第十四話 夢なんかじゃない

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 青の世界に突如として現れたドアを開けると、私に眩しい光が降り注いだ。


 思わず目を瞑り身を縮めつつも、私は小さな一歩を踏み出した。


 目を開けた時には視界がかなりぼんやりとしていて、正直どこなのかわからなかった。


 だけど瞬きをする度に視界ははっきりとしてきて、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。


あいる、藍っ!」


 視界も声もはっきりして、私は元の世界に戻ってきたことを知る。私を呼んでいたのは夕莉だった。


夕莉ゆうりっ!」


 私はゆっくりと重たい身体を起き上がらせる。


「んっ、ふぅっ、んんっ」

「手伝うよ」


 私の体は鉛のように重くて、夕莉の助けを借りてなんとか起き上がれるほどに弱っていた。


 そんなにも弱くなっているとは思ってもいなかったのでかなり驚いた。一体どれほど私は寝ていたのだろうか。


 そしてここは病院と一室のようだ。消毒液の匂いが漂っている。壁などの周りがほとんど白いことも理由だ。


 それと今気づいたのだが、私の服が制服ではなく見慣れない白い服になっている。すごく変な気持ちだ。


「よかった、藍だ……! 生きててよかった」

「それはこっちの台詞セリフだよ、夕莉。怪我がなさそうでよかった。架瑚かこさまたちに会えたんだね」

「うん、心配かけちゃってごめんね。でも本当によかったよ、藍。もう九ヶ月もずっと意識不明で寝てたんだからね」

「えっ、九ヶ月っ!?」


 神子みこといた時間はそんなに長くないはずだ。つまりあの青の世界の時間が、この世界よりもとても速いのだろう。


(私が時都家に行ったのは水無月だ。つまりその九ヶ月後だから……)

「今はもう弥生やよいなの!?」

「うん、そうだよ。藍の誕生日は四月だからまだ十六歳だけど、一ヶ月後は十七歳だね」

「すごく変な感じ……」

(私の中では昨日まで水無月だったのに、起きたら弥生だなんて……)


 なんだかタイムスリップしたような気持ちだ。


「あっ、母さま達はどうなったの?」

「そう言えば架瑚兄かこにいからも藍が起きたら事後報告しろって言われてたっけ。えっとねぇ、まず主犯の紅葉もみじさんは無期懲役の帝都収容署に収容。まぁ、殺人未遂に五大名家ごだいめいけに楯突こうとしたんだから相応の処分だよ」

「えっ!」

(母さま、収容されたんだ……)


 茜にひどいことをした母さまのことを私は許してなどいないし、今も怒っている。


 だがそれでも母さまは私の母親だ。母さまにもそこまでして五大名家に楯突く理由があったのだろう。だからもう何も言わない。


 収容されたのならば、今後私は母さまと会うことなどないだろうし、神子も母さまに異能で罰を与えたと言っていた。なら、もう大丈夫だ。


「それに伴って紅葉さんと蒼生あおいさんは離婚。蒼生さんは自分も見ているだけで何もしなかったから紅葉さんと同じように罰をくれって頼んでたけど、架瑚兄が蒼生さんまで収容したら藍が悲しむからって言って、一週間の謹慎を言い渡されてたよ。ちなみに今は茜ちゃんと一緒に蒼生さんの実家の柳瀬やなせ家に居候いそうろうしているはず。苗字も時都ときとから二人とも柳瀬になったよ。実質時都家は没落したってことだね。あ。会えないわけじゃないから安心してね」

「そっか、よかった」


 父さまは何も悪いことなんてしていなかった。むしろ、母さまを止めようと頑張ってくれていた。結果的には傍観者という立場になるため、罰が軽いのだろう。私はそこに安心した。


 そして茜も一緒に住んでいるということは無事に生きているということだ。あの時は本当に死んじゃうかもと思っていたので、思わず顔が緩んだ。


「で、ここで藍に二はつ問題があるの。一つは藍の苗字をどうするかってこと。このまま時都藍として生きるか、柳瀬藍として生きるかのどちらかを藍には選択してもらうよ。二つ目は、藍が架瑚兄の屋敷に住むのか、柳瀬家の方に住むのかってことなの。これも藍が選択できる。紅葉さんが収容された今、藍を害する者はいないからね」

