第2話
あの出来事は、夢だったかもしれないし、幻だったかもしれない。
「我らの王が、近いうちに、そなたの前に現れる。その男を、望む場所へ連れて行け」
突然ナギの目の前に現れたのは、ひどく
しかしナギは、その、極めて脆弱な外見をしている老婆の前で身じろぎひとつできず、これまでにない緊張感すら覚えながら、その不可解な要求をただ聞いていた。
「お前たちの王とは、何のことだ」
暫くの沈黙の後、かろうじて、浮かんだ疑問を口にすることができた。しかし喉が急速に乾き、声はみっともなく震えた。
「時が来ればわかる」
老婆は淡々と答える。
「それを、どこへ連れて行けという」
「それも時が来ればわかる」
「なぜ私がお前のために、その、わけのわからない要求をのむと思う」
「そなたは必ずあのお方に手を貸す」
老婆の低く嗄れた声が、辺りに響いた。そのときになって、ナギはここがついさきほどまでいた黒い森の中ではないことに気づいた。朽ちた巨木の幹も根もどこにも見当たらない、ただ開けた場所。見知らぬ空間はやたらに明るく、しかしそこには霧が立ちこめているために、視界が塞がる。白い靄が日の光を四方八方へ散りばめるせいで、目が眩むような煩わしさがあった。
霧と、ナギと、老婆しかいない。その異常な場で、老婆は、ゆっくりと右手を動かした。つられるようにしてナギは視線でそれを追う。老婆の右手の指先は、ナギの左腕をまっすぐに指した。
「……何のまねだ」
それに気づいたと同時に、ナギの胸の内に煮えたぎるような負の感情が溢れ、無自覚に歯を食いしばる。
血走った目で老婆をにらむが、彼女はひとつも怯みさえしない。
そして、こう言ったのだった。
「その腕を、いつまでも抱えているわけにはゆくまい。あなたは、我らの王をお求めになる。必ず」
「――くそっ!」
ナギは思わず悪態をついた。その自身の声で我に返った。日の光が、巨木の朽ちかけた枝が編み目のように絡み合う高い天井から、網目のような影を作りながら落ちて、頬を照らしていた。わずかな温もりで、自分が
そこにはいつものように、肩から指先まで、革のグローブで覆われている。その下がどうなっているのか、意識しなければナギにすらよくわからない。
「どうかしたか、ナギ」
静かに、ドゥッラがナギの元に駆けつけ、跪いた。昨夜、亡国の王子を捉えて引きはがした時と同じように、無感情で、隙のない動きと問いかけだった。
黒い森で共に行動している男たちを、ナギは、管理しているわけではない。新参の者では顔と名前もはっきりとしていない存在もいるほどだ。このドゥッラという青年はその中では特異と言えるぐらいには、ナギに近しい存在だった。森に迷い込んで死にかけていたのを気まぐれに助けてやった時は、まだ背も小さく甲高い声の少年だった。それが今やナギを見下ろすほど身体が伸び、口を開けば太い音が漏れる。それは、起伏のない森の中の生活で、ナギに時の流れを感じさせる唯一のものだった。
「なんでもない。移動するぞ」
ナギの言葉にドゥッラは無言で頷くと、離れた場所で休んでいた男たちに声をかける。
彼らは皆、ナギに頼ってこの黒い森を出入りしているが、同時に、ナギを恐れてもいる。ほとんどの男がナギに直接声をかけることはなく、ドゥッラがその繋ぎ役になっていた。
ナギは他人を必要としていない。いつ一人きりになっても良いのだろう。だからこれまで、男たちに気を使うこともなければ、何か具体的な指示をすることもなかった。少なくとも、ドゥッラがこの黒い森にやってきてからの5年の間には、一度も。
それがある日、突然、ナギが今までにない要求をしたのだった。
「王と呼ばれる者を連れてこい」
唐突に、趣旨のわからない指示を出され、ドゥッラは困惑気味に聞き返した。
「王……? どこかの国の王さま、ということか?」
居心地が悪そうに、ナギは左腕を覆う革をさすりながら、逡巡するように視線を漂わせる。
「……おそらく、温暖な気候の国だ」
「はあ?」
「あまり技術が進歩していないかもしれない。麻の布に穴をあけただけの簡素な服を着ていた。露出が多いのは暑いからだろう」
「その、王さまが、そんな格好を?」
「いや、老婆だ。顔は平たくて、肌は浅黒かった」
「うーん……」
要領を得ない指令を、しかし無視するわけにはいかなかった。ナギと共に、黒い森にいたいのであれば。
少ない手がかりをもとに、森の外の人里に降り、情報を集めた。元々ナギ以外の人間は、黒い森で仕留めた魔獣の皮や臓器を物々交換しに里に度々下りていたこともあって、世間の動静を知ろうと思えば容易かった。
ほどなくして、大陸の南方にあった小国が、海の向こうから攻めてきた異民族に攻め落とされ、その王の後継者の行方が知れていない、という話を得られた。
「アクツマという名の、異能を使う一族が興した国らしい」
「何でもいい、とりあえずそいつを連れてこい」
ドゥッラが伝えた情報に対して、ナギは素っ気なくそう答えた。捜索の末に、残党狩りから逃げ回っていた亡国の王の息子を見つけることが出来た。王子は意外なことに、黒い森のすぐそばで一人彷徨っていたのだった。
その男がナギが探していた者だったのかも、未だ定かでない。ただ、ナギがその男を連れて遠くへ移動すると言い出したので、男たちはひどく困惑した。
これまでナギと共にいた男たちは、ただゆるい繋がりを持ち、つかず離れずただ黒い森を出入りしていただけで、ナギの号令によって長距離を移動することなどなかったのだ。
男たちは困惑していた。ナギの言動にも、突然一味に加わった、亡国の王子の存在も。
一番ナギに近いところにいるはずだった、ドゥッラも、また困惑していた。
「おい、移動だ」
ドゥッラが声をかけると、地面に座り込んでいた薄汚れたむさ苦しい男たちが、気怠げに立ち上がる。その中で一人だけ異質な佇まいなのが、問題の、亡国の王子だった。
育ちが良いのだろう、と、ドゥッラはその姿を見る度に思う。隙がないと感じさせるのは、自分たちのような無骨者が放つ殺気や警戒心とは、全く別の何かに由来するものだ。
この男をどう扱うべきなのか、ドゥッラにはよくわからない。ナギが連れてこいと言ったにも関わらず、この男を目にする度に、ナギはひどく激昂するのだ。
「王子どの、立て。移動だ」
ドゥッラが声をかけると、男は小さく頷き、優雅な所作で立ち上がった。
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