派遣社員・矢橋かの子の話

「あの」

黒縁の眼鏡を掛けた青年が尋ねた。

「それって、本当に偶然なんでしょうか?」

 

「悪魔の仕業と思うか?」

 ニヤリと笑って問い返す吉見さんが私には少し怖かったけれど、青年は臆せず説明する。

「いえ、僕の考えですが……Lさんはライブハウスの物置で眠ってしまったんでしょう。そのとき同じ施設にいた他のバンドが発表前の曲を打ち合わせや何かで流したのを、夢現に聞いてしまった……という可能性はないでしょうか」


「うむ……いかにもありそうな話だな。

 じつを言うと今でも時々思うんだ。

 もし俺たちがLの初の作曲だと思っていたあの曲を……練習したり定刻に会場入りしたりして、俺たちが発表していたら……?

 そしたら……オイオイ、胸ぐら掴まれるのは俺たちだったかもな!?」


「もう一つの怖いお話が始まってしまうわね」

 色白な女性が目を細めた。両目の下がぷっくり膨らむ。涙袋というのだ。それがあんなに目立つ人を見たのはたぶん初めてだ。


「長々と話しすぎたか。じゃあ、灯りを消しに行ってくるぜ」

 吉見さんはマイクを戻し、縁側に出て行こうとする。

「ランタンを持たないの?」

 さっきの女性が声をかけた。


「一つしかないので次の方に譲ります。タイガーは夜目が効くので」

 彼は素に戻っていた。マイクを持たない状態を素とするなら。


 そういえば、先に話を終えた人が誰も戻ってきていない。

 歩き方が遅いのか、もうバスに乗ったのか。岩永さんは主催者の仕事があるのか。

 それとも……?


  *  *  *


「次は私ね。矢橋かの子と申します。ふつうの派遣OLです。

 この秋に結婚するので、夫になる人と別行動でお泊まりするのはこれで最後になります。あの人は怖い話が苦手だから、いまのうちに目一杯楽しまなくちゃ。

 と言っても、これから話すのはあの世も悪魔も出てこない、人間が怖い話……昔の女友達の、恋の話をするわね。


 親友には大好きな恋人がいたの。彼がいないと生きてゆけない……なんて話を聞くたびに、彼女が本当に死んでしまったらどうしよう、と気が気じゃなかったわ。


 ある日、その彼にほかの女の影がチラつきはじめたの。

 気づいたキッカケは、親友がまだ教えてもらっていない、彼のSNSアカウントを偶然見つけたこと。親友のために彼に内緒で浮気相手を遠ざけようとしたの。

 会って一言言ってやるチャンスは意外に早く巡ってきたわ。

 忌々しいことに、その女は彼の自宅に入り浸っていたの。


 彼は女に煙草を買いに行かせた。親友と同じようにね。アパートの出入り口近くで待ち伏せしていたら案の定よ。

 で、お決まりのセリフだけど……。


「こンの泥棒猫ォォッ!」


 って、なんと私が言われたのよ!

 あの女、自分が本命だと勘違いして私を浮気相手だと思い込んだらしいの。

 しかも実物はSNSに上げてた自撮りの七掛けってところだったわ。


 親友に知らせたら勿論ひどくガッカリしたけれど、次の日には、そんな女に引っかかる奴はどうでもよくなったって。

 私はそのころ、親友が引き下がる形になったのが釈然としなかった。けど、もう好きでないなら関係ないものね。


 




(続く)

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