(個人的には柳瀬よりも時都がいいんだよなぁ)


 馴染みがあるし、何より柳瀬藍となった場合、試験テストの時に画数が多くて大変だ。


 それと、私が住む場所を本当に選択できるのならば、架瑚さまのお屋敷にこれからも住みたい。


 柳瀬家が嫌なわけではないが、れいさまの料理が食べられないかと思うと離れ難いし、何よりーー


(私は架瑚さまのことが、その、す、好き……だから)

「夕莉。私、苗字は時都のままがいいし、架瑚さまのお屋敷でこれからも過ごしたい。……いいかな?」

「〜〜っ! もちろんだよ藍!」

「わわっ」


 またも夕莉に抱きつかれる。若干苦しい。


「じゃあ次は藍が寝てた間の出来事を教えるね。一番の重要出来事ビッグニュースは何と言っても夕夜ゆうやと綟姉さんの結婚だよ!」

「え、ええええぇっ!? 夕夜さまと綟さま、結婚したのっ!?」

(というか、そういう関係だったんだ……)


 唖然としつつも私は喜びを感じていた。


「うんっ! はい、これ」


 夕莉は私に一枚の写真を見せた。そこには紋付羽織袴もんつきはおりはかまの夕夜さまと、白無垢しろむくに身を包んだ綟さまの姿が写っていた。


「綺麗……」


 二人ともすごく似合っており、幸せそうに笑っている。


 私もいつか、架瑚さまとこんな風に……だなんて考えてしまっただなんて誰にも言えない。すごく恥ずかしい。だから私だけの秘密だ。


「素敵だよねぇ。綟姉さんが何着ても似合うのは知ってたけど、夕夜も意外と似合ってると思わない? いやぁ、これで私と綟姉さんは義理の姉妹! より一層仲良くなれそうで、私も嬉しいよぉ」


 夕莉は夕夜さまより綟さまの方が好きなようだ。だが一応夕夜さまは夕莉のお兄さんだ。遠回しな言い方だが、夕莉も夕夜さまのことを大事に思っているみたいだし、結婚に祝福している。


「夕莉、綟さまのこと好きだよね」

「うん、大好きっ! 特に綟姉さんの料理!」


 好きなのはそこかいっ!と心の中で私はツッコむ。だが夕莉の言う通り、本当に綟さまの料理は美味しい。お店を出してもやっていけるも思う。


(なんで綟さまは料理人ではなく架瑚さまの従者となったんだろう……まぁ何にせよ、綟さまの料理を食べられるのならばそれでいいか)


