訳あり令嬢と幽居の公子
石月 和花
第1話 出逢い
アンナ・ラディウスは、その可愛らしい容姿とは不釣り合いな父の形見である剣を腰にぶら下げて、街の中を疾走していた。
もう直ぐ十八歳になる赤毛の彼女は、本来ならばこのような所に居る人では無かったが、今は訳あって弟と二人でここ王都の市井で暮らしている。
彼女は、ここ王都から西にあるラディウス男爵領の領主の娘だった。
けれども五年前、両親が不慮の事故で亡くなると男爵家は呆気なく叔父に乗っ取られてしまい、アンナは命からがら逃げ出して、今は冒険者ギルドに籍を置き弟と二人身を寄せ合って市井で暮らしているのだ。
幸いにも騎士だった父から剣の手解きを受けていた為、冒険者ギルドの仕事をして今日までやって来れたのだが、しかし今、彼女は窮地に陥っていたのだった。
(どうしよう、完全に出遅れたわ……)
ギルドが開くのは朝の八時。割りの良い仕事は直ぐに埋まってしまうし、それなりの仕事だって一時間もしたら売り切れてしまうのに、今の時刻は午前九時になろうかというところなので大遅刻である。
勿論普段ならば、八時過ぎには到着しているのだが、今朝は仕方がなかったのだ。
月末の今日は、朝一で借りている家の家賃を支払いに大家であるグリニッジ婦人の元へ向かったのだが、一人暮らしである老齢の婦人はアンナの来訪を大変喜び、ここぞとばかりに雑用を頼んできたので、気付いたらこんな時間になってしまったのだ。
(お願いっ、せめて何か一件でも仕事が残っていて……)
アンナは必死に走った。
家賃の支払いとその他の色々な急な出費で、蓄えていたお金は底をついてしまっているのだ。
それどころか今は手持ちのお金さえ無いので、このままでは弟のエヴァンにご飯を食べさせてあげられない。
だから今日は絶対にギルドの仕事をして日銭を稼がなくてはいけなかったのだが、完全に出遅れてしまったのだ。
気持ちが焦る中、全力で走ってギルドに到着すると、アンナは乱れた呼吸を整える間もなく扉を押し開けて、入り口右側にある仕事の依頼が張り出される掲示板を祈るような気持ちで見つめた。
すると、掲示板にはまだ一枚の依頼書が残っていたのだった。
(良かった!!)
アンナは、たとえ一件でも仕事が残っていた事に安堵し、とたんに胸が軽くなった。
しかし、それも束の間。
無慈悲にも彼女の目の前で頭からローブを被った一人の青年が、掲示板に残っていた最後の一枚の依頼書を取り上げてしまったのだった。
「あっ……待ってっ!!!」
アンナは、思わず見ず知らずの青年を呼び止めた。その依頼を取られてしまったら困るのだ。
は直ぐにその青年に駆け寄ると、彼の両手を握って縋るように懇願したのだった。
「お願いです、この依頼書を譲って貰えませんか?!」
依頼書を持っている青年の手を両手でがっしりと掴み、アンナは上目遣いで訴えかけた。
以前、借家の隣に住むお姉さんから、“男の人はこうやってお願いすればなんでも言うことを聞いてれる”と教えて貰っていたので、男の人の手を掴むだなんて抵抗はあったが、それでも、なんとしても今日の仕事を確保しなくてはならなかったので、使える物は何でも使ってやろうと思ったのだ。
けれども、世の中そんなに上手くいく訳がなかった。
知らない人に急に手を握られた青年は明らかに困惑の表情を浮かべて、アンナの手を解き一歩後ろに身を引くと、当然の疑問を口にしたのだった。
「えっ……と……。なんで?」
当たり前である。
いくらアンナが若くて見目の良い女の子であっても、急に見ず知らずの人にこんなことをされては警戒されても仕方ない。
アンナは彼の態度で冷静さを取り戻して、慌てて頭を下げた。
「急にごめんなさい。でも、どうしてもその依頼書を譲って欲しいんです。」
