第5章 イーチ・ホープ ー④

 久鎌井は一人病室の前に立っていた。


 そこは、月野雫の病室であった。

 今のご時世、看護師に聞いたところで、関係者ではない人間には病室を教えてはもらえない。事前に鏡谷から聞かされていた。

 そして、彼女が病院にいる理由も聞いていた、

 だから、彼は病室に入ることを躊躇っていたのだ。


「どなたですか?」


 不意にかけられた声に久鎌井は驚いた、振り返ると、そこには中年の男性が立っていた。


「あ、あの……月野さんの……中学時代の同級生です」

「ああ、お見舞いに来てくれたのかい! 雫も喜ぶよ!」


 男性は、月野雫の父親だった。

「さあ、入ってください」

 久鎌井は導かれるまま、病室に入っていった。

 個室。

 ベッドは一つだけ。


 その上に、眠るように目をつぶったままの月野雫がいた。


 半年ほど前、リストカットによる自殺を図り、一命は取り留めたものの意識不明。

 そして現在も目覚めない。


 医学的に異常はない。恐らくは心の問題だろうと、担当の医師は言っている。

 それが、久鎌井が鏡谷から聞いた彼女の状態だった。

「最近はお見舞いに来てくれる人がいなくてねえ。おい、雫、お客さんが来てくれたぞ。えっと……」

「久鎌井といいます」

「久鎌井くんだそうだ。中々の好青年だな」

 父親は笑いながら、そっと娘の頬を撫でた。その微笑が、どうしようもなく寂しげだった。

 少女は、それこそ人形のように、じっと、目を閉じて、横たわっていた。

 久鎌井の記憶の中の彼女と、目の前の少女にはそれほど大きな違いはなかった。あの頃はおかっぱみたいな髪型だったが、今は肩くらいまで髪が伸びていた。


「………」


 掛ける言葉を探すものの、久鎌井には見つけることができなかった。ただ、久鎌井と父親の二人が、目を開けない少女の顔を眺めるだけの時間が過ぎていく。

 ふと、父親が久鎌井の顔を見た。

「はは、気を使わなくてもいいよ」

 久鎌井が掛ける言葉を見つけられずにいることを、雫の父親には悟られていたようだ。

「すいません」

「謝らないでくれ。みんなそうさ。みんな、申し訳なさそうな顔をして、何を言ったらいいか分からず、とりあえずの励ましの言葉をくれるだけさ。わたしにね……わたしが励まされたところで、どうとなるわけでもないのにね」

 そう言って、悲しく笑った。


「そうだ、初対面で申し訳ないが、少し話を聞いてもらってもいいかい?」

「はい、僕でよかったら」


「ありがとう。

 ……わたしは妻と離婚して、この子を一人で育ててきたんだ。みんな大変でしたねと言ってくれるが、正直それほどでもなかった。

 雫は、いい子でね、聞き分けのいい子さ。悪いことは何もしないし、言うことも全部聞いてくれた。

 静かで、人様にも僕にさえ迷惑を掛けない子だった。だから、わたしは、わたしの思うように、仕事に打ち込んで、生活費を稼げばいいと思っていた。それで、わたしたちの生活はいいんだと思っていたよ。

 だけどね、違ったんだ。この子は、何も言わなかった。言えなかったんだろうな。悪い道に走ることもなかった。したくてもできなかったんだろうな。

 ただひたすらに耐えていたんだな。何があっても、何も言わずに、静かにすることしか、知らなかったんだな」


 父親は、一度大きく息を吸った。


「学校で、この子が大変な目にあっていたことなんて、わたしは知らなかった。この子はただ耐えて、わたしに迷惑を掛けないようにして……本当に、耐えていたんだろうなあ。

 でも、この子はこの子なりに頑張っていたと思う。学年が上がるたびに、中学から高校に上がるときも、でも、駄目だったんだろう。そのときに、どうしてわたしは助けてあげられなかったんだろう」


 父親は懐かしむように遠くを見つめながら、時折乾いた笑いを見せながら、そして声を震わせながら語り続ける。


「この子が、人に対してものを言えない子になったのは、わたしに原因があるのだろうな。そして、そんな性格であるこの子が、人に言えないでいろいろ溜め込んでしまったのも、わたしのせいなのだろうな」


 声が掠れる。


「そうだ、わたしの罪なんだ。なのに、何で罰がわたしではなく、この子に下ってしまったのだ……どうして、わたしに……いや、だからこそ、わたしに対しての罰なのかもしれない。それでも……この子が、可哀そう過ぎるじゃないか」


 涙が頬を伝い、父親の手の甲に零れ落ちる。


 その姿が久鎌井の目に焼き付き、胸を熱くする。

「ああ、すまない。君が人のよさそうな青年だったから、つい」

 父親は涙を拭い、笑みを浮かべた。


「僕も、僕も……月野さんが、その、学校で無視されているのを知っていました。なのに、何もしてあげられませんでした」

 彼女の肉親の懺悔を聞いて、久鎌井も黙ってはいられなかった。

「仕方ないさ……確かに、誰かが……わたしだったかもしれないし、君だったかもしれないし、他の誰かかもしれないが、雫に手を差し伸べることができたかもしれない。しかし、今さら何を言っても仕方ないことさ。すべて過去のこと」