 私は気にしないことにした。


「あっ、あとはねぇ」

「藍っ!」

「藍様っ!」

時都妹ときといもうとっ!」


 すると夕莉の声を遮って、部屋の奥のドアが開く音がしたかと思うと、聞き覚えのある声が三人、私の名前を呼んでやってきた。


 私のことを藍と呼ぶのは数人、そして様をつけて呼ぶのと時都妹と呼ぶのは一人しかいない。


「架瑚さま、綟さま、夕夜さま!」


 私は夕莉の方を見る。夕莉は私に向けて満面の笑みで微笑んだ。なるほど、夕莉が三人に私が目覚めたことを伝えたのか。それなら辻褄が合う。


 すると架瑚さまが勢いよく私の方に駆け出してやって来た。ひどく慌てている。そしてすごい勢いで私に尋ねる。


「藍、藍なんだよな? 本物だよな?」


 架瑚さまは私の手を重ね、グッと握った。架瑚さまの手は私の手よりもはるかに大きく、とても暖かくて、安心した。


 だが私はあることに気づく。架瑚さまの手は震えているのだ。ほんの少し、本当に小さくだけど震えている。


「架瑚さま……?」


 何があったのだろうか。


「生き、てる……」

「!?」


 架瑚さまの目から涙が出た。涙は頰を伝ってシーツに垂れた。ほんのりと丸い跡ができる。


 そしてクシャッと顔を歪ませたかと思うと、架瑚さまは私の手を強く握って嗚咽を堪えながら泣いた。


「えっ、ちょっと、架瑚さまっ!?」


 私はそんな架瑚さまの様子にあたふたする。


 どうすれば良いのだろうかと言う視線を夕莉たちに送るが、三人とも納得の表情をして架瑚さまを見ている。


 唯一私の視線に気づいた綟さまは


「(申し訳ございませんが、少しの間そのままでいてくださるとありがたいです)」


 という視線を私に送った。


 どうやら私の眠っている間には、かなりの変化が起こっていたらしい。状況がよく飲み込めない。


 私は仕方なくこの状態でいることにし、改めて架瑚さまのことを(上からでものすごく失礼だが)見ることにした。


「〜〜っ!」


 だが一体何故なのだろうか。たった二日ほどしか会っていない(気持ちだ)と言うのに架瑚さまを意識してしまう(しかも今の私には架瑚さまの顔が見えないと言うのに、だ)。


 何もかもが久しぶりで、懐かしくて、愛おしいと思ってしまう。全てが輝いているようにも見えた。


 そして五分後、架瑚さまは泣き止み、話せるようになった。


「……何もわからないはずなのに急に泣き出してごめんね。今思い返すとちょっと恥ずかしい」

「い、いえ大丈夫です」


 珍しい架瑚さまが見れて私は満足ですだなんて言えるわけがない。


 そしてそんな架瑚さまを見て愛おしいだとか全てが輝いて見えただなんてことも言えない。


 そんな思いを隠すため、私は話題を変えた。


「に、にしてもまさか私、九ヶ月も寝ていただなんて思いもしませんでした。さっき夕莉から寝ていた間の出来事を教えてもらっていたんです。……あっ! 綟さま、夕夜さま、ご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます藍様」

「聞きなれた言葉をどうも」

「ちょっと夕夜っ! 一言余計っ!」


 綟さまは相変わらず大人っぽく、夕夜さまは少し身長が伸びた気がした。夕莉は言うまでもなく、変わらず明るく可愛い。


 架瑚さまは……何故だろう、顔面偏差値がグングン伸びている気がする。


 それと気のせいだろうか。なんだか架瑚さまがーー


「少しやつれてるような気が……あっ」


 思わず声に出して言ってしまった。私は慌てて口元を押さえるが、言ってしまったものは取り消しができない。


 恐る恐る顔を上げると、ポカンとした架瑚さまと、諦めの表情をした夕莉たちがいた。もしかして、言ってはいけない、いわゆる暗黙の了解と言うものだったのではないだろうか。


(だとしたら私はかなり危険な言葉を言ってしまったのでは……!? どうしよう!)

「……藍」

「は、はいっ!」


 気まずい空気の中、架瑚さまに名前を呼ばれたため、私は変に大きな声で返事をしてしまった。


(かなり恥ずかしい……)


 何を言われるのかと心の準備をして構えていたが、架瑚さまがおっしゃったのは意外な提案だった。


「今日は天気もいいし、外へ出てみないか? 最近この病院の庭にある桃の木の花が開花したんだ。とても綺麗で美しくてね……。是非藍にも見せたいと思っていたんだ」

(あれ、今、話題を逸らされた……?)


 私は架瑚さまの提案に、多少の違和感を覚えた。だがその違和感が何なのかを考える前に架瑚さまは私に選択を迫った。


「あ、もちろん体調が優れないのならそれでもいいんだよ? 藍はどうしたい?」

「わ、私も桃の花、見たい、です」

「そっか。じゃあ行こうか。……綟、夕莉。藍の着替えを頼んでもいいか?服は前に渡したアレ、な」

(アレ……? アレとは何だろう)

