第5章 イーチ・ホープ ー①

五月十五日  月曜日



 綾香は、弓道部の朝練習に参加していた。

 弓道部は、朝練習は基本的に自由参加である。

 綾香が、父から部活動をするようにと言われ、何処かに所属しなければならなかったのだが、弓道部を選んだ理由の一つはそれだった。


 彼女の起床時間は七時だ。それは父親の決めた家の決まり事であり、彼女は仕方なくそれを守ることにしている。まだ幼かったころは言われたままに何となく守っていた。成長するうちに反抗心を抱くこともあったが、彼女の父親は厳しく、それを許さなかった。ならば反対に意地でも守ってやろうと、いつのまにかそう考えるようになっていた。


 だから普段、綾香は弓道部の朝練には参加しない。


 しかし、今日は非常に珍しく六時頃に目が覚めてしまった。いつもは挨拶を交わすだけの父親とも一緒に食事をしたし、早く出かけてしまって朝は会えない二人の兄とも顔を合わせていた。

(それは別にどうでもいいんだけどね……)

 とにかく、朝早く起きてしまってもやることがなかったので、こうして朝練に参加していた。

 衣などのいつも来ているメンバーからのもの珍しそうな視線を挨拶と笑顔でかわし、練習を始めたのだが……


「調子悪いね、綾ちゃん」

 同級の部員が、綾香にそう声を掛けた。

「そうみたい」

 二人の視線の先、綾香の狙っていた的には、一本も矢が刺さっていなかった。


 綾香は、衣ほどの腕前はないが、それでもいつもなら的中率五割ほど、しかし今日はまだ一本も当たっていない。

 綾香は、人前では決してそのようなことはしないが、心の中では舌打ちをしていた。

 不調の原因ははっきりしていた。

 余計なことを考えているからだ。

 弓を引くときは、最初から最後まで引くことのみを考えなければいけない。その集中が途中で途切れてしまえば、的にも当たらないし、それ以前に矢を真っ直ぐ飛ばすことも難しくなる。

(ほんとに、調子悪いわね)

 朝早く起きたのも、それが原因だ。

 昨日の夜、久鎌井の面白くない話を聞いてしまってから、綾香の頭の中にはそのことがチラつき、いろいろと考えてしまっていた。

(まったく、何でわたしがあの男のこと考えなければいけないのよ)

 心の中で毒づきながらも、思考は止められなかった。


 久鎌井友多。


 クラスメイトで、元弓道部員。

 ただそれだけのつまらない、綾香から見て何の興味も湧かない男。それ以上でも以下でもない。

 しかし、彼はアバターに目覚め、噂の白騎士となって、夜の街に繰り出していた。そして、偶然、アバターとなって公園で遊んでいた綾香の前に現れた。

 そのときの彼は、綾香にとって邪魔な存在だった。印象は最初よりも悪い。

 だから、人気のないところで、花住家の娘としてのタブーを犯してまで、彼女は彼に警告したのに、彼は懲りなかった。

 そして、再び白騎士の姿で綾香の前に現れた。

 綾香が無関心な態度を見せ続けても、彼は彼女の元にやってきた。

 綾香は彼の話など聞く気はなかったのだが、彼が勝手にしていた会話の中でただ一つ、気になることがあった。


 それは、彼の使っていた一人称だ。


 彼は学校では『僕』を使い、アバターでは『俺』を使っていた。

 自分と同じように、彼も自らを偽って生きているのかと思い、そのとき初めて、少しだけ久鎌井友多という存在に興味が湧いた。

 三日前には、綾香はそのことについて直接彼に聞くこともした。

 しかし、話を聞いてみれば、彼には温かい家族があり、家族の前では自分らしい自分を出せている。そうであれば、やはり自分とは違う存在なのだと、綾香は感じた。

 そして、何となく何度か話をしているうちに、不覚にも昨日の面白くない話を、彼女は聞いてしまった。


 久鎌井の中学時代の嫌な思い出話。


(別に……どこにでもありそうな話よね)

 それを聞いたところで、綾香は彼に同情する気はさらさらなかった。

 アラクネに襲われた二人の名前を聞いて、久鎌井は動揺していた。昨日、鏡谷が彼に写真を見せたときも、挙動不審だった。


(彼は二人を知っている)

 久鎌井が話していた中学時代の話の登場人物たちは、要は“アラクネ”事件の加害者と被害者なのだろうということは、綾香にも容易に推測できた。それは間違いない。

しかし、久鎌井はそれを鏡谷に話すことはせず、知らないふりをしている。“アラクネ”を止めようと、退治しようとしているのであれば、正直に話せばいいはずだ。


 “アラクネ”の正体に心当たりがあって、それでも知らないふりをしているとすれば、それは“アラクネ”の正体を鏡谷に知られたくないと思っているということだ。

(つまり、“アラクネ”を庇っている……って、だから何でわたしがあいつのことを考えなければならないのよ!)

