天野邸
イリスは走る。
四肢を獣へと変え、纏うメイド服が裂けるのも厭わずに、真っ直ぐと走った。
木々を分け、ビルの合間を縫い、何処かから聞こえて来る爆発音も意識の外へと振り払い、ただただ一直線で駆け抜けた。
やがて見えてきた大きな屋敷。――天野邸だ。
それ程間を開けてはいないのに久しく感じるその門扉を一蹴りで飛び越えて、庭へと降り立つ。
静かだ。怖い程に静かで、イリスに嫌な予感が走った。
玄関のドアノブに手を掛ける。
ガチャリという音と主に、抵抗なくノブは回って、玄関ドアが開かれた。
「鍵が……」
施錠はされていなかった。
そんなはずは無い。この家には今、来人の母である照子一人だけで、鍵が開けっぱなしにされる事などあり得ない。
「まさか!!」
イリスは逸る気持ちのまま、勢いよくドアを開けて家の中へ。
リビングへと続く長い廊下を走って、
「奥様!!」
勢いよく扉を開けて、リビングに飛び込んだ。
すると、そこには――、
「あら、イリス。お帰りなさい?」
ソファにゆったりと腰を下ろして、菓子を摘まみながらテレビを見ている照子の姿が有った。
傷一つない無事な姿で、こんな非常時だと言うのに素知らぬ様子で呑気にしている。
「あ、れ……? 奥様……?」
イリスは面食らって、きょとんと首をかしげる。
全て早とちりで、何事も無かった様だ。
照子は無事だ。そう分かるとどっと疲れてしまし、イリスはその場の壁にもたれ掛かった。
「良かった、ですわ……」
「うん? イリス、どうしたの? 来人は――、一緒じゃないのね」
「ええ。坊ちゃまは戦いに向かわれましたわ。わたくしは、奥様の救助に参りましたの」
「あら、そうなの? でも、私はみての通り何ともないわ」
我が子が戦地へと赴いたと聞かされても、照子は様子を変える事も無く、のほほんと呑気にそう答える。
イリスは知っていた。照子がそれ程に我が子に信用を置いているのだと。
きっと、イリスが「坊ちゃまの事、心配ではありませんの?」なんて野暮な事を問えば、照子はこう答えるだろう。「だって、私と
と。
相も変わらずそのままゆったりと菓子を口へ運ぶ照子に、イリスは言葉を続けた。
「ですが、天界から離反した十二波動神が――と言っても、奥様には何の事か分かりませんわね」
「そうね。でも、ここは危ないの?」
「はい。旦那様の妻である、人と神の子を産んだ奥様は、きっとその命を狙われていますわ。一刻も早く、ここを――」
と、言いかけたその時。
イリスの言葉は、ここで途切れた。それ以上口を動かすことが出来なかった。
目の前の状況がそれを許さなかった。一歩でも動いてはいけないと思った。
鋭いナイフが、照子の首元に突き付けられていたのだ。
そこには、先程まで誰も居なかったはずだ。しかし、今まさにその刃先が照子の首を掻き切らんとしている。
(――人質に、取られた)
イリスは瞬間、そう理解した。
ソファに座る照子の背後に、女が一人立っていた。
燃えるような赤い髪を頭の上で乱雑に一つにまとめた、目の血走った女だ。
天界の白い装束を赤黒く染めていて、手には同じく真っ赤なナイフ。その刃先は後ろから照子の首筋へと当てられている。
急に言葉を切り、動かなくなったイリスを見て、照子は首を傾げている。
こんな状況だと言うのに、その瞳には恐怖の色一つ浮かんでいない。
それどころか、次の菓子へと手を伸ばそうとするのだ。
「奥様!!」
イリスは慌てて叫んで、照子は動きを止めた。
「どうしたのよ、イリス?」
「え、ええっと……」
照子の後ろで、赤い女は口角を引きつらせて笑っている。視線はイリスへと向いており、それは言外におかしな動きをしたら殺すと脅しているかの様だった。
そのまま照子がおかしな動きを見せれば、あの赤い女はそのナイフをそのまま突き立てるだろう。しかしそれをイリスが照子へ伝えても、同じ結果となるだろう。
(まさか、奥様は、気付いていない……!?)
照子は、背後の赤い女に自分がナイフを突き立てられている事なんて気付いていないかの様だった。
(あの女、いきなり現れた。気配を遮断する
どちらにせよ、イリスに動く事は許されなかった。
そうして睨み合っていたのも僅かな間。赤い女の口が音を発する事無く、ゆっくりと動いた。
「じ・が・い・し・ろ」
音を発さない口だけの動作だったが、イリスには確かにそう聞こえた。
(なんと、卑怯な――)
照子を人質に取り、イリスと正面から戦う事すらしない。いや、仮にイリスが正面からこの女と戦ったとて、勝てるとは限らない。
むしろあの赤い女が十二波動神の一柱だとすれば、あの力を持っているはずだ。――“再臨”、魂を一度破壊し再構築する事で一段高みへと至る、アークから授けられて
そんな力を有していてもなお、こんな卑怯な手段に――、
(――いいえ、そうでは有りませんわ。あの女は、この状況を楽しんでいますのね)
赤い女はまるで玩具で遊ぶみたいに、そうしているのだ。
意味も理屈も、合理性なんて端から無い。
イリスは赤い女と睨み合う。
ここで死する訳には行かない。言う通りにした所で、どうせ照子は殺されてしまうだろう。
考える。しかし、打つ手が無い。
そうしていると、赤い女は引きつらせていた口角を一段と上げた。
そして、手に持つナイフに力を込め、照子へと近づけて行く。
時間切れだ。イリスが動かないのを見るや、赤い女は人質の照子を殺しにかかる。
「奥様!!!」
イリスは床を蹴る。
しかし、赤い女と照子、そしてイリスとの間には距離が有る。明らかにナイフの刃が照子の首を裂く方が早いだろう。
(駄目、間に合わない――)
イリスは手を伸ばす。
――瞬間。空間を揺らす程の轟音と共に、照子の背後に壁が吹き飛び、風穴を空ける。
そして、
「ぐああああっ!!!」
赤い女は吹き飛ばされ、イリスをも通り過ぎ、ガラスを突き破って庭の方へと投げ出されていった。
一瞬、イリスにも何が起こったのか理解出来なかった。
しかし、庭の方を見れば、そこには一本の光り輝く柱が突き刺さっていたのだ。
その柱は丁度手で握れる槍ほどの大きさで、その細い芯から輝きを放ち、まるで電気そのものを凝縮したかの様に、バチバチと電流が走っている。
柱、槍――いや、それは一本の大きな“矢”だ。
イリスはその矢を知っていた。
「――あー、すまんな。ちょいと遅れた」
風穴の奥、そこから立ち昇る土煙を掻き分けて、一人の影が現れた。
丸々と太った巨体――ではなく、引き締まった筋肉質な上半身を露わにして、腰には布を一枚巻いただけの姿。
傷だらけでボロボロの姿でありながらも、キラキラと輝くオーラを放つ男だった。
しかし、その男こそが――、
「旦那様!?」
「あら、
驚くイリスと対照的に、突然の爆発の後にも眉一つ動かさず夫を迎える照子。
「おう。ただいま」
現れたのは、アークによって殺されたはずのライジンだった。
最強の名を欲しいままとした神が、帰って来た。
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