「それでも、すいませんでした」

 久鎌井は、深々と頭を下げた。

 そして、その病室をあとにした。



 — * — * — * —



 鏡谷の車内には、鏡谷と綾香の二人の姿があった。

 綾香は、鏡谷から行き先の病院の名前を聞いたとき、父親の勤める病院でなかったことに心底ホッとした。父親の病院は隣の市にある大学病院。海月病院は市内に存在し、規模としては大学病院には負けるが、市内でもっとも大きな病院となる。


 それにしても、彼女が今日ほど父の存在を疎ましく感じたことはなかった。


 花住家には父が決めた決まり事がある。それは三人の子供のうち、ほぼ綾香のために作られたものといっても過言ではなく、彼女も子供の頃、破ってはよく怒られていたが、次第に無意味なことを悟り、ほぼ全てを守るようになった。

 しかし、反抗期がくれば、親の決まりを破ろうとするのが子供だろう。綾香も反抗したい時期というのはあったし、実際、何度か故意に破ったこともあったが、それも面倒になり、守ったほうが楽だと思うようになったのだが、一つ、綾香に決まりを破る気をすっかりなくさせた出来事があった。


 どんな決まり事を破ったのかは覚えていない。そんなことに大した意味はない、ただ破ることに意味があったのだから。だが、彼女が決まりを破った最後の日、娘を叱る父の横に座る母が悲痛な表情を見せていた。


 いつも笑顔を見せる優しさの塊のような母。

 綾香は母が好きだった。だから、母にそんな顔をさせるくらいならば、もう悪戯に決まり事を破るのはやめようと思うようになったのだ。


 それ以来、綾香の心は平穏だった。いや、平坦と言った方がいいかもしれない。また、その後アバターの力に目覚めたことで、彼女は自分の心を自分で慰めることができるようになったのは幸いだった。


 しかし、最近はすっかり心を乱されてしまっている。


 原因は、久鎌井友多だ。


 病院に着くと、彼は一人で“アラクネ”の所持者である月野雫に会いに行った。

 綾香と鏡谷は車で待っていた。

 ここまでの道中に、綾香も久鎌井の過去の告白と、鏡谷の調査報告を聞いた。

 彼の昔話は、綾香が以前聞いたものとそれほど変わりはない。ただ、その登場人物には名前が与えられていた。

 月野雫。

 久鎌井が中学の頃、いじめから救うことができなかった少女の名前。

 そして、“アラクネ”の所持者。

 また、鏡谷の調査報告から、久鎌井の知らなかった彼女の残酷なその後を知らされた。


 月野という少女は、結局、いじめから逃れることはできなかった。高校に入っても、クラスが変わっても自分を変えられなかった彼女は、手首を切って自殺を図った。しかし、彼女は死に切れなかった。


 そして今は、意識不明のまま、夢の世界の住人だ。

 その姿を、黒い蜘蛛に変えて……


「鏡谷さん」

 綾香は、車の外で煙草を吸っていた彼女に話し掛けた。

「何だい?」

「……“アラクネ”の所持者を救うことはできるんですか?」

「さあな」

 一瞬躊躇する様子を見せたが、鏡谷はそのまま言葉を続けた。

「アバターが同化状態であれば無理だと思うが、今の“アラクネ”は夢遊状態の暴走だ。救える可能性はあると思うが、前例は古い文献程度だ」

「そうですか」

「しかし」

 鏡谷の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。

「あれほど無関心を貫いていた君が気にするとはな」

「え?」

 綾香は、鏡谷の言葉の意味をすぐには飲み込めずにいた。

「公園の茂みから出てくることもなかった君が、こうして事件の話を聞き、あまつさえ久鎌井くんの心配をしているのだからな」

「はあ、な、何を! 別にあいつのことを心配しているわけじゃないわよ!!」

「なら、何故今の質問をするんだ? “アラクネ”にはあれだけ無関心だった君が」

 鏡谷たちがこの町に調査にやってきてすぐ、綾香に会い来ている。そして“アラクネ”についての調査協力を要請したのだが、彼女は邪魔をしないことを約束しただけで協力はしないといった。

「そ、それは、ただ“アラクネ”に同情しただけよ。あのときは細かい事情を聞いていなかったし、聞いたら協力しなきゃいけなくなりそうだから聞かなかったし、何よりあのときはまだ鏡谷さんも“アラクネ”の所持者まで分かっていなかったじゃない。今はあのときとは状況が違うし、だから同情しただけ、だから気になっただけ、だから助けられるか聞いただけ、それだけよ」

「無駄に言葉が多いな。まあ、そういうことにしておこう」

「しておくとかおかないとかじゃなくて、そうなの!」

 鏡谷の指摘通り、何やら言い訳がましい物言いであると綾香自身も思うが――


 本当は自分でも自分の感情がよく分からなくなっていた。


 別に月野という少女に同情はしていない。

 しかし、綾香は期待していた。

 久鎌井が、月野という少女を助けるという行動を取ることを。

 それが、彼の考えや行動が気になる原因だと思って納得していた。晴れやかな気分になり、そう感じている自分に違和感は全くない。


 しかし、そこにも何故は付きまとう。


 何故、そこまで期待しているのか?