「いーよー架瑚兄。藍、ベットから降りれる?」

「う、うん」


 私は夕莉に手伝ってもらいながらゆっくりと立った。その間、綟さまは架瑚さまと夕夜さまを病室から出した。


「では殿方は部屋から出ていってください」

「わかった、わかったから。綟痛い」

「俺もすぐ出るから……ってそんな強く押さなくても出るから。時都妹の着替え姿とか興味ないから。安心しろよ、その辺は……。夫に対しての扱いひどくない?」

「夕夜はさほど気にしてませんが一応念のためです。若は絶対藍様の着替え姿を見たいと思っているはずですので容赦なく追い出しているだけです」

「俺、一応綟のあるじだよ?」

「今の状況では藍様の方が大事です」

(さすが綟さま、強い)


 私が感心している間に夕莉は部屋のカーテンを閉め、私が着ると思われる着物を淡々と準備していた。


 今日着る着物は春らしい桃の花の柄の着物だった。先程架瑚さまが桃の花を見に行こうと言っていたからこの着物にしたのだろうか。


 だが架瑚さまは前に渡したアレ、と言っていた。つまり夕莉が選んだわけではない。一体何故なのだろうか。不思議である。


 綟さまは架瑚さまと夕夜さまを廊下に追い出し……じゃなくて退室してもらえるよう促して、こちらにやって来た。


 まるで顔に駆除完了とでも書いてあるかのように、綟さまはスッキリとしていた。


「じゃあ着付けるね」


 夕莉はそう言うと夕莉と綟さまの二人で私に着物の着付けを始めた。


 なんだかんだ言って今回で三回目の着付けをしてもらう私は少し恥ずかしかった。こんな歳にもなって着付けすらできないのが恥ずかしく思えたのだ。


 いくら時都家で着物を着せてもらえなかったとは言えど、淑女としてはありえないことである。今度二人に教えてもらおうと私は決意した。


 すると綟さまが私に話しかけてきた。


「藍様、先程藍様は若がやつれているように感じる、とおっしゃいましたよね?」

「あ、はい。気のせいだといいのですが……」

「いいえ、気のせいなんかではありません。そのことに気づくだなんて、さすがは藍様だと尊敬致しました」

「尊敬だなんて、そんな……」


 はっきり言って言い過ぎである。綟さまの方が私はすごいと思うし、尊敬している。


 会った時から架瑚さまと夕夜さま同様、綟さまからも大きな魔力を感じた。紛れもないファーストの魔力値だ。


 それに加えて美人で会話能力にも長けており、おまけに料理上手。世の中に生きる男性の理想と呼ぶべき女性だと私は思っている。


(夕夜さま、羨ましい)

「今から話すことは他言無用にしていただけると嬉しいです。特に若には。よろしいでしょうか?」

「わかりました」


 そう言って綟さまは架瑚さまがやつれている理由を教えてくださった。


 要約すると、こんな感じだ。


 私が昏睡状態に陥ってからの架瑚さまは、私と会う前よりもずっと体調を崩し、無理をするようになったらしい。


 特に最初の一週間はひどいものだったようだ。


 まず始めの三日間は食べもせず、寝もせず、一日中寝ている私の手を掴んで泣き、謝罪の言葉を延々と口にしていた。


 このままではいくら架瑚さまでも死んでしまうと思った綟さまたちは四日目、若を藍様から引き離して睡眠魔法スプリアーノ治癒魔法フィールアイリスで休息と栄養を調達させ、体調を戻した。


 だが次の日の五日目は私のところへ行くと言って部屋を出て行こうとしたものだから、慌てて抑えて落ち着かせようとした。しかし一向に聞く耳を持たず、泣き叫び暴れる騒動にまで発展した。


 六日目は自殺を試みられたが、なんとか未遂に終えることができた。


 そして七日目、手に負えないと判断した綟さまたちは本家の方から若の兄妹である兄の翔也しょうや様と姉の未亜みあ様に来ていただき、若を宥めてもらうことにした。


 さすがの若もお二人の言葉は聞き入れてくれたため、八日目以降は架瑚さまの心のケアをしながら、徐々に元の生活へと近づけて今に至った。


 やつれているのは架瑚さまが最近も食事をあまり摂らず寝つきも悪く、それに加えて仕事量も自ら前の生活の二倍ほどにまで増え、抱え始めたから。


 私に合わせる顔がないと思っているのか、はたまた感覚がおかしくなったからかどうかは分からないがわ明らかに今の架瑚さまは無理をしている。


 綟さまの話を聞き終わった私は、顔を青ざめた。


(どう、して……)


