01.アイデンティティがない1
僕が転生したという事実に気がついたのは、かなり遅かった。
雪山山荘で視界が闇に落ちた後、再び意識を取り戻した。その後も意識は鮮明だったが、しばらくは体を自由に動かせなかった。
目を開けても、明暗しか認識できず、口を開いても言葉はでてこない。聴力だけが正常に働いていたが、余計に不安を募らせた。
聞こえてくる音が、全て意味が分からない。病院にしては電子音もなく静かであり、様子を見に来る男女の声は穏やかだった。
日本では治療できないほどの重傷を負ったので、海外に連れていかれたのだろうと推測していた。しかし、視力が安定するにつれて自分が転生したということを理解した。
やけに親しげな男女は、身長175cmだった筈の僕を軽々しく持ち上げるし、彼らからは敵意ではなく愛情を感じる。
そして、自身の体の異変に気づいた。小さくて可愛らしい手足、異様に低い視線、衰えた筋肉、高い声。
なにより、男としての一部分が消えていた。まあ、何というか、僕は女になっていた。
転生。肉体が死に、魂が新しい肉体に移っていくこと。人生を一からやり直す、宗教の概念的考え方だ。
佐藤ミノルは死んだ。僕はモニ・アオストとして、転生したということだ。
と、ここまで理解したのが二年前。7月1日はモニ・アオストの誕生日。今年で三回目を迎える。
この日は、僕にとって重要な一日だった。
雪山山荘密室殺人を忘れた日は一度もない。モニ・アオストが三歳になったということは、佐藤ミノルが死んでから三年経ってしまったということだ。
現在、2026年。あれから、どうなったのだ。殺人鬼は捕まったのだろうか。
否、捕まっているわけがない。吹雪に囲まれた雪山山荘で起きたことは、誰も気が付かない。殺人鬼は証拠を消すのに充分な時間を手に入れている。六人分の死体を処理し、雪山山荘を燃やしてしまえばいい。
僕だけが、犯人を知っている。犯人を、この目で見ている。止めなくてはならない。
殺人鬼を僕だけが止められる。
何も、正義感などで動いているわけではない。そんなも崇高なものは持ち合わせていない。ただ、自分の呪いに蹴りをつけたい。
転生は、そのチャンスだ。全ての事件を解決するために、僕は生まれ変わったのだと理解した。
そのために、調べなければならない。
ここがどこで、日本にはどうやったら帰れるか。
僕は、三歳の体を酷使して、行動を始めた。
***
【◾️暦◾️◾️0年07月01日05時10分】
むくりとベッドから起き上がると、布団をめくり足をそっと地面につけた。隣で寝ている母親が起きないように、僕は静かに立ち上がって、小さな足音で廊下へと出た。
アオスト家は金持ちだ。どこの国の貴族か皇族かわからないが、とにかく家がでかい。五階建てで、部屋は無数にあり、未だに知らない部屋がある。
屋敷には八人住んでいる。僕と両親、召使三人と侍女が二人いる。部屋の数と比べて明らかに人数が少なく、敷地を持て余しているのがわかる。
朝五時に活動しているのは、朝食の準備をする召使二人だけだ。その他の五人はしばらく起きることはないだろう。
それもそのはず、今日はアオスト家一人娘である僕の三歳の誕生日。つい二時間前まで彼らはサプライズ誕生日パーティーの準備に明け暮れていた。両親は、今までの傾向から見て、最低でも五時間の睡眠を取る。加えて、召使達は寝室に入ることはない。
つまり、朝九時までの計四時間は、僕が家にいなくても誰も気が付かない。
今から、僕は屋敷から脱出する。
家出というやつだ。
今まで、一度も外に出たことがない。テニスコート四個分以上の大きさの庭を持つアオスト家は、外に行かなくても充分すぎるほどの広さがあった。日光浴や散歩は全てそこで行われ、モニを外に連れ出す理由がなかった。
だが、屋敷を抜けた先に、村が広がっていることは分かっている。
八人の住人以外にも客人は度々来る。彼らの話から察するに、とある国の辺境の村の一部がアオスト家のある敷地のようだった。
その村に行って、情報を集める。
バスや電車があれば、更に都市部にいけるだろう。空港までのアクセスが分かれば上出来だ。三歳児の体では、そう遠くまでは行けないが、今は情報があればそれでよい。日本に行くのは少し遅れるが、仕方がない。
日本に帰る手段さえ見つけられれば、次の作戦を立てる。まずは、現状の把握を最優先として考えた。
母親の寝室を抜け出した僕は、静かに廊下を進む。この屋敷では、一歩道を間違うだけで、迷子になりかねない。
玄関までの道のりは何度もシミュレーションした。後は実践するだけだった。
召使達の足音も、静かな屋敷の中なら事前に気が付くことができる。子供の体と無限に感じるほど広い屋敷は相性がいい。隠れることなど容易だった。二人の召使達を通り抜け、長い廊下にたどり着く。
長い廊下を抜けると、両開きの扉が姿を現した。
一度だけ、父親の帰りをここで出迎えたことがある。その時より身長は伸びたが、未だに首が疲れるほど大きい。
ーーようやく、出られる。
安全に育てるために機能していた屋敷は、僕にとっては牢獄だった。いち早く情報を集めたいのに、知識は抑えられ、情報は遮断されていた。彼らに悪気はなく、僕が無口な三歳児だったのが悪いのだが。
アオスト家に恨みはない。両親の愛情は伝わっているし、モニのことを一番に考えているだろう。それでも、僕は日本に帰らなければならない。
僕は佐藤ミノルであって、モニ・アオストなのだ。
飛びつくようにドアノブを掴み、全身で扉を押した。
僕を外界と阻んでいた扉は、気が抜けるほどすんなり開いた。光が外から漏れ、廊下を照らした。
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