第十一話 衣装の威力

 ついに、春蘭祭当日となった。


 雲一つない快晴の空を見上げて、私は自然と笑みが溢れた。


「藍ー、着替えるわよー」

「ん、今行くねー!」


 心臓が高鳴るのを、確かに感じた。


「おっ、いいじゃん。似合ってる」

「ありがと」


 着替え終わり、男子陣に衣装の出来を見てもらう。

 私が作ったのは振袖が可愛い上衣に、異国から入ってきたスカートを取り入れた和風メイド服だ。白のハイソックスに黒のローファーはいつも通り。普段と違うのは絶対領域があるかないかに決まってるじゃない!」と咲音ちゃんが力説していた。


 だけどーー


「あ、あのー、咲音ちゃん」

「? なに、藍?」

「その、えっと……ツインテールにコレはちょっと年齢的に見ても痛い光景になるのではないかと思いまして……」


 そう。私は今、ツインテールの和風メイドとなっているのだ。これだけでも結構恥ずかしいのだが、それに加えて咲音ちゃんに渡されたのはーー猫耳ヘッドドレスだった。


「あら? 高校生までは許されるのよ?」

「え、そ、そうなの……?」

「そうよそうよ」


 だが、咲音ちゃんはお団子にシュシュだけの精神にダメージの少ない姿だ。交換してほしいと言ったのだが、藍だから「猫耳メイドがいいのよ」と言われた。


(解せぬ……)

「はぁー!? 何で俺が!?」

「サイズぴったりじゃん。大丈夫大丈夫」

「大丈夫じゃない!!!」

(? なんだろう……)


 この声は紡葉くんだ。もう一人は綺更くんだろうか。声のする方へ行くと、二人が言い争って……


「!? どうしたの!!? 紡葉くん!」

「! こっ、こっち見るな!!」

「え? ……っ!!?」


 そこには、私が依世ちゃん用に作った着物をアレンジしたメイドドレスを着た紡葉くんがいた。

 しかも、黒髪ストレートのウィッグに赤い大きなリボンをつけている。

 私はしばしの間驚いていたが、決意を固めて紡葉くんに言った。


「大丈夫だよ、紡葉くん。趣味を否定するつもりはないから安心して」

「趣味なわけないだろ!!」


 だがそれ以外に紡葉くんがフラフラふわふわを着る理由なんて、あるのだろうか。

 あとこれは関係ないのだがーーすごく可愛い。


「え、なになに? なにかあ……ったわ」

「……女装趣味?」

「紡葉、俺は否定しないよ」

「勘違いしないでくれない!?」


 綺更くんは紡葉くんに親指を立てて「(グッジョブ)」と視線を送る。「何も良くねーよ!」と清々しいほどのツッコミが入る。


(……なに、これ……)

「紡葉、本当に大丈夫だよ。サイズもぴったりだし、なによりね、うん。……似合ってるから」

「貶してるだろ!? 褒めてないだろ!?」


 だがたしかに似合っている。和風メイド服なので胸部の膨らみは関係ない。綺更くんの言う通り、本当に似合っている。むしろ、私よりも似合っているんじゃーー。


「綺更。さすがに紡葉が可哀想よ」

「えー、ダメ? 咲音」

「赤羽、ダメだよな? ダメだよな?」


 綺更くんと紡葉くんの懇願に、咲音ちゃんはーー


「ほんっとうに可哀想…………なんだけど心苦しいけど売り上げのためには多少の犠牲は必要だものね。紡葉、似合ってるから安心して体裁とか気にせずに存分にツンデレ和装メイド女子を演じて? というか演じろ(圧)」

「さすが咲音! わかってる!」

「やめてくれぇ……っ! あああああっ!」

「女子怖えぇ……」


 紡葉くんが崩れ落ちてこの世の終わりの役に叫び、

 咲音ちゃんはどこからか取り出したそろばんで売り上げの予想を計算し直し、

 綺更くんは想像魔法エルノアスで他のアイテムを作り、

 嵐真くんは落ち込む紡葉くんを慰めている。


混沌カオス……)


