態は避けられたようだ。
「うん」
僕も、ようやく……微笑んで、頷いた。
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