 まさかとは思っていたが、ここまでひどく痛々しいものだとまでは考えてもいなかった。


 しかもその原因が私の昏睡状態からきているだなんて……考えただけでも頭が痛く、胸が苦しい。


 架瑚さまがそこまで自身に無理をするのはきっと、架瑚さまは基本的に何でもできる天才肌だからだろう。


 今回のように架瑚さまは過去にも多くのことを抱え込み、その結果で架瑚さま自身がどうなったのかも知っているはずだ。


(なのに、どうして……)


 架瑚さまがそこまで気に病むほど、私には価値などない。


(私が架瑚さまの婚約者だったから? いや、いくら婚約者とは言えどそこまで思うだろうか。じゃあ私が架瑚さまの想い人だから? ……ないな。あるわけない。恥ずかしい。自意識過剰だ。)

「藍様」


 そんな私に綟さまが話しかけた。


「若と藍様はよく似ています。一人で抱え込むところも、そして自分たちが考えているよりもはるかに相手のことを大事に思っているところもです。藍様、先程藍様は何故若が藍様の昏睡状態にそれほど思い悩んだ理由がわからないと思っていませんでしたか?」

「っ!」


 何故わかったのだろうか。


「やはりそうでしたか。……藍様はもう若にとって大きな存在となっています。こうなってしまった限り、私たちも無視することはできません。これはお願いです。どうか、若のそばで一緒にいて、支えてあげてください。今の若には藍様が必要なのです」


 架瑚さまにとって私はただ魔力値が高いだけの都合の良い婚約者だと思っていた。


 だけどそうではないのかもしれない。


 架瑚さまをずっと側で支えていた綟さまが言うのだ。もしかしたら私は、本当に架瑚さまに必要とされているのではないだろうか。


「さっ、この話はおーしまい! 着付けは終わったよ、藍。架瑚兄と一緒に外に行っておいで。後でどうなったか教えてね?」


「ふぇっ!? えっ、ちょっと、夕莉っ!?」


 こうして私は夕莉に押され、架瑚さまと一緒に桃の花を見に行くことになった。




「うわぁ……! 綺麗ですね、架瑚さま」

「あぁ、そうだな」


 暖かい風に乗り、桃の花が宙へと舞った。桜はまだ弥生なので咲いていなかった。


 私は架瑚さまを横目で見る。


 架瑚さまは懐かしむように桃の花を見ていた。


「前にも誰かと見たことがあるんですか?」

「……まぁね。俺の親友だよ」

「きっと架瑚さまみたいに素敵な人なんですね」


 その言葉に架瑚さまは少し目を張る。そして私の言葉を否定した。


「いいや、俺よりか何倍も素敵な人だよ。かっこよくて、明るくて、前向きで……誰からも信頼されていたいい奴だよ。もちろん俺もその一人だ。アイツの周りにはいつも沢山の人がいて、みんな笑っていたよ」


 どうしてそんなことを言うのだろうか。架瑚さまの周りにだって、いつも夕夜さまや綟さま、夕莉がいて、みんな笑っている。


 それに架瑚さまだってかっこいいし、信頼されている。


 何故架瑚さまはそんなに哀愁漂う微笑を浮かべているのだろうか。


「……あのね、藍。俺は藍が思っているよりもずっとずっと嫌な奴で、とても卑怯な臆病者だよ。この前は怒ってごめん。許してほしい。俺もちゃんとけじめをつけるよ。実はまだ俺、藍には言ってなかったことがあるんだ。怒ったあの夜に言ったあの時って言うのは……」


 そこで私は自分の手を架瑚さまの口に当てて、架瑚さまの言葉を遮った。


「言わなくて、いいです」


 架瑚さまは次に言おうとした言葉を飲み込んだ。それが私にはよくわかった。


「架瑚さまの言うあの時に何が起こったのかを私は知りません。けれど、それは架瑚さまにとっていい思い出ではないんですよね。思い出すだけでもすごく苦しくなるんじゃないんですか?」

