第5話 イーチ・ホープ ー③
五月十六日 火曜日
月野雫。
久鎌井友多が中学一年のときに同級生だった少女だ。
彼女はとても大人しく、控えめで、節目がち。何かを言おうとするとどもってしまうような少女だった。そして、友達がいなかった。
聞いた話では、小学校の頃こちらに引っ越してきたらしい。しかし、その性格からクラスに馴染めなかったのか友人らしい友人もできず、それは中学校になっても変わらなかった。時折、頑張ってクラスメイトに話し掛けようとすることもあったのだが、要領を得ない話し方で、話しかけられた子が嫌そうな顔をすることもあった。
いつの間にか、誰が始めたわけでもなかったが、みんな彼女と関わりを持たなくなった。
だが、不思議と、男子から嫌われてはいなかった。見た目はそれなりに可愛かったし、儚げに椅子に座っている様子は人形のようで、たまにクラスの男子の間では好きな女の子に名前が挙がることがあった。しかし、それが返っていけなかったのか、女子の間では次第に彼女に対しての嫌悪感が生まれるようになっていった。
そして、女子の一部で彼女を意識的に無視するようになった。それは、次第に広がり、さらに男子の間にまで波及していく。
あの頃の久鎌井は、それを素直にいけないことだと思った。そして、子供なりに正義感を持って、彼女を助けてあげなければと思った。とはいえ、積極的な行動を取れるほどの強さはなく、久鎌井はとにかく無視などせずに、彼女に話しかけた。
しかし、小学生なんかは、男子が女子と仲良くすれば、それはからかいや冷やかしの対象になってしまう。中学生とはいってもまだ一年。精神レベルは小学六年生とそれほど変わらない。久鎌井もできるだけ気にかけているように思われないように気をつけていた。
だが残念なことに、彼女を無視する風潮は止まらず、エスカレートしていく。女子の誰かが、影で「あの子、気持ち悪いよね」と友達と楽しそうに話しているのを見かけることもあり、次第にその言葉を聞く回数も増えてきた。
そんなある日、久鎌井はクラスのある三人組の少女が彼女の悪口を、しかも彼女に聞こえるように言っているのを聞いてしまった。
そして、久鎌井はカッとなって言い放った。
「そんなふうに言うのは良くないんじゃないか?」
そのときの女子が、高島瞳、浅野洋子、田中さちえの三人だった。
彼女らの嫌悪の視線を、久鎌井は今でも覚えていた。
その日はそれだけで終わった。
しかし次の日、クラスの男子が久鎌井に尋ねた。
「なあ、お前さあ、月野と付き合ってんの?」
そんなことはないと、久鎌井は即座に否定するが、噂は一人歩きしていく。
少女もさらに変な目で見られるようになっていった。ああ見えてやることやってんじゃん、と。
そんな噂が流れることに耐えられなかった久鎌井は、むきになって否定した。
そして、これ以上からかわれたくないと思った彼も、彼女を無視するようになった。
しばらくは、何を言われるか怖くて、久鎌井はクラスメイトと接することすら拒否していた。でも、二ヶ月ほど経てば、そんな噂も立ち消えた。再び久鎌井はクラスの中に馴染んでいった。
しかし、それ以降、久鎌井が雫と話をすることはなかった。
結局、彼女はずっと一人だった。
ある日、彼女の物がなくなっていることがあった。
ある日、彼女の机に悪口が書かれていることがあった。
そして、彼女はたびたび学校に休むようになった。
主のいない机を見るたびに、久鎌井は自己嫌悪に陥っていた。
彼女を救うことができなかった自分は、何て小さいんだろうと。
自分は、女の子一人も助けられない。自分可愛さに彼女を見捨ててしまったのだ、と。
しかし、久鎌井には家族がいた。家に帰れば暖かい母と明るい妹がいるおかげで、彼は自分の殻に閉じこもることはなかった。
同時に、この家族は自分が守らなきゃいけないんだという思いをより強くした。
何かあっても、彼女のように見捨ててはいけないのだと
自分は所詮、小さくて弱い人間なのだから、最大限を家族のために尽くさなければ守れやしないんだと、自らに言い聞かせて。
中学二年からはクラスが変わってしまい、またクラスの噂話にも疎くなった久鎌井は、彼女がその後どうなったのかを知らない。
彼女が何処の高校に行くことになったかも知らなかった。
とりあえず、卒業できたということぐらいしか知らなかったのだが……
今まで、忘れていたわけではない。
思い出さないようにしていただけだ。
彼女は、一人でどれだけの思いを抱えていたのだろうか?