 チラリと鈴先生に視線を向けると、爆笑しながら写真を撮っていた。

 卒業アルバムになるかもしれないと思うと、紡葉くんは本当に運がないんだなと感じる。


「しっかりしなさいよ紡葉。男でしょ? ……本音を言うとすごく似合っててむしろ私よりも可愛い女子になってるなって思ってるけど」

「うう……、死んだ方がマシだ……」

「元気出せ、紡葉」

「〜〜青雲……っ。同情してくれるのは青雲だけだよ。いいやつだなぁ……」


 するとーー


「咲音〜? ある程度作り終え……え、何、この状況」

(そうなるよね。何も知らない人はわからないよね)


 後で聞いたのだが、紡葉くんにメイド服を着させたのは綺更くんだそうだ。『暗影光煌』で紡葉くんの動きを抑え、無理矢理着替たらしい。

 ちなみにサイズがぴったりだったのは、綺更くんが依世ちゃんのスリーサイズ欄に細工したからだとか。一ヶ月前からこの光景を見たくて行動していたと考えると……綺更くん、恐るべし。


「あっ、白椿! これは趣味とかじゃなくて、煌月にやられただけで、俺は何も……」

「わかってるわよ、このくらい」

「白椿……」

「それ、私用に藍が作ったやつでしょ? ふうん。へぇ……」


 そこで一気に依世ちゃんの目は冷たくなった。


「私と同じ体型だって言いたいんでしょ? ごめんなさいね、貧相な体で」

「は? え? ……あぁ、そういう……って、いや、そんなつもりじゃ……っ、というかこれは……」

「安心しなさい。私はこの程度で怒るような狭小な女じゃないから」

(絶対怒ってる……)


 本当に紡葉くんは運がないのだと確信したのだった。


「はい。じゃあもうすぐ時間だし、持ち場に着くわよ。……あ、綺更はちゃんと紡葉にウィッグつけといてね。外れかかってる。ふふっ、ふふふふふっ……! 女装メイドがいるとなれば優勝確定ね」

「赤羽ーーっ!!」


 紡葉くんの悲痛な叫びが響き渡る。

 そしてーー


【みなさんお待たせいたしました。春蘭祭の開始です!】


 放送と同時に、春蘭祭が開始した。






「いらっしゃいませ〜!」

「ようこそ、喫茶アイラへ!」


 予想以上にお客さんが来て、あっという間に喫茶アイラはにぎわいを見せた。

 喫茶アイラという名になったのは、みんなの名前の頭文字をとったからだ。

 綺更くんの"き"、紡葉くんの"つ"、咲音ちゃんの"さ"、私の"あ"、依世ちゃんの"い"、嵐真くんの"ら"で喫茶アイラとなった。

 ちなみに、アイラというのは淡い桃色のカーネーションのことである。


「藍ー! お客さん入れてー!」

「ん、わかった」


 私は入口の方へ小走りし、練習したセリフを言うと同時にお客さんの顔を見た。


「ようこそ、喫茶アイラへ!」

「わっ! 久しぶり、藍」

「……、……! 夕莉!?」

「反応おそーい」


 ウェーブのかかった髪に、懐かしのセーラー服を纏った夕莉がそこにいた。

 はぎゅっと強く抱きしめられ、私の息が一瞬止まる。


「はぅ……久しぶりの藍だぁ……」

「ゆ、夕莉息! 息できない……!」

「あ、ごめん」


 テヘッと可愛らしくウインクする夕莉。すぐに抱きつく癖もその力強さも相変わらずで安心する。


「もー、架瑚兄かこにいが春蘭祭のこと全然教えてくれなかったから、私、宿題頑張って終わらせて来たんだよ〜藍。ねぇ褒めて褒めて」

「夕莉えらい。えらいよ」

「ふっ、でしょ?」


 私の前だと甘えてくる姿勢も変わらない。

 そして運の良い夕莉は見つけてしまった。

 黒髪ストレートの清純派和装メイドに女装した(正しくはされた)哀れな紡葉くんに。


「……あああっ!! つむりんだ!」


 その瞬間、紡葉くんの顔はひどく引き攣った。


「み、美琴みことさん……」

「わー! えっ、可愛い! でもつむりんっておと」

「美琴さん! 今は何も言わないで!」


 紡葉くんの切実な嘆願。

 夕莉は私に小さく尋ねた。


「なるほど、女装メイドか。……ごめん藍、どゆこと? つむりんって女装趣味があったの? それとも私の勘違いでつむりんって女子だったの!?」

「あ、いや、これは……」


 いざ説明しようとなると言葉に困る私。

 それを夕莉は理解して、紡葉くんに小さな声で、だが興奮しながら言った。


「可愛い! めっちゃ可愛い! 超似合ってる! え、なになに? 女装大会でもあるわけ? なんて名前で売り出してるの? いや、それよりも世の中の全ての女子に恨まれるぐらい似合ってるから安心しな。むしろ、今日から女子として生きる? 生きるよね!? わーっ、これからが楽しみ〜」