「っ!」


 当たりだ。先程架瑚さまがあの時のことを言おうとした際に、無理をして言おうとしているように私は見えた。


 だからあの時というのは架瑚さまにとっての心理的外傷トラウマなのではないかと考えた。


「私は架瑚さまがそうまでして話そうとするのならば、聞かなくていいです。聞きたくありません」

「でも、俺は……」


 架瑚さまは強いお方だ。自分の弱さから逃げようとしていない。だから無理をしてでも私に伝えようとしたのではないだろうか。


 私には、とてもできない。


「いつかでいいです」


 そう、いつかでいい。


「いつか教えてください。少なくともそのいつかは今ではありません。だから言わなくて大丈夫です」


 誰にだって一つや二つの隠し事はある。それを無理に言うだなんてことはしたくないはずだ。


「……ありがとう、藍」


 そう言った架瑚さまの笑顔は、桃の花とよく合う素敵な笑顔だった。


 あぁそうか、と私は思う。


 そんな架瑚さまの笑顔が、私は一番好きなんだ。


 頭がいいから、運動ができるからじゃない。魔力値がファーストだからでも、五大名家の次期当主様だからじゃない。


 無邪気で明るくて、こんな私でも優しく接してくれた架瑚さまだから、私は好きなんだ。


 告白しよう。


 「好きです」と言おう。


 この好機チャンスを逃すわけにはいかない。


「あの、架瑚さま、私……」

「ちょっと待って」

「えっ……」


 架瑚さまは私に向けて制止を要求した。


「先に言わせて」

(それってどういう意味ですか?)


 そんな思いを口にする前に、架瑚さまは私に告げた。


「好きです」


 最初は、理解できなかった。


 何で架瑚さまが私の言いたいことと同じことを言ったのだろうかと、何故重なったのかと疑問に思った。


 心を読んだのだろうか。だがそんな魔法は存在しない。


(じゃあ、まさか……)


「俺は藍が好きです」

「うそ、だ……」

「嘘じゃない。俺は藍を一人の女性として見てる。婚約者にしたのも魔力が多いからじゃない。優しくて、純粋で、健気で、藍は嘘偽りのない透明な言葉を使うから俺は好きになったんだ」


 きっとこれは都合のいい夢だ。都合の良すぎる夢に違いない。だとしたら架瑚さまが私のことを好きだなんて言うわけがない。


「夢なんかじゃない」

「っ!」


 架瑚さまが私を引き寄せた。目が合い、心臓が跳ねる。私は鼓動を抑えようと慌てて目を逸らす。だがそれを架瑚さまは許さなかった。私の左頬に架瑚さまの指が触れ、再び目が合う。逃れられないと感じた私は思わずまぶたを強く閉じた。架瑚さまは私の顔を少し上に上げ、そしてーー。


 柔らかく温かい何かが私の口に触れた。


「……これでわかってくれた?」

「〜〜っ!」


 私は口元に手を当てる。まだ唇には先ほどの感触が残っていた。夢はこれほど現実的リアルなものだろうか。


 ならばこれは夢なんかじゃない。現実だ。


「藍の答えを聞かせてくれる?」

(そんなのずるい)


 架瑚さまはその答えを知っている。にも関わらず私の口から答えを合わせようとするのだ。


 私だって架瑚さまに好きですって言おうとしたのに、緊張したのに。なのに架瑚さまはそんな素振りも見せずに「好きです」と言ったのだ。


(羨ましい。ちょっぴり悔しい)