どんな思いで、アバターの所持者となってしまったのか……
— * — * — * —
使用人に七時に起こされ、部屋で着替えて、ダイニングで父親に挨拶。
花住綾香の代わり映えしない日常だ。
顔には笑顔を浮かべ、父には敬語、他の人の前では素行良好な少女でいる。
彼女にとって、全て呼吸のごとく可能になっている行動だ。
しかし、その中に隠れた心は、いつもと違っていた。
花住綾香は、今日、とても気分がいい。
その理由は、昨夜の事件だ。
昨夜、綾香は鏡谷たちの“アラクネ”を待ち伏せる作戦に同行し、“アラクネ”と対峙したときの久鎌井友多の行動を見守ることにした。
それは、彼が直面している困難に対してどう判断し、どう行動するかを知りたかったからであると、綾香はどう結論付けたが、なぜそれをそこまで知りたかったのかは分からないままにその作戦に同行した。
しかし、彼が“アラクネ”を庇ったときには、綾香は思わず声を上げていた。
久鎌井が行動をもって示したその答えを目の当たりにして、彼女の心は爽快感に満たされていた。胸のすく思いというやつだ。それが今でも続いている。
「行ってきます」
家族でも気づくかどうか分からないが、家を出るときの声にも、いつもより張りがある。
あのとき、綾香は久鎌井がどう判断し、どう行動するのかを知りたかったはずなのだが、その理由は本当に分からなかった。
だが、いざ彼が“アラクネ”を庇う姿を見たとき、彼女の心は間違いなく高揚していた。その感覚に、彼女自身が一番驚いていた。
綾香自身も、その瞬間まで気づいていなかったのだが、本当は何かを知りたかったわけではなかったのだ
期待していたのだ。
久鎌井が“アラクネ”を助けようとすることを期待していたのだ。
何故期待していたのか、その理由はいまだに綾香自身にも分からない。しかし、期待があったからこそ、これまで久鎌井の行動が気になったのだとことだけは、今なら分かる。だから夜の作戦にまで随行して、見届けたかったのだ。
久鎌井が気になりだしてからのモヤモヤしていた気持ちが一切晴れ渡り、清々しさが彼女を満たしていた。
だから、登校途中、彼の姿を見つけたとき、綾香は声を掛けようと思った。
しかし、朝の通学時間では周囲の目が非常に多い。変な噂を立てられる可能性を考えると、綾香にはそれはためらわれた。
仕方がないと思いながらも、後ろ姿を見ていることしかできないのは、とても歯痒いものであった。学校に入ってしまうと、もう彼に声を掛ける機会などなくなってしまう。
まあ、いっか……
と、いつもならそう思うはずだった。
花住綾香は自分の行動を気にしなければならない。
子供の頃、学校の廊下をよく走っていた。もちろん、先生に叱られた。その情報は綾香の父親の耳に届き、父親にも叱られた。
先生の言うことを聞きなさい、女の子がはしたないことをしてはいけないと。
女の子らしく、そしていい子に。
そう言われ続け、彼女は仕方なく言いつけを守っていた。守っていれば何も言われないから、それが一番面倒くさくないからと。
必然、綾香がしたいと思っても、できることなど少ない。
しかし、許される範囲内で満足すれば、それはそれで自由だとも言える。
だから、今まで彼女はそうしてきたのだが、
今は、
「……………………………っ」
歯痒くて堪らなかった。
— * — * — * —
昼休み。
久鎌井は沢渡衣と二人で弁当を食べていた。
会話は特にない。
衣はただ、そこにいて、話をせがむのではなく、ただ一緒にご飯を食べていた。
彼女はいつも聞きたがっているアバターのことも聞かず、明らかに久鎌井が苦悩している様子を見せてもその理由を聞かずに、ただ久鎌井の隣で、とても自然体でご飯を食べている。
久鎌井は、本当はここに来ないで、一人で弁当を食べようと思っていたのだが、それができなかった。心が辛かったのだ。
家族の前では気丈でいられたが、一人になると月野雫のことが頭をよぎる。
だから、昨日と同じようにここに来てしまった。
衣なら、優しい先輩なら何か気遣ってくれるだろうと、久鎌井は甘えてしまったのだ。
静寂の中、突然、久鎌井のスマホが震えた。彼は急いで取り出すと、その画面を確認した。
