la mondo

第一章:獣王の左腕

第1話

 かつて月がひとつだった頃、世界にはことわりがあり、それはナギにとって肌で感じられるほど身近なものだった。

 たとえば、潮が高く高くなる少し前。ナギの胸は必ず激しく騒ぎ、血がたぎり、その場にいても立ってもいられないような心地になった。それが何の予兆なのか意識するよりも先に、ナギは丘に向かって駆け出す。逃げて! 逃げて、みんな。波が来る! 海が来る、大きな水が私たちを飲み込んでしまう――。

 叫びながら走り出す少女の後ろを、村人たちが着いてくる。そうして高いところから人々が見下ろす岸辺は、荒々しい高波に浚われている。全身に吹き付ける風、世界の果てまで届きそうなほどの轟音、決して一つの形には留まれない黒々とした海原と白い飛沫、鼻孔をつく湿り気を帯びた空気。

 湾岸に、嵐は定期的に訪れる。それは人々を脅かすものではあったが、世界の秩序の中に組み込まれたものであって、予兆と共に訪れるものである限り、忌むべきものではなかった。

 ――月が、たったひとつであった頃は。

 今はもう、ナギに、予兆も予感も訪れない。胸が騒ぐことも、血が煮えたぎることも、まるでひとところに留まってはいられないように手足がひどく疼くことも、ナギには永遠にありはしない。そうであることは、彼女が唯一、まるで予兆に似た確信を持っていることであり、そしてそれをより確実にするために、彼女はずっと、黒い森を彷徨っている。

 そのはずだった。

「首長どの」

 暗がりの中、一人で焚き火の番をしていたナギは、背後からかけられた青年の声にはっと顔を上げた。

 虚を衝かれた。動揺を悟られたかもしれないと思うと、それだけで腹立たしい気持ちになった。

 燃えさかる炎の、赤みの強い光を下方から受け、闇の中に浮かび上がる白い面は、まっすぐにナギを見つめてくる。こんな無遠慮な視線を向けられることは、気が遠くなるほどの長い間、なかった。それがまた彼女を苛立たせる。

 男の、黒々とした艶のある頭髪も、麻で織られ簡素ながら丁寧に仕立てられた装束も、そこから覗くすらりと伸びた四肢も、土埃ですっかり汚れている。しかし、凛とした佇まいに、ひとつひとつの隙のない所作が、ナギが普段行動を共にしている無骨な男たちとは違う種の人間であると、直感的に思わせる。

 南方の小国の王家の血筋だという青年を、初めて目にしたとき、何を考えるまもなくその頬を衝動的に剣の鞘で打ち据え、ひどく後悔する羽目になったことを思いだし、ナギは一度目を閉じた。深く息を吐いて己を鎮める。左腕をすっぽりと覆う革のグローブを撫でる。

「明日には、海に出るのだろうか?」

 黙り込むナギに、男がそう尋ねた。その問いに、ナギは眉間に皺を寄せながら再び目を開き、聞き返した。

「海?」

「我々はワガノア王国へ向かっているのだろう。ならば必ず海路を取らねばならない」

 少し離れた場所にゆっくりと腰を下ろしながら紡がれたその言葉を、ナギは鼻で笑った。

「海には、行かない」

「馬鹿な」

 男が目を見開き、息をのむ。

「では、どうやってワガノアへ向かうのだ」

「陸路を行く」

「まさか、このまま黒い森を抜けるのか?」

「何が不満だ」

「不満ではなく」

 男が頭を振る。

「人間が踏破できる場所ではないのでは?」

 若々しく、雄々しさよりは線の細く美しいという形容が似合う顔立ちの男は、20歳は越えているはずだが、訝る様子を隠せないその表情に、未熟さや幼さが出ていた。

 ナギは再び、グローブごしの左腕を軽くさする。

 今度は自分を落ち着かせるためではなく、会話の相手を牽制するために、露骨なため息をついてみせた。

「私はお前を、そのなんとかという大国まで送ってやる。そう決まっている。私のやり方に口出ししたり、余計な詮索をするな」

「あなたの計画を否定する意図があったわけではない」

 言葉を選ぶように、一瞬男が視線を彷徨せる。

「ただ、俺にはあなたの計画を信頼する根拠がない」

「ハッ!」

 嘲るように声を上げ、ナギは背中を預けていた木の幹から体を起こし、立ち上がった。

「信頼、だと?」

「――そうだ。あなたは俺をワガノアへ送り、あなたは俺の代理人から対価を受け取る。そういう契約になっているのだろう? ならば、契約者として、俺はあなたの計画を聞き、納得する権利があるのでは」