 綾香は大きくかぶりを振った。


「どうかしたの? 綾ちゃん」

 突然の行動に、周囲の部員たちが心配そうな視線を綾香に向ける。

「なんか、すごく悩んでいたようだけど」

「ううん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけ、珍しく朝早く起きちゃったから」

 綾香は咄嗟に適当な嘘をついた。

(ダメだダメだ!)

 綾香は外ではおしとやかで女性らしく、多くの人に好印象を持たれるようにしなければいけない。周りに心配されるような人間ではいけないのだ。そのように自分を規定しているというのに。

(まったく、あんたのせいよ!)

 綾香は心の中で久鎌井に毒づいてみるが、何の解決にもならなかった。


 こんな調子で、彼女の頭の中は思考が堂々巡りに駆け回っていた。

(どうしてこんなにも考えちゃうんだろう?)

 普段、どんなことに対しても、愛想を振りまく仮面の下では、どうでもいいことと無関心でいられるというのに。昨日はその場の勢いで三人の後を追ってしまったが、その行動について綾香本人もどうしてだかよく分かっていなかった。

 彼女は久鎌井に興味もなければ、“アラクネ”の事件にだって、首を突っ込む気はない。

 久鎌井の過去の話を聞いたところで、かわいそうだとか同情する気持ちもない。

 “アラクネ”に対しても、久鎌井の話を聞く限り同情の余地があるのかもしれないが、それに対して綾香の胸の内には何の感情も湧きはしない。

(だったら、何で?)

 綾香はさらに自問自答する。


 何か心に引っかかっている気がかりの正体はいったい何なのか。


(わたしは、“アラクネ”が誰なのかはどうでもいい)

 ただ、久鎌井は“アラクネ”の正体が、自分の知っている人物だと思い、その人物を庇おうとしている。

(でも、パンドラの二人は“アラクネ”を倒そうとしている。ならば、彼が“アラクネ”を庇う以上、二人と衝突することになる)

 彼が、“アラクネ”を庇いたい、助けたいと思うのであれば、その状況は避けられないであろう。


 その時、彼はどうするのだろうか?


 彼にとって困難な今の状況を、一体どのように判断し、どのように行動するのだろうか?

(それを……知りたい……?)

 それが朝から彼女の頭を悩ましていた思考の正体なのだろうか?

 迷路の行き止まりにぶち当たってしまったような気分になり、まだ綾香の心が納得する様子はなかった。



 — * — * — * —



 休日明けの月曜日。

 久鎌井にとっては、金、土、日の三日間でかつてないほどいろいろなことがあった。


 白騎士がアバターと呼ばれる存在であることが分かった。

 アバターというのは、人の思いが集まって形を成したもの。

 そのことを彼に伝えたのは鏡谷という女性で、彼女は、通称パンドラという神秘隠匿組織の人間。そして、久鎌井のアバターを“ペルセウス”と名付けた。

 もう一人の組織の人間である日比野という男は、“ナルキッソス”というアバターの所持者であり、久鎌井は手合わせで酷い目に合わされた。しかし、追い詰められたところで、自身のアバターの能力である“アイギスの盾”の力を発揮できるようになった。

 白騎士と同じく巷で噂になっている黒い蜘蛛もまたアバターと呼ばれる存在であり、パンドラの二人は“アラクネ”と呼んでいる。


 そして、“アラクネ”が襲ったのは、久鎌井の中学一年のときの同級生であった。

 高島瞳と浅野洋子。

 さらに昨日“アラクネ”が現れ、ある家に侵入しようとしており、その表札には田中と書かれていた。

(高島、浅野、田中。間違いなく、あの三人だ。ということは)

 久鎌井には“アラクネ”の所持者の心当たりが思い浮かんでしまう。


 彼の記憶の中で、いつも一人だった少女。


 彼が助けられなかった少女。


(俺は逃げた。目を背けた。俺は家族で手一杯だと言い聞かせた。ああ、くそ!)

 朝から、いつも通りに食事の準備をし、母と妹を起こし、家事をこなした。着替えて、登校して、授業を受けて、外面的にはいつも通りの様子で過ごしている。

 しかし、久鎌井の頭の中は混乱していた。

 自分を責める思いが、頭の中から彼の心を苦しめていた。


 昼休みになると、久鎌井は弓道場に向かった。

 そこには沢渡衣がいるはずであった。


 しかし、久鎌井は弓道場の入り口で立ち止まってしまった。


(先輩と会って、一体何を話せばいいのだろうか?)

