レベルガール・セブンスチェンバー

路肩のロカンタン

【序文】

 血と臓物のシャワーを浴びながらキスをしている。

 