「やめてくれえぇっーー! (一応小声で悲痛に叫んでいた)」


 目を爛々と輝かせる夕莉に、頭を抱えて青ざめる紡葉くん。夕夜さまと綟さまが夫婦だから、二人は義理の兄妹ということか。

 もちろん、夕莉のセンサーに引っかかった紡葉くんに逃げ場はない。

 夕莉は紡葉くんの首根っこを掴むと、店の奥へと進み、詳しく話を聞こうとしていた。

 紡葉くんは終始、助けを求めていたが、私を含め、夕莉には勝てないと判断した一同は、心の中で合掌するのだった。

 するとーー


「藍」


 夕莉がいるなら、と予想していた人物が、私の名前を呼んだ。

 漆黒の髪と瞳。

 数多の女性の視線を集める容姿。

 聞き慣れた、だけど、時折頰を薔薇色に染め上げる力を持つ声。


「架瑚さま……」


 私の婚約者であり、想い人である架瑚さまが、夕夜さまと一緒にやって来たのだった。



 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



(え、待って、可愛すぎて困るんだけど)


 架瑚は非常に混乱していた。

 理由は簡単。

 架瑚の婚約者がフリフリふわふわな和風クラシックメイドドレスを着て現れたからだ。

 髪型はあざといツインテール。

 加えて猫耳付きヘッドドレス。

 架瑚が可愛いと思わない未来などなかった。

 むしろ、可愛すぎて死んでもいいと思えるほどだった。


(てか、俺が付け加えたデザイン、そのまま採用して作ったんだ……)


 てっきり、元の衣装のデザイン案に戻されていると思っていた架瑚。

 そのため、衣装の威力は増加したのだった。

 チラリと架瑚は藍を観察する。

 桃色と黄色のグラデーションが美しい振袖。

 海老茶のスカートに、純白のフリル。

 黒のパンプス。

 猫耳付きヘッドドレスに、初めて見るツインテールと藍の持ち前の可愛さ。

 そして何よりーー先ほどからチラチラと見え隠れするハイソックスとスカートの間の絶対領域。


(……ここが屋敷だったら、とっくに襲ってる…………やばい、耐えろ俺。可愛いんだけどね、うん。てか、可愛い以外に表現の仕様がないんだけどね。思春期を過ぎたばかりの男にはちょお〜っと刺激が強いだけだ。落ち着け、俺)


 などと暗示しなければ踏ん張ることができないほどに、藍の和風クラシックメイドドレスの衣装の威力は凄まじかった。


「架瑚さま?」


 藍が架瑚に一歩近づく。

 当然、距離が縮めば威力も上がる。


(あ〜〜っ、やばい、死にそう)