そう言ってこの青年に懇願しつつ、アンナは彼の様子を伺った。
ローブ姿の青年のグレーがかった青い瞳は困惑の色を浮かべているが、それでも直ぐに断りの言葉を口にしない所を見ると、どうやら、まだ依頼書を譲って貰える可能性はありそうに思えた。
なのでアンナは、このまま情に訴えかけようと、すかさず顔を上げて彼の目を真剣な眼差しで見つめて、誠心誠意、こちらの事情を説明したのだった。
「お願いします。先程今月分の家賃を支払ってしまったから、今、本当にお金がない状態なんです。何か今日仕事をしないと、弟にご飯を食べさせてあげられなくなってしまうんです。だから……その依頼書を譲ってください!」
アンナは再び深く頭を下げた。
いつもこんなギリギリの生活をしている訳ではないが、家賃の支払いの他、仕事道具である剣が刃こぼれをおこし修理が必要だった事や、弟が流行り病にかかり医者にかかった事、それから弟が通うアカデミーへの学費支払い……。それらが全て同時ににやってきて、一時的に困窮しているのだ。
とにかく、今はこの見ず知らずの青年の善意に賭けるしかなかった。
だから祈るような気持ちでアンナは彼の返答を待ったのだが、しかし、青年が口にしたのは思いもよらない言葉だった。
「弟って、何歳なの?」
「えっ……?十二歳ですけど……?」
アンナは彼が何故弟の年齢を気にするのか質問の意図が汲み取れず、怪訝に思いながらも事実のみを答えた。
すると、彼女の返答を聞いた青年は、少しアンナに同情するような顔を見せて、それから無慈悲に告げたのだった。
「そっか。幼児ならまだしもそんなに大きい子ならば、一日くらいは我慢出来るよね。」
ここでようやく、アンナは彼の質問の意図を理解した。
十二歳の大きな子供ならば、一食くらい抜いても構わないだろうと言っているのだ。
青年の言い分は一般的には理解出来る。
しかし、弟のことを何より大切にしているアンナにとってそれは、到底納得出来ることでは無かった。
「弟は流行病から回復したばかりなんです。なので、ちゃんとご飯を食べさせて弱ってしまった体力を回復させたいの!!」
「それならば、人に借りるとかも出来ると思うんだけども、それはしないの?」
「それは……」
彼の正論に、アンナは一瞬言葉を詰まらせた。青年の言う通りなのだけれども、彼女にはそれをする事が出来ない理由があったのだ。
「……既に借りてるんです……」
「……成程……切羽詰まってるんですね。」
俯きがちに苦しい家計の事情を説明すると、青年は慎重に言葉を選びながら、気の毒そうに彼女に声をかけた。
彼は明らかに憐れむような目をアンナに向けているが、しかしだからといって、依頼書は譲ってはくれそうには無かった。
「けれども、さっきも言ったように一日位食事を抜いたって平気でしょう?そんなに必死にならなくたっていいじゃないか。」
「そりゃ、私一人だったら良いわよ。けれども、弟にはひもじい思いをさせたく無いの!」
「随分と過保護じゃないかい?弟ってもう十二歳なんだろう?」
「ええ、そうよ。でも何歳だろうと過保護にもなるわ、だってたった一人の弟なんですもの!」
押し問答は平行線だった。青年の言う事はもっともなのだが、本来なら男爵家の嫡男であるはずの弟に、アンナは惨めな思いをさせたく無かったのだ。
「……しつこくてごめんなさい。でも……本当にお願いします。」
アンナは出来るだけ謙虚な態度で、とにかく深く頭を下げ、ただひたすら依頼を譲ってくれるようお願いした。
しかし、どんなに彼女が頼んでも、青年は頷いてはくれなかった。
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