女子大生・八田亜耶の話
一つしかなかったランタンを矢橋さんが持って出たが、ナベカツさんが話し終えたところで二人戻ってきてランタンを返した。平坂氏と鍋島さんだ。
「いやぁ参った。野良猫に脛ぇ擦られて尻餅ついちゃってよ、また助けられたよ」
「あの銀髪のお兄さんがいて良かったですね」
鍋島さん一人の力では平坂さんを起こせず、吉見さんと二人掛かりだったらしい。
年配の二人は、お世話になりました、名残惜しいが旦那様によろしく、などと異口同音にナベカツさんに告げ、廊下側の出入り口から帰ってゆく。
そのランタンを一つ持って、ナベカツさんは縁側に下りる。
岩永氏はまだ戻ってこない。
さて、私の番だ。
「4番目は私、八田亜耶と申します。今年の春から大学生になりました。
保育園のころの話です。皆さんはこんな遊びをご存知でしょうか。追々説明致しますが、まず輪になってこんな歌を歌います……」
* * *
あぶくたった煮えたった
煮えたかどうだか食べてみよう
むしゃむしゃ
オニは一人だけ輪の中心にしゃがんで目を隠しています。「むしゃむしゃ」のところでみんな寄り集まって、オニの頭を触る仕草をするんです。
フリでなく本当に触る子もいますが、それは触られた子も保育士の先生も嫌がるので禁止です。髪型を直すのはだいたい先生なので。
地域によって違いがあるようですが……色々あって追いかけっこになります。
それにも特徴があって私たちの場合、オニが「ストップ!」と言うと、みんな走るのをやめてその場に止まるんです。
オニは「誰某のところまで何歩」と宣言し、その歩数以内に標的にタッチします。
もちろんタッチされた子が次のオニです。
標的は移動しなければ避けてもよく、3回避けたらオニは交代せず続投ですが、それは滅多にありません。
当時、フクオくんという男子が苦手でした。イジワルで乱暴者で、ゲームのルールも破るし、私は時々泣かされていました。周りの人から「アヤちゃんを好きなんだよ。許してあげなよ」と言われて余計に腹が立つやつです。
だいたい、男の人は本当に好きな人には優しいのです。残念ながらまだそんな経験はありませんが、周りを見ていれば分かります。
あのころ一緒に怒ってくれたのは姉と、いちばん仲良しだったルリちゃんだけでした。
その日、何人かで「あぶくたった」を始めようとするとフクオ君が「まぜて」と寄ってきました。頭を本当に触る常習犯です。
私は朝にルリちゃんと美容師ごっこをして、パンダ耳のような可愛いお団子にしてもらったところでした。
「頭に触るの禁止だよ」
ルリちゃんが念を押すとフクオくんは頷きましたが、約束を守るか怪しいものです。でも仲間外れにする訳にもいかず「まぜてあげない」とは言えませんでした。
「じゃあ、おれがオニやるわ」
私たちはフクオくんを囲んで歌い始めました。
あーぶくたった 煮えたった
煮えたかどうだか食べてみよう……
いつもの仕返しに彼の髪の毛をわしゃわしゃしてやりたくなりましたが、ルール違反はしません。それに、もし私がオニになったとき仕返しの仕返しをされても困ります。
ルリちゃんが結ってくれたお団子ヘアを、今日一日は絶対に崩されたくなかったのです。
むしゃむしゃ
まだ煮えない
歌がもう一巡したところで
「できた!」
年長さんが声をかけるとオニ以外の皆で「ごちそうさまでした」と続けます。食事らしい場面はとくにありません。
後に聞いた話ですが一説には、この遊びは飢餓状態を元にしているそうです。だから味見でガッつくし、料理が出来たといってもろくに食べるところがないのでしょう。
鍋で煮られる食材役がオニを兼ねるのも、つまり……そういうことです。
オニは遊び場のすみっこに連れていかれ「戸棚をしめて、鍵かけて」そこに留められます。……当時の私は、料理の残りを保存する場面だと思っていました。
残りのみんなは「おふとん敷いて、ねーまーしょ」と離れてゆきます。やがて
「トントン」
「何の音?」
とやり取りが始まります。
答えるのはオニの役目で、無難な「風の音」とか好きな漫画のネタとか色々ありますが、フクオ君は「誰かがハサミを足の上に落とした音」なんてイヤなことを言いました。
何度目かで
「オバケの音!」
と言われてオニ以外は一斉に逃げます。
一心不乱に駆けました。
あいつにだけは捕まりたくない!