「私も架瑚さまのこと、好き、です」


 きっと私の頬は林檎のように赤く染まっている。


 初々しい、と架瑚さまは言うかもしれないが、私はそんな顔をしているかと思うと、もっと恥ずかしくなる。


 でも架瑚さまがそんな私を笑わないでくれるのなら、それも悪くはないと思える。


「……本当に?」

「本当、です」

「でも俺のこと大嫌いって……」

「あ、あれは勢いで心にもないことを言ってしまっただけですっ! 私が架瑚さまのことを、いえ、誰かのことを面と向かって大嫌いなどと言えると思いますか?」

「……ないな」


 すると、架瑚さまは懐から何かを取り出した。何かと思えばそれは光に反射して、私の目に映り込んだ。見覚えのあるものだった。


 まるでガラスのようなもので造られ、金で象られた花弁。花芯から伸びている細く精巧な雄しべと雌しべ。架瑚さまが取り出したのはその時は高価であろうと思い、買うのは諦めていたーーあの桃の花の簪だった。


「はい、これ」


 架瑚さまはそれを私に手渡した。


「……どうしてこれを」

「ん、だって藍、欲しかったんでしょ?……それ、俺が藍につけてもいい?」


 私は頷き、架瑚さまに簪をつけてもらうことにした。そして気づく。架瑚さまがこの着物を指定したのは、この桃の花の簪に一番合う着物だからだったのだと。


「……はい、できたよ」

「ありがとうございます」


 私が動くとそれに連れて簪についた桃の花びらを模した飾りが揺れた。とても可愛い。


 私も架瑚さまのために作った手巾を渡したいと思ったが、残念ながら今はない。一体どこにあるのだろうか。確実に時都家に行く時に持ってきたはずなのに、と思っているとーー。


「探し物はこれか?」

「っ! どうして架瑚さまが……!?」


 架瑚さまが私の作った手巾を手にしていた。タータンチェックの柄の紺色の布地に、桃の花の刺繍と、架瑚さまのイニシャルのKの文字が入っている。


 間違いなく私の作った手巾だ。


(なんで架瑚さまが持っているの!?)

「綟から預かっていたんだ。藍の着替えをする際に見つけたそうだ。時々、藍がこの手巾に刺繍をしているところを見かけたことがあるらしく、それで知ったんだと思うよ。……Kの文字が入っているってことは、俺に作ってくれたって思っていい?」

「あっ、えっと、そう、です」

(恥ずかしい。全部見透かされている)


 私はそっと架瑚さまの反応を伺った。


「すごく嬉しかった。額縁に入れて飾ろうかと思ったんだけど、綟に使った方が喜んでもらえるって言われたんだよね。だから今は毎日使ってるよ。藍、ありがとう」


 その言葉に私は笑顔になり、架瑚さまに「私の方こそ、ありがとうございます」と言った。


 するとまた何か架瑚さまは懐から小さな箱を取り出して私に渡した。


 私は何だろうと思いながらその箱を開ける。


 箱の中に入っていたのはーー指輪だった。


「これっ、て……」

「うん、婚約指輪。結婚指輪は一年後にまた渡すね。今はそれで我慢してて」


 架瑚さまのくださった婚約指輪は主に銀で作られており、真ん中には小さな宝石が輝いていた。これまた高価な物だと私は思った。簪以上の値が張るのは目に見えている。


 どうしてまた、そんなものを私にくれたのだろうか。


「今度こそ、絶対にずっとつけててね? 悪い虫がつかないためにも、ね」

(これは……)


 かなり怒ってる。おそらく私が時都家に行く時に首飾りをつけずに行ったことに怒っているのだろう。


「あの時は、その、ごめんなさい。すぐに夕莉を返してもらって、架瑚さま達に迷惑をかけずに終えるつもりだったんです。こんなことになるだなんて、夢にも思っていなくて……」


 架瑚さまは私の頭を優しく撫でた。


「ごめんごめん。勘違いさせるようなこと言ったね。怒ってなんかないよ。だから今度こそ、ずっとつけてね」

「〜〜っ! わかりました」


 本当に架瑚さまはずるい。だって私の欲しいものを、言いたいことを全て知っていて、それを叶えてくれるから。


 なのに私は何もしてあげられない。何もわからない。


 でもーー


『どうか、若のそばで一緒にいて、支えてあげてください。今の若には藍様が必要なのです』


 私にもできることがある。


 桃の花は私たちを祝福しているようだった。架瑚さまと私の目が合った。照れ隠しで少し逸らして、また合って、影、重なった。



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