犬は死なない犬死にの歌

沓石耕哉

第1話

 センパイはえた。低く短く、人間も本気で犬のえ真似をするとこんなにも似るのだなあという迫真の『バウ』であった。そうして通りすがりの犬におびえられていた姿を、僕は曲がり角の影で目撃していた。明るい満月の夜だった。犬に逃げられたセンパイの背中は、妙に物悲しそうに曲がっていた。しかし、センパイと犬にまつわる接点といって思いつくのはその程度だ。今夜、センパイから話しかけられるまでは。


「犬が死ぬ歌って、許せなくないか」


 バックルームからレジ側に出てきたセンパイは突然、真面目な顔で相談してきた。雑談として処理するにはあまりにも真剣な様子であった。

「なにを急にそんなことを」


 内心、人だろうが犬だろうが、猫でもサメでもそれが歌の展開として必然か必要なら死ねばよい、と思う僕はなんとも返事がしづらかった。娯楽というのはなにをしても嘘なので、犬を銃で撃とうが許されているはずだ。


「街中で流行りの歌が流れてきたなあと思って、どうも犬の歌らしくかわいいなあと思ってね、歌詞をよくよく聞き取ってみたら最後に犬が死んでいたんだよ。不意打ちもいいところだ。犬が好きだからこそ真面目に聴こうとしたのに」

 気の毒な事故にあったような話ではある。


「先輩が犬派なのはよくわかりました。飼っているんですか?」

「子供のころから喘息やアレルギーがひどくて、親には生物を飼うのを許されなかった。おれはすべての犬を飼い、飼い犬に愛される者にうらやましさと妬ましさを覚えている」

「そんなに?」


「だからねえ、歌でも犬が死ぬのを何度も聞くのは、あまりにもつらいんだよ」


 センパイの顔色は土気色である。元々深夜帯バイト達の顔色といったら夜型らしい青白い肌ばかりだとは思うが、それにしたって具合悪そうではある。僕ですら、なにかなぐさめになる話でも投げかけるべきだろうと考えてしまうぐらいに。


「犬殺しが死ぬ歌でも流行れば、架空の犬も死ななくなりますかね」

 そこではっきり僕に振り向き直ったセンパイは、なぜか今にも泣きそうな顔をしていた。

「人も死なないし犬も死なない平和な解決策がいいなぁ!」


 面倒くさかった。とはいえセンパイが博愛主義である可能性を考慮しなかった僕も悪い。僕ときたら昔から、油断すると思ったことはよく考えもせずに口に出す節がある。一昨日も四つ歳上の姉に『体形が変わったかどうか』などと尋ねられたから、正直なことを言ってみて理不尽にもしばかれたばかりだ。


 まあいいだろう。外はどうも雨が降り始めて、いよいよ客も来そうにない。普段は手の回らない棚の裏の掃除だとか、客のいない間にやった方がいいことは山ほどある。だがそれよりも架空の犬とセンパイのメンタルを助ける方法を真面目に考えようじゃないか。


「勧善懲悪はウケがいいと思ったんですけどね。それに架空でやるからこそ、犬を大事にしないやつからッたるぜ! ぐらいの強い気持ちであたっていくのは必要なんじゃないかとか」

「悪を叩きたいのではなくて犬を助けてほしいだけだからね、おれは」

 なんだかんだセンパイも雑談に乗り気であった。


「……でも、犬が可哀そうな歌よりは、犬がひたすら可愛い歌が流行ったらいいっていうのは、そうかもね」

「そうですよ。だから先輩が非業の死から犬が復活するようなハッピーな歌をつくればいいんです。そして公共の場でリクエストされるぐらい流行らせれば、許せないぐらい悲しい歌で死ぬ犬はいなくなるんです」

「相当無茶言うよな、西戸野ニシドノくんも」


 失笑かもしれないが、センパイの気分はいくらか緩んだらしい。僕だって本気でセンパイが犬の歌を作りはじめて、あまつさえ世界に流行らせるなんて思っていない。そのぐらい世の中がちょろいならなによりなのに、とは思うけれど。我々は犬の雑談を交えながら、なあなあのままの仕事をほどほどのやる気で再開しはじめる。


 センパイが許しがたいのが犬の非業の死なら、僕が許しがたいのは陳列した食品をわざわざ後ろ側から取っていく客かもしれない。日付が変わると同時に廃棄になるデザート類を、雑にカゴに放り込みながら考える。


 まだ消費できそうな食品を、この手で毎回大量に捨ててしまわなければならないなんて、コンビニバイトを始めるまでは考えもしなかった。最近は『食品ロスを防ぐために手前から品物を取るようご協力ください』と書いてある札が、値札と同じところでかでかと提示してある。それでも賞味期限の新しい後ろ側から品を取る客は減らない。人類は愚かだ。


「先輩は犬が死ぬ悲しい歌は許せないけど、歌ってる人とかをどうこうしたい訳じゃないらしいですね。でも実際に、実在の犬を虐待したり無責任に捨てる人間が目の前にいたら滅びるべきだァ――って考えます?」

「ううーん」

「襲っても犬のためなら罪に問われないなら?」

「それはひょっとして襲ってしまうかもしれない」


「実は先輩、犬の幸せのためなら人類は滅びた方がいいぐらいの過激な犬派だったりしません?」

「それは」


 ホットスナック棚と向き合っていたセンパイはふと黙って、考え込んでしまった様子だった。また無暗に過激な話題の提示をしてしまったのかも、まるで誘導尋問のようにセンパイから過激な発言を引きずり出そうとしてしまったかも、などと僕はちょっと後悔した。そしてセンパイは、ゆっくり話し始めた。


「うん……でも、結局おれの愛する犬の姿というのは――」


 話の続きは、だしぬけに鳴った入店ジングルで邪魔された。冷たい夜の雨でずぶぬれの客がひとり、店の中に入ってきたのだ。

「……いらっしゃいませ」「っしゃいませー」


 センパイはジングルから遅れ、僕はセンパイから遅れて挨拶する。お客の服は上下真っ暗、ただし肩にかかった反射材タスキがぴかぴかと光っている。フードを目深に被っているため表情はうかがえないが、店員である我々の方をまっすぐ見てきた。だから買い物が目当てではないだろう、それがすぐわかった。


「あの、すみません」


 荒れた息遣いと、かすれた声が、妙に怖い。


「すみません、そこの道路で犬が通りかからなかったか、見かけませんでしたか……」


 客の握りしめられた片手から垂れているヒモは、きっと犬の首輪と繋がるリードだった。深夜手前のコンビニエンスストア。根暗な顔つきの男どもで、偶然にも犬を巡るトライアングルが完成した。実物の犬は一切、目の前に出てこないのに。

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