 三日間に起こった様々な出来事、知った様々な事柄。

 アバターを知らない人間には話さない方がいいこともあるような気もするが、久鎌井にはその線引きはよく分からない。それでも、話そうと思えば、いくらだってネタはあった。好奇心旺盛な衣を満足させる話がたくさんできるはずだった。

 しかし、今、久鎌井の頭の中は、中学時代の記憶で大半が占められていた。


 中学時代の後悔に溺れている。


(でも、だからこそ、弓道場に来たんじゃないか)

 一人だとそこから抜け出せない。そんな気がしたから。

 誰か話す相手がいれば、何とか気を紛らわせることができるんじゃないかと考えて、久鎌井はここにやってきた。


 それでも、彼はドアのノブに手をかけて立ち竦んでしまった。

 鍵が掛かっているわけではない。しかし、金縛りにあったように、それ以上進めないでいる。

(先輩との話の内容は、もちろんアバターのことになる。)

 その話をすれば、どうしても過去の記憶を刺激するに決まっている。

(ダメだ、どうしたらいいか分からない。)


 そのとき、扉が開けられた。


「どうしたの? 久鎌井くん。ちっとも来ないから教室に乗り込んでやろうかしらって思っちゃったじゃない」

 中から、衣が少し不機嫌そうな顔で現れた。

「いや、あの……」

「どうしたかしたの?」

 久鎌井のおかしな様子にすぐに気づき、衣は心配そうな表情を見せた。

「――大丈夫ですよ。さ、中に入りましょう」

 久鎌井も衣の表情を見ると、咄嗟に心配させてはいけないと思い、平気な表情を見せて弓道場に入っていった。

「いいのよ? 体調悪かったら別に」

 衣は、久鎌井が無理していることにすぐ気がついた。

 その声は、表情はとても優しい。いつもの男っぽいさっぱりとした衣ではない、とても女性的な優しい表情を見せている。


「先輩……」

 久鎌井の心が、その表情にすがりたがった。


「あの……」

(何を言うつもりだ? まさか過去の後悔をすべて話すつもりか? 先輩だって話されても困るだけだ)

 そんな心の声も久鎌井には聞こえていたが、溢れ出すものを止めることは出来なかった。


「いじめって、どう思いますか?」


 それが、彼の口を衝いて出た質問だった。

「え?」

 思いもよらない話題だったのだろう、衣が驚きの声を上げた。

「久鎌井くん、いじめられているの!?」

「そういう訳じゃないんですが、ただ……聞きたいんです。先輩は、いじめは悪いことだと思いますか?」

「当たり前じゃない!」

 衣の顔は、いじめの現場を見たら今にも飛び掛っていきそうな、そんな表情を見せた。

「そうですよね。……じゃあ、いじめられる側には問題はないと思いますか?」

「うーん、確かに、なくはないこともあると思うわ。でも、だからっていじめていいわけない!」

 衣の言葉は、非常に力強かった。

「はい、正しいと思います」

 久鎌井はそう頷いた。

(俺だって、そう思う)

 次の質問が本題だった。


「なら、いじめを見て見ぬふりをする周囲はどう思いますか? その子を、助けられない連中を、どう思いますか?」


 久鎌井の心臓が、早鐘を打つ。それを自覚して、その動揺を悟られないようにと、久鎌井は静かに呼吸をした。

「え? うーん」

 衣は唸りながら首を傾げた。

「そうねえ、学校でいじめがあった場合、先生が見て見ぬ振りするのは許せないけど、周囲は……ある程度仕方ないんじゃないのかな。やっぱみんな自分がいじめられたくないし、仲間外れにはなりたくないし。でも、友達がいじめられていたら助けるべきだと思うな。

 前に、見て見ぬ振りする周りも同罪だ! ってテレビ番組か何かで言っていた気がするけど、みんながみんな強いわけじゃないし、まあ、仕方ないところもあると思う」


 仕方ない、その言葉を衣は少し言いにくそうに口にした。


「そうですよね。みんながみんな強いわけじゃない……」

「でも、誰か助けてくれる人がいるはずよ。うん、そうじゃなかったら可哀そう過ぎるよ」

「……はい」

「すごく深刻そうな顔しているけど、本当に大丈夫?」

「はい、昔の……ことですから」

 あの時の自分は間違いなく弱かった。今もそれほど変わらないようにも思うが、どちらにしても、今さらであった。

「そう、よかったら、話、聞くよ?」

「すいません。今は……これ以上は、ちょっと……」

「そっか、分かった。これ以上は聞かない。とりあえず、お昼にしよ? お腹減ってると、元気出ないよ」

「……はい」


 今の久鎌井に食欲はなかった。しかし、優しくいたわろうとする衣を前にして、これ以上の心配は掛けたくないという気持ちが勝った。久鎌井はいつも二人が座っているところに腰を落ち着け、持ってきた弁当を広げ、口に運んだ。

 久鎌井が衣と一緒に昼食をとるようになってから、一番会話の少ない食事だった。


 久鎌井に味を感じる余裕などなかった。それでも、隣に優しい先輩がいてくれることで、これ以上、彼の心が冷たくなることはなかった。


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