第12話 𓆓𓄿𓄿𓎡𓍢〜邪悪〜

「お前はもう用済みだ。愚かなよ」

 神官は吐き捨てるように言い放ち、苦悶の表情を浮かべるメリモセを冷ややかに見下ろした。

 

 喉を掻っ切られた彼は、口から大量の血を吐きながら駆け寄ったアヌビスの肩を掴む。何かを必死に訴えるその唇をアヌビスは彼が事切れる瞬間までただじっと見つめている事しか出来なかった。

 

 脱力し徐々に熱を失っていくその体は、まるで人間の死そのものであるかのようにアヌビスの肩に重くのしかかる。全てが一瞬のうちに過ぎ去り、放心するアヌビスの心を支配したのは言いようのない虚無感と憎悪だった。


 ——まるであの時と同じ。

 アヌビスは強く拳を握り、神官を睨み付ける。しかしこの男、メリモセに指一本触れていない。一体どうやって――。


 その答えを示すかのように神官の体は突如艶かしい女の姿へと変貌する。


 豊満な体、艶やかな髪、妖艶な笑みを湛えるその姿はさながら女豹のようだ。しかしその振る舞いや仕草からはむしろ堂々たる獅子のような雄々しさが感じられた。


「それがお前の正体か? 一体何者だ?」

「寂しいなぁアヌビス。私を忘れてしまったのか?」


 女はそう言ってわざとらしく肩を落として見せた。アヌビスは目を細めその姿を熟視する。


 女に覚えはないが、左胸に彫られた刺青には確かに見覚えがある。頭部は鰐、胴体は獅子、そして下半身は河馬。何ともおぞましい姿をしたそれは永遠の生を願う人々にとって最も忌むべきものである。


 ――まさか。

 アヌビスの中に蘇った記憶が一つの答えを導き出す。思い出したのだ。死者の心臓を喰らう幻獣と同じ名の組織を。


「ホルスを襲ったのもお前だなセクメト。まさか本当にアメミットが存在していたなんて――」


 半神を手に掛けることが出来る人間などそうそういる筈がない。キオネが言っていた人間の気配はこの女が成りすました神官のものだったのだ。


 否定する素振りを見せない女にアヌビスの額にはじんわりと汗が滲む。すると今対峙しているのはセトに負けずとも劣らない強さと残虐性を持つ殺戮の女神。とても自分の手に負える相手ではない。


 彼女は以前組織の創始者としてこの神殿にも顔を出していた。黒い土地ケメト(注)一帯を管理していたイシスに許可を得る為である。当時まだ幼かったアヌビスがその訳を知るのは数年後の事だが、不気味な存在感を放つその刺青だけは確かにその目に焼き付いていた。


 彼らはエジプト全土の警護と銘打ってこの組織を立ち上げたが、それは表向きの理由。ホルスを襲ったという事実からやはり半神の暗殺を行う闇の組織である事が明るみになったのだ。


「だったら何だ。あいつは今頃ワニの餌にでもなっているだろうさ。助けに行こうなどとは思わない事だ」


 その物言いからすると、実際に生死を確認した風ではない。だとしたら望みはある。今は彼が生きている事を願うよりないのだ。この神殿で渦巻く陰謀、ともすれば自らの命さえ奪われかねないこの状況で最も優先すべきはやはり自身の身を守る事である。


「メリモセに命じて神官達をどこへやった?」

 

 逃げるべきだ。頭ではそう分かっているのに、体の代わりに口が動く。全ては事件の真相にたどり着く為、この好機を逃す訳にはいかなかった。


「狩られるだけの半神風情が私に尋問するつもりか? ……まあいい。知り得たとて散る命だ。退屈凌ぎに少し付き合ってやろう」


 セクメトはそう言って石段の上に胡坐をかいて座る。


 アヌビスは改めてメリモセの傍に膝をつくと、彼の瞼にそっと手を添える。安らかに目を閉じたその顔をアヌビスは目に焼き付けるように見つめた。


「アアトの地で彼に平穏な日々が訪れん事を」


 アヌビスがそう呟くと、メリモセの姿はまるで砂のような粒子となって目の前から消えていった。


 ここから生きて帰れたら、真っ先にお前のミイラを作り、弔う事を約束しよう。

 アヌビスはそう誓い、改めて目の前の女に視線を戻す。


「神官をどこへ誘導したのか、それはその男にしか分からぬ事だ」

 セクメトの答えにアヌビスは眉をひそめる。


「どういう事だ。お前が命じたのではないのか」

「勿論、命じたのは私だ。だがその行き先までは知らない」


 それは彼女の目的がここから神官を追い出す事で、それ以外の事はメリモセに一任していたという事だろうか?