 何故、そんなに久鎌井に月野という少女を助けて欲しいと思うのか?

 別に綾香は月野雫とは知り合いでも何でもないのに。久鎌井なんて最近話すようになっただけのクラスメイトなのに。


 そこはまだブラックボックスのままだった。


「そんなことより、鏡谷さんはどうするのよ!」

「わたしか?」

 何とか話を変えようと、綾香は鏡谷に尋ねた。

「そうよ、あいつは多分“アラクネ”を救いたいと言うはず。それであなたたちは彼を助けるの? それとも邪魔するの?」

「……“アラクネ”が活動をやめるのならば、どちらでも構わない。だが正直なところ、わたしは助けることはできないと思っている。彼女のアバターは、自分を迫害した人間に対する憎悪から生まれている。負の感情から生まれたアバターは、危険だ」

「じゃあ、どうするんですか?」

「そんなに睨まないでくれ」

「そ、そんな睨んでない! この目は生まれつきよ!」

 そう言いながら、彼女に言われて、綾香も自分の眉間に力が入っていることに気がついた。

「だが、彼にチャンスを与えてやりたいとも思う」

「チャンス?」


 そのとき、病院から出てきた久鎌井の姿が見えた。


「どうだった?」

 鏡谷が久鎌井に声を掛けた。

「いえ……月野さんの父親に会って、話をしました」

 久鎌井の顔には悲痛な表情が浮かんでいる。

「……彼は、前まで勤めていた会社を辞めて、今はずっと娘の面倒を見ているらしい」

「そうなんですか……」。

「君は、これからどうするつもりだ? 我々は、もちろん“アラクネ”を止めるつもりでいる」

「止めるというのは……」

「ああ、彼女を殺すことになるだろうな。仕方なかろう? 彼女のアバターは明らかに負の感情から生まれている。自分をいじめていた相手を『憎む』感情から生まれているだろう」


 仕方ない。鏡谷の口から出たその言葉に、綾香は少しムカッとした。


 仕方がない仕方がないと、綾香は幾度となくは自分に言い聞かせてきた。

(そんな言葉は、他人から聞きたくない。言われたくない)

 その言葉は自身に向けられたものじゃないのに、何で自分はこんなにも腹を立てているのか?

 綾香は自分の感情の昂ぶりに一瞬戸惑った。しかし、すぐに気が付いた。


 仕方がない。


 この言葉が、綾香は嫌いだった。


 いつも自分に言い聞かせている言葉なのに。


 いや、いつも自分に言い聞かせている言葉だからこそ、他人に言われるのは腹が立つ。


(だからだ。だからはわたしが今まで彼の行動を気にしていたんだ)

 久鎌井に何を期待し、そして何故期待しているのか……。

 鏡谷から話を聞いて、“アラクネ”を救うことはとても困難なことであると聞いた。それこそ、仕方がないと諦めてしまった方が簡単なことだ。

 しかし、彼は“アラクネ”の所持者である少女を救いたいはずだ。

 諦めてしまった方が楽な状況で、彼はそれでも、救いたいと思うのか、それとも、やはり諦めてしまうのか?

 どちらの決断をするのか?


(わたしは期待しているんだ。彼が、決断することを。仕方のないと言ってしまえば流れていってしまうことに、抗おうとすることを)


 綾香はじっと久鎌井を見つめた。

 そして、久鎌井は少し黙考した後に、口を開いた。

「鏡谷さん、僕は、彼女を助けたいです」


 その決断を聞いた瞬間、綾香には、久鎌井が輝いて見えた気がした。


「助けるといっても、どうするつもりだ?」

 一方、鏡谷の表情が苦いものに変わる。

「彼女が、アバターを自らの力で操ることができれば……駄目ですか?」

 それでも久鎌井は食い下がった。

「君が、そうさせるというのか?」

「昨日、“アラクネ”は、僕の言葉に反応して去っていきました。それに鏡谷さんも言っていたじゃないですか、彼女は良心と葛藤していると、どうしようもなくなって、殺人を起こしてしまうと、まだ、チャンスがあるんじゃないですか?」

「……さあな、正直分からん」

 鏡谷は、なかなか首を縦には振らなかった。それでも、久鎌井が怯むことはなかった。


「お願いです。僕に説得させてください」


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