獣の宝石
水涸 木犀
第1章 王女と猟師
1話 おてんばマニー
「マニー様、マニー様!」
王宮の庭からこっそり自室に帰ろうとしていたわたしは足を止め、恐る恐る振り返る。厳しいことで有名なメイド長のハンナが仁王立ちになってこちらを睨みつけている。
「もう土遊びをするお歳ではないと、何度申し上げればよいのですか。あなたは第一王女なのですから、もうすこしおしとやかにしていただかなければ困ります」
「でも、次期国王にはサイレンスお兄様がなるんでしょう? わたしは別に王になるわけじゃないんだから。自分の家くらい、好きに過ごさせてよ。それに土遊びじゃなくて、ソミンの木の下にいただけなんだけど」
肩をすくませつつ言い返すと、ハンナはただでさえ鋭い目を尖らせた。そんなに眉を寄せたらしわが増えると思ったものの、口に出したら更に空気が悪くなるのは火を見るよりも明らかだ。
「そういう問題ではありません。マニー様は王家の者として、身分にふさわしい言動をとっていただきたいのです。それが王宮に住まう者、ひいては国民の手本となるのですから」
「はい」
言動の手本というのなら、わたしよりハンナのほうがよほど参考になるだろう。それも口にしたら小言を返されるに決まっている。今は大人しく頷いておくのが吉だ。
そもそも、お父様付きのメイド長であるハンナがわたしを見つけて声をかけてくるということは、小言以外に何か用があるに違いない。であるならばおまけにすぎない小言のパートは短く済ませておくに限る。案の定、しおらしい雰囲気を出したわたしを見て、ハンナはほんの少しだけ表情をやわらげた。
「わかっていただければよいのです。マニー様が聡明でいらっしゃることは、よく存じ上げておりますから」
「お世辞はいいよ。本題は、お父様からの伝言?」
用件を確認すると、ハンナは姿勢を正して頷く。
「ええ。イセリオス様からの言伝です。身支度を整え次第、すぐに居室に来るようにと」
「お客さまかしら?」
そんな話は聞いていないと思いつつ問いかけると、ハンナは首を横に振る。
「私も詳しくは伺っておりません。しかし、本日ご来客はありませんから、どなたかと引き合わせるというわけではないと思いますよ」
「ならいいけど」
わたしは身をひるがえして、自分の部屋へと向かう。
「お父様には、三十分後に参りますと伝えておいて。来客じゃないのなら、あまり華やかな格好をする必要もないだろうから」
「かしこまりました。その土埃をきちんと落としてからにしてくださいね」
「はーい」
しっかりくぎを刺してから一礼をして去っていくハンナに背を向けつつ、彼女の気配を追跡する。
(一歩くるぶしを下げて、わたしに向かって一礼。顔を上げてから、左に身体を向けて歩き出す。誰も見ていないのに、丁寧な所作。さすがね)
わたしが直接見ていない人間の動きに敏感なのには、わけがある。
隠密。わたしたち、オルセン王国の王族全員が身につけている能力。小国であるオルセンは、ご先祖さまが隣国から逃げ出してきたことで建国された歴史がある。だから、常に隣国からの刺客におびえる日々を送っていた。ご先祖さまたちは隠密の能力を高め、自らの存在感を消すことで暗殺者たちから逃げ延びてきたのだ。
ゆえに隠密の能力が高い人は、それだけオルセン王国の王家の素質があるとして高く評価される。そして、今の王室で最も隠密が得意と目されているのは、わたしだ。
ハンナの気配が遠ざかったことを確認してから、わたしは廊下を駆けだす。三十分とは言ったが、庭で遊んでいた汚れを落として、着替えとお化粧をしている時間を考えたらあまり余裕はない。
(廊下を走ることより、お父様との約束を守らないことのほうが悪いものね)
そう自分に言い聞かせて、わたしは部屋に飛び込んだ。
「アンリ! お父様から呼び出しがあったの。約束の時間は今から三十分後。急いで服の用意をしてちょうだい。あとお化粧は薄めにね。いつも通り頼むわ」
「マニー様。いつもぎりぎりの時間をご指定なさらず、もう少し余裕を持たれたほうがよいですよ」
わたし付きのメイドであるアンリの小言を、軽く聞き流す。
「お父様もお忙しいのだから。わざわざハンナが使いに来たってことは、けっこう重要な要件なのでしょうし。わたしが急げば済むことなら、それに越したことはないでしょう?」
「マニー様の国王様を敬うお気持ちは尊いとは思いますが……」
ものいいたげな様子に反して、アンリはてきぱきと質素なドレスとそれに合わせた靴、更に化粧道具を取り出していく。今着ている服を脱ぎすてて――アンリの負担を減らすために、浄化魔法をかけることも忘れない――素早く着替えながら、わたしは首を傾げた。
「それにしても、お父様からの呼び出しって何だろう。誰かの誕生日でもないし、お客さまが来ているわけでもないっていうし。勉強もちゃんとやっているもの」
「もしかしたら、マニー様にしかできない特別なご用事なのかもしれませんよ」
「そうなのかなぁ」
着替え終わったわたしを鏡台の前に座らせ、アンリはさっさと化粧を施していく。もともと薄化粧はしていたけれど、さすがに王の前ですっぴんに毛が生えたような見た目で現れるわけにはいかない。要望よりも少し濃いめの化粧をしつつ、アンリは言葉を続ける。
「マニー様の隠密の能力はとりわけ秀でていらっしゃいますから。何かお仕事を任せたいのかもしれません」
「うーん。まあ、考えていても仕方ないか。会いに行けばわかることだし」
アンリが化粧を終えるのと同時に、わたしは席を立つ。控えめな髪飾りが揺れるのを見て、うんと頷いた。隠密を生業とするオルセン王国の人間として、音がつく装飾品を身に着けるのはご法度。故に髪飾りもさらりと揺れるだけで、全く音がしない布製だ。
「おーけい。行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
頭を下げるアンリに手を振り、再び廊下に出る。付近に人がいないことを確認して、わたしは深く息を吸い込んだ。
(「隠密」発動)
お父様の近くは人の目が多い。優秀な警護の目がたくさんある。それは、わたしの隠密の腕前を試すチャンスでもあった。長い廊下を走り抜けて右折し、真っすぐお父様のいる王座へと向かう。何人かの護衛騎士とすれ違ったが、彼らに気づかれた様子はない。
(もっと熟達してわたしの存在を見破れるようにならないと、お父様付きの兵士にはなれないよ)
そう思いながら、迷路のような道をどんどん進む。角をいくつも曲がり、ようやく重厚な扉が目の前に現れた。前に立っていた長槍を持つ騎士二人が槍を扉の前にかざし、×印を作る。
「マイエンガルド様でいらっしゃいますか。王様からのお呼出と伺ってはおりますが、入室前にいったん、隠密を解いていただけますでしょうか」
さすがに王の居室前を護る騎士の目はごまかせなかったらしい。しかし、扉の前に来るまでの間一人も術を見破れなかった。それは成長だと思っていいだろう。自分を納得させて、わたしは大人しく隠密を解除した。扉の右側に立つ騎士が目を細める。
「本当に、マイエンガルド様だったのですね。あまりにも気配がないので、消去法で貴方だろうとは思っていましたが。さすがの御業です」
「ありがとう」
賞賛の言葉を素直に受け取っておくと、騎士たちは槍を納めて敬礼をした。
「王様は中にいらっしゃいます。どうぞこちらへ」
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