「馬鹿馬鹿しい」

 信頼。契約。権利。それは、決まりきった明日が来ることが前提となる世界で発生するものだ。

 ナギはそんな概念とはもうずっと、無縁だった。

 ――月がひとつではなくなってから。

「良いか、――南の小さな国の、王子どの」

 ナギはこの男の名前を覚えていない。彼の故郷の名前も、その存亡にも興味がない。

 地面に座っている男を間近で見下ろすと、いとも簡単にその命を奪えそうに思えた。実際、本来であればそうだったろう。初めにこの男を目にしたとき、その身のこなしは、ある程度体系的に武術を学んだことがあるのだろうと思わせた。その一方で、実戦の経験は圧倒的に乏しいだろうことも見て取れた。

 ――わからせてやらねばなるまい。

 ナギは腰に帯いていた長剣をゆっくり抜き、男の首もとにその切っ先を這わせた。

「我々の間に、信頼も契約も必要ない。お前は黒い森に深入りするのが嫌だからといって、今すぐここから離れられるのか? どうやって、一人でこの森から抜ける。仮に抜けられたとして、他の支援者を探して、その西の大国やらに連れて行ってもらうのか?」

 男は唇を噛んで小さく視線を足下に落とした。ナギはすぐさまその顎を剣の切っ先で押し上げた。

「わかったか? 今、お前自身が判断し選べる方法は、この世界に存在しない。余計な考えや口出しをせずに、ただ私に従っていれば良い」

 男は何も言わず、血の気のない紫色の唇をキツく結び、しかし目だけは意志の強さを失わずにまっすぐこちらを見上げた。

 よく濡れた眼球には、隣で燃え盛る焚き火の赤い揺らぎの影が映っている。その先には、どこまでも深い黒がある。ナギはこの黒を見たことがある。この男の目を一瞬でもじっと見つめてしまうと、いつもそんな風に思ってしまう。そしてたった今、それがどこで見たものだったかを思い出してしまった。

 真夜中の、静かな海。漁に出る男たち。篝火。

 遠い昔の、それらの記憶が脳裏を過ぎった瞬間、何を考えるより先に、ナギは右足で男の腹を全力で蹴った。

 踵が鳩尾に入った。急な攻撃に対処できなかった男が、うずくまるようにしてせき込んでいる。

 少し離れたところで仮眠を取っていたナギの同胞である青年が、騒ぎに気づいて目が覚めたのか、慌てて駆けつけた。

「何があった、ナギ」

「ろくに寝もせず、くだらないことを話しに来るので黙らせてやった。お前らの方でちゃんと見張っていろ、ドゥッラ」

 ドゥッラは、男と同じ年頃の、しかし彼よりは野性味のある外観の青年だ。ナギよりも男よりもずっと乏しい表情で、二人の様子を素早く観察すると、男の襟首を無造作に掴み、立たせた。

 ナギからの高圧的な言葉と暴力を受け、これ以上は何も言う気が起こらなくなったのか、男は無言でドゥッラに連れられ、ナギの視界から消えた。

 途端にその場は静かになった。

 黒い森は、あらゆる生命がまともに生きることを許さない。鳥も虫も獣も存在しなければ、森の深い場所は常に静寂だ。植物も枯れ果てている。だから風で葉が擦れ合う音さえ、この呪われた森では存在しない。あるのはただ、朽ちるのを待つだけの、みずみずしさを失った巨木たちの亡骸だけだ。

 ナギの目の前で燃える炎だけが、ぱちぱちとはじけては、熱を持った音を生み出している。

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