この遊びでは早く走ることにさほど意味はありませんが、髪を守るためにいま出来ることは他に思いつきませんでした。
神様お願いです! いま助かれば運動会で転んだって泣きません!
「ストップ!」
と聞こえたとき、本当に誰よりもオニから離れていた自分に驚きました。
他の人と同じように脚をコンパスにして自分の周りに円を描きます。オニはこの線を足で越えてはいけないのです。
フクオ君が宣言します。
「アヤちゃんの所まで二十五歩!」
「えぇ……? 長すぎない?」
年長さんが呆れていました。私は十七歩しか逃げておらず、二十歩もすれば砂場やブランコがあるのです。しかしルール違反ではありません。
「……十! 十一、十二、十三……」
フクオ君はずいぶん大股で十歩で来てしまい、余った歩数で私の描いた円のギリギリ近くを周っています。
どこから狙えば避けられないか見定めているのでしょう。私の怯えた顔を楽しみながら。こんな奴に触られたら私の髪型は台無しにされてしまうに違いありません。
「いい加減にしてよ。アヤ可哀想じゃん」
「さっさと決着つけろよな」
「二十歩にまけてやりな」
さすがのフクオ君も外野の声に二十歩で止まり、そこからタッチを試みました。
「いち! ……ああチクショウ」
右に避けると、フクオ君の手が私の左脇腹の近くで空を切りました。
「に!」
しゃがんで避けつつ転ばないように両脚を踏ん張ります。
「さんっ!」
体勢を立て直す間もなく上からくる手を避けたはいいが、自分の手を地面についてしまいました! さっき足で描いた円の境界線の上に、わずかに指先が掛かっています。
「みごとな避けっぷりじゃんか。フクオの負けだよ」
さっきは決着をせかしたタカシ君が庇ってくれました。
「オレはみとめない! 線のうえは、あやちゃんの陣地じゃない!」
線の上をどう扱うか、明確な決まりはありませんでした。
もはやこれまでと、立ち上がりかけて顔を上げると……。
フクオくんの後ろに異様なモノが見えました。
「キャァーーーーー!」
どうしたの? と口々に聞かれましたが、私は怖さのあまり泣き出してしまい、話すことが出来ませんでした。
フクオくんの肩に、どす黒く骨張った猿のミイラみたいなものがしがみ付き、こちらを睨みつけていたのです!
「何かいる! フクオくんの後ろに!」
と言いたいのに動けないし声も出ません。
みんな怪訝な顔をしています。
「おやつの時間ですよ〜!」
先生の声が響くと雰囲気が一変。子供たちは一斉に屋内へ駆け込むし、私もふつうに動けるようになりました。どす黒いものはいつの間にか見えなくなりました。
「おやつなんか要らねえよ!」
フクオ君自身が私を睨んでいます。
「お前、オニになりたくないからって駄々こねてんじゃねえぞ」
年長さんがたしなめます。
「アヤちゃんも我儘だけど、フクオくんもいけないよ。いままでルール違反してきたし、やたらに脅かすから信用されないんだよ」
我儘と思われたのは心外ですが、ルリちゃんが結ってくれた私の髪型は守られました。言えなかったことをルリちゃんにだけ打ち明けました。
「信じて。フクオくんの背中に何かいたんだよ」
「うん……わたしも見たことある」
次の日から、フクオ君は保育園に来なくなりました。
(続く)
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