「すいません、ちょっと」
そう言って、久鎌井は弓道場を出た。
「はい」
「鏡谷だ。月野雫の居場所が分かった」
「何処ですか?」
「
「病院? どうして?」
「……授業後、話をしようか」
「……はい」
「校門付近で待っていなさい」
「ありがとうございます」
— * — * — * —
授業が終わるたびに、綾香は久鎌井の様子を窺うが、彼の周囲以上に自分の周りの友人たちの方が問題だった。誰かしらが寄ってきては話しかけてきたり、トイレに行ったりすることになる。
彼女たちは大切な友達だ。しかし、正直なところ今の綾香にとっては邪魔だった。かといって彼女らを振り切ることはできない。彼女は皆から好かれ、人気者でいなければならないのだから。
そう思うと、積極的に友達を作ろうとはせず、一人でいることを好む、久鎌井の姿が、うらやましくも感じた。煩わしさがなくていい。
結局、綾香が彼に話をしたいと思ったら、以前と同じように、帰り際に捕まえて、人気のない屋上にでも連れて行くしかなかった。
(って、別にあいつと話がしたいわけじゃないわよ……。朝少し声を掛けようと思っただけじゃない)
確かに、彼の今後の行動も気になるが、別に固執することではないはずだと、綾香は自分自身に問うた。彼の決断を知ることができ、それは彼女の期待した通りのものであった。もう興味はないはずだ。
それでもまだ何か気になるのだろうか、自分の心が納得しようとしてくれないことに、綾香は再び戸惑いを覚えた。
せっかくすっきりしたと思ったのに、また霧がかかったように自分の気持ちが見えにくくなる。
(分からない。いつも自分の感情なんて簡単に押し殺せてきたはずなのに……どうしてこんなにももどかしいの!?)
うらやましい。そんな感情が再び、頭を過ぎった。
(何で? 何で彼がうらやましい? 一人でいることが?)
確かにそれは自由に見えた。うらやましいと思った。でもそれだけだ。
なのに、何で、それほどまでに気になるのか?
知りたい。
理由が、知りたい。
だから、
今、
(彼と話がしたい)
キーンコーンカーンコーン
授業が終わった。
しかし、今日最後の授業のこのチャイムは、綾香にとっての始まりのゴングであった。
— * — * — * —
授業がすべて終わると、綾香は久鎌井の席に向かった。
花住綾香には彼氏はいない。男子と噂になったこともない。告白されたこともあるが、高校生で男と付き合ってはいけないと父に言われているし、綾香もそれほど興味のある男子がいたわけでもない。だったら父の言い付け通りにしているのが一番面倒くさくなくてそれでいいかなと思っている。
だから、綾香から久鎌井に話しかければ、何かしらの噂が立つだろうし、友人たちには間違いなくはやし立てられるだろうことは想像されたが、彼女もそれすら覚悟して、いま久鎌井に声を掛けようとしている。
しかし、久鎌井は授業終了のチャイムと同時に席を立つと、まさに一目散といった様子で、教室を出て行ってしまった。
「ま、待って」
綾香の声は、他のクラスメイトは聞こえたかもしれないが、肝心の久鎌井に届いた様子はなかった。
綾香はすぐに、彼を追った。
久鎌井は決して走ることはなかったが、異常な早足で容易に追いつくことはできなかった。
綾香はそのままある程度の距離を保ったまま後をつけ、学校を出て人気がないところに出てから声を掛けようと算段をつけていたが、どうやら彼が急いでいたのには理由があったようだ。
その答えが校門に背を預けて立っていた。
鏡谷だ。
二人は二言三言かわすと、鏡谷の車に乗り込もうとした。
「待って!」
ここで逃がしたら追いつきようがない。焦った綾香は大きな声で二人を呼び止めた。
周りの生徒の方が驚いてこちらを振り向いているが、彼女はそのことをもう気にしていなかった。
「何処、行く、の?」
思いのほか早足はつらかったために、若干息切れしており、尋ねる綾香の言葉は途切れ途切れになっている。
「君も来るのかい?」
鏡谷がそう尋ねる。
「だから、何処、行くの?」
「……“アラクネ”の所持者がいる病院だ」
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