 きょとんと疑問符を浮かべる藍。

 どんな姿でも藍が可愛いことに変わりはないと断定し、悶絶する架瑚。

 そんな二人を後ろで静かに空気となって見守っていた夕夜。

 話を切り出したのは藍だった。


「あれ? そう言えば、綟さまはどうしたのですか?」

「あぁ……。綟は弟と妹と一緒に後から来るらしい」

「そうなのですね。……それで、その、架瑚さま……っ」

「? なぁに、藍」


 一応、ギリギリ自然体を保つ架瑚。

 そんな架瑚に藍は一瞬躊躇い、そして爆弾を投下した。


「…………に、似合うでしょう、か……?」


 顔を赤らめ、照れた表情を見せる藍。


【威力値限界突破! レアな表情&衣装が見れてよかったね! おめでとう!】


 と架瑚の心の中で祝福のアナウンスが入る。

 架瑚は視線を下に落とし、ゆっくりと深呼吸をする。そして、藍と同じように顔を赤らめて若干視線を外し、問いの答えを言う。


「…………藍に似合わないものはない、よ」

「〜〜っ、えと、あ、ありがとうございます」


 作った甲斐があるというものだ。

 藍も架瑚も照れている場面はあまりない。

 さすが春蘭祭。

 恋愛場面ラブシーンを大量生産するには打って付けの機会である。

 すると咲音が藍に耳打ちをした。


「藍、スカートの裾を少し上げて『おかえりなさいませご主人様』って首を傾げて覗き込むように言ってみて。面白いものが見られるよ」

「面白いもの……?」


 藍は言われた通りにやってみることにする。


「えっと、架瑚さま……」

「……っ、あ、なに?」

「〜〜お、おかえりなさいませ、ご主人、さま」


 架瑚は口元を押さえてうずくまる。


「…………ヤバい。もう無理。今なら死んでもいい」

「え? え? 何が? 何故!?」


「さ、咲音ちゃん、架瑚さま大丈夫だよね……?」

「あー、大丈夫大丈夫。藍の可愛さと願望が一つ叶ったことによる反動が来ただけだと思うよ」

「か、可愛さ? 願望? 反動??」

「わからなくても普通だから安心していいからね? ……今の架瑚は一部の者にしかわからないクリティカルヒットを放たれて瀕死状態に陥ってるだけだから」

「……それ、本当に平気なの?」


 やはり、藍には恋愛が絡んだ時の感情のデータが少ないため、少しの言動に疑問を抱く回数が多い。

 架瑚の反応や咲音の言うクリティカルヒットの意味を理解できていないのが証拠である。

 自分が普通の人であるか心配になってくる藍に、だれも答えは教えてくれないのだった。


「ほら架瑚。邪魔になるからさっさと店に入って」

「咲音……。これでも藍の婚約者で次期当主だぞ? もっと敬意を払ってほしいんだが」

「無理ね。それと、あ・な・た・が! 藍の婚約者なんでしょ? そこらへん履き違えない方がいいと思うわ」

「……俺、何かした?」


 さすが咲音。

 毒舌により、架瑚のダメージは治癒されていく。

 いつも咲音の毒舌を残念に思っていた架瑚だったが、今回に限り、ありがたく思った。


「で、ではご注文承ります……っ」


 初めてのメイド作業に緊張する藍。

 それに便乗して半分冗談、半分本気であるものを注文する架瑚。


「ん、じゃあ藍ください」

「ふぇっ!?」


 手を伸ばし、髪に触れる架瑚。

 心臓の鼓動がどくどくと波打つ藍。

 そこへ目を光らせて現れた咲音。

 そしてお盆で架瑚の頭を思い切り叩いた。


「痛ってぇ……何すんだよ」

「お客様。当店での従業員への勝手な接触(性的なものに関わらず)はご遠慮させていただいております。なお、触れたい場合はこちらのご料金をお支払いのうえ行いますようお願い申し上げます」