 それに彼女の他にまた別の指示者がいるという可能性もある。組織のトップはセクメトだが、これ程名の知れた組織だ。外部の者が関わっていたとしても不思議ではない。


 だがそれらの疑問をぶつけてもはぐらかされるばかりでやはり要領を得ない。アヌビスは諦めて別の質問に移る。


「至聖所で神官を殺し、その遺体を持ち去ったのもお前達か?」


 組織の存在が単なる噂であり続けたのは、その形跡や証拠が一切見つからなかったからだ。アメミットの存在が事実ならば、当然生まれる疑念だった。


 だが今回、その遺体が時間差で回収されている事を考えると、証拠隠滅とはまた別の意図があるようにも感じる。以前推測したように、やはり遺体自体に何らかの秘密が隠されているのだろうか。


「下等な人間などわざわざ殺す価値もない。私は天幕からホルスの代わりとして死体をかすめただけだ。器にはなり得ないが、使い道はある」

「器とは何だ? お前はホルスを殺して遺体を持ち帰るつもりだったのか?」

「全てはあの女のせいだ。あの女が呪いなどかけなければ——」


 セクメトはその問いには答えず、口惜しいとばかりに唇を噛んだ。


「あの女? 誰の事だ?」

 後で殺すと言いながら、やはり機密事項について喋るつもりはないらしい。断片的な言葉しか発しないセクメトに痺れを切らし、アヌビスはまた別の質問をする。


「半神だけを狙う理由は?」

「神を手に掛けるというのは色々と面倒だ。器としては最適だがそれ相応の手間もかかる。下手をすればこちらが狩られる可能性もあるからな。半神であれば殺すのは赤子の手を捻る程に容易い」

 

 答えたセクメトはふと宿舎の外を一瞥した。


「残念だがそろそろお前を始末する時間だ」


 セクメトはその場で伸びをして気怠そうに立ち上がった。命を奪う事に何の躊躇もないその姿がと重なり、アヌビスの中に再び負の感情が湧き上がる。


 ——いつか絶対に殺してやる。どんな手を使ってでも。


「だがいい暇つぶしになった。苦しまぬよう一瞬で逝かせてやろう」


 セクメトが身構えると、アヌビスはすかさずその場から飛び退いた。すると鞭を打つような鋭い音と共に、眼前では激しい疾風が渦を巻く。上手くかわしたつもりだったが、僅かに巻き込まれた髪が一瞬で切り刻まれ足元に散らばった。


 あの時メリモセを襲ったもの。鋭利な刃と違わぬにアヌビスは戦慄した。


「さすがに人間のようにはいかぬようだな」


 格上の相手に正面から立ち向かうなど愚行。相手を観察する余裕も策を練る時間もない。ならば最善の行動はひたすら逃げる、それ以外にない。


 アヌビスが何か呟くと、宿舎を照らす蝋燭の火が一斉に消え、全てが闇に溶ける。


「舐めているのか? こんな事をした所で——」

 しかし数秒も経たずして宿舎は再び元の明るさを取り戻す。だが肝心のアヌビスの姿が目の前から消えていた。


 石像の影に、その目を掻い潜ったアヌビスは出口を目指し全速力で駆け出した。しかし気配に気づいたセクメトがすかさず後ろを振り返る。


 ——まだだ、まだ時間がいる。


「ッ……」

 突然息が詰まるような胸の痛みを感じ、アヌビスは足を止めた。


 くそ……こんな時に……!


 急激な運動が発作を誘発したのだろう。呼吸困難に陥ったアヌビスは苦しさのあまりその場に膝をつく。


「いい顔だ」

 セクメトは恍惚とした表情を浮かべ、蹲るアヌビスにゆっくりと歩み寄る。腕が振り上げられた瞬間、アヌビスは固く目を閉じた。


 痛みはない。そして張り詰めた空気がまるで誰かに抱擁されているかのような安心感に変わる。


 ——何だ、これは。

 目を開けたアヌビスは唖然とした。無数に見える鳥の羽が円蓋状に形をなし、障壁のように全身を包んでいる。

 

「犯人はお前だな!」

 馴染みのある声がアヌビスの耳に響く。


「ホルス、なのか……?」

 姿は見えないが、確かに彼の声がする。アヌビスはこれが走馬灯でない事を切に願った。


「……ご命令に多分な時間を要してしまった事、お許し下さい」

「お前のケンゾク、俺を見つけるなりすごい顔で戻れって言うし、俺がまた帰ってこねえのを怒ってんだと思ってさ、そのままバックレてやろうかと……」


 2人の声が耳に届いた時、アヌビスは肩の荷が降りたように脱力した。その言い訳にも、もはや怒る気力はない。

 

「あの時の気配。覚えてんだ。こいつが」

 そう言ってホルスは自身の翼に手を伸ばす。川に突き落としたのはセクメトが起こしただ。


 しかしこの男、何故こうも空気を読まないのだろうか。先程までの緊張感が嘘のようだ。しかし相手に飲まれていた空気を一瞬にして変えてしまったホルスにアヌビスは呆れつつも感謝していた。


「あの川に落ちて生き延びるとは運のいい奴だ。……しかし何だその情けない格好は? 傷だらけじゃないか」

「当たり前だろ何時間修行したと思ってんだ!」


 相手の挑発にも動じる事なく——というより挑発されている事にすら気づいていないのかもしれない。アヌビスはホルスの無邪気さに羨望の念すら抱く。


「収め損ねた獲物が自らその身を捧げに来るとは。この好機、決して逃しはしない」


(注1)ナイル川周辺の人々の生活圏。主に作物が育つ地域。エジプトにおける黒は豊かさの象徴である事から。

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