「…………」


 架瑚と咲音の間に火花が散る。

 渋々、架瑚は咲音から料金表を受け取ると、いぶかしげな表情をする。


「……本気か?」

「あら? 当然の値かと」


 藍は咲音にその料金表を見せてもらう。

 それにより、藍は咲音がぼったくる気が満々だと知るのだった。

 詳しい値段は公表できないが、衣装に触れるだけで約一万円。指、髪、頬……と上の部位になってくるほど金額が高くなっている。

 故意に触れた場合の罰金も凄まじい。

 どれも六桁を優に超えている。


「咲音」

「なんでしょうか? 値段の交渉は致しませんよ?」

「いや、そうじゃなくて……。お金を払えば誰だって藍に触れることができるんだろ?」

「まぁ、そういうことになりますね」

「え、ええっ!?」


 藍はそれ以前に、こんなことするだなんて事前に聞いていない。

 たしかに男女平等は大切だとは言ったが、まさか本当に男女平等にするとは……。まぁ、この金額なら変なお客は来なくなる方かもしれないけど、でも……と葛藤を抱く。


「他のやつが何円積もうとも藍に触れさせない方法はあるのか?」

「ありますよ。でも、かなりお高いですが、ご覧になります?」

「一応な。……お前、ぼったくる気だろ。いくら五大名家とは言えど、これ、屋敷の二分の一くらいの値段だぞ?」

「あらあら。なら、別にいいのですよ。買わなくて結構。ですが、大事な婚約者に見ず知らずの男が触れていると思うと、ねぇ……そう考えれば妥当な値段かと思いますけれど」


 煽る咲音に、ギリギリと歯を食いしばる架瑚。


「おい架瑚、買うなよ? お屋敷の二分の一の値段って、相当だからな? 金銭感覚が狂っていないうちに諦めろ。笹潟家潰れかねないし、あとで綟に怒られるのは確定だぞ?」

「……わかった」

「それはどっちのだよ」


 明らかに六桁、いや、九桁ぐらいは咲音ならぼったくるだろう。

 夕夜の目がギラリと架瑚を捉える。


「買・う・な・よ?」


 低い声が怒気を帯びている。

 綟ほどではないが、これはこれで怖い。


「わかったわかった……赤羽の当主に咲音の商売っ気を存分に伝えることにしよう」

「っ、兄様に?」


 赤羽暁のことだ。

 架瑚とは年は同じ、かつて、天宮で同級生だった人物である。


「笹潟家への不敬として報告したほうがいいか、それとも俺への挑発か……。どちらにせよ、厳重に注意してくれることだろう。なぁ、咲音」

「……わかったわよ」


 年齢や身分的にも勝てる相手ではない。

 咲音は諦めて値段表をしまう。


「あーあ。冗談のつもりで金額見せて煽ったら普通に乗っかってくるのが悪いんじゃん。それでも本当に次期当主? 兄様とは大違いだわ」

「……つくづく思うが、本当に咲音は俺のこと嫌ってるよな」

「あったりまえでしょ? 幼少期の頃はあんなに静かで生きてんのか疑ったほどの架瑚だったのに、今では藍大好きなキモい発情期のむさくるしい男になってんだもの。兄様に聞いた時は心底驚いたんだからね?」

「…………」


 架瑚への印象に酷く毒がかかっている。

 キモい、発情期、むさくるしい……。

 普段の咲音とは言葉遣いが大違いだ。


「……そろそろ注文してもいいか?」

「あぁ、話が脱線していたわね。どうぞ」

「プリンとショートケーキを一つ頼む」

「プリンとショートケーキね……。あっ、今は混んでるから注文は一組一回までよ? これでいい?」

「かまわない」

「そう。……お代は後で頂戴するわ。楽しんでね〜」

「わ、私もこれで失礼します……っ」

「あ、待って藍」


 架瑚に腕を掴まれ、藍は後ろに引き戻される。

 距離が一瞬で近づき、藍の心臓が跳ねる。

 架瑚は藍の耳元で小さく囁いた。


「……あとで春蘭祭、一緒に回るんだからね」

「! はい……っ」


 満面に喜色をたたえる藍。

 そんな藍を見ていると、架瑚もつられて笑顔になるのだった。


「藍ー? お客さん来てるわよー?」

「あっ、はーい! 今行くね! ……では架瑚さま、またあとで」

「うん。またあとで」


 藍の去る姿を架瑚はしばし見つめていた。

 そこへ紡葉と戯れて(正確にはウザ絡みして)いた夕莉が戻ってきた。


「遅かったな」

「いやぁ、つい話が弾んじゃってさ。でも満足満足」

「そうかそうか」

「話は変わるけど、料理は注文した?」

「あぁ。プリンとショートケーキを……」

(……あ)


 そこで架瑚は気づいた。


『プリンとショートケーキね……。あっ、今は混んでるから注文は一組一回までよ? これでいい?』

『かまわない』


 頼んでいるのはプリンとショートケーキの二つだけ。

 追加で注文しようにも、一組一回までしか今は受け付けていない。

 この状況が意味するのは、はたしてーー


「? どしたん? 架瑚兄」

「あー、いや、なんでもな」

「そう言えば架瑚、お前、二つしか頼んでないぞ。夕莉の分どうするんだ?」

(夕夜ぁー!!)


 架瑚の言葉を遮り、夕夜が非常に架瑚にとってマズイことを言った。


「か〜こ〜に〜い〜?」


 夕莉が不機嫌そうに眉間に皺を寄せて架瑚に迫る。


「あ、いや、すまん。夕莉いなかったし、たまたま忘れちゃって……」

「忘れてたじゃない! 食べ物の恨みは深くて怖いんだからね!」

「わかった! 俺のをあげるから許し」

「足りるわけないでしょう!? ぜ〜ったいに許さない! 覚悟しなさいよ、架瑚兄!」

「ちょっ、待て夕莉! ここ店の中だぞ!?」


 その時、喫茶アイラの外で待っていた人たちは、複数の悲痛な叫びが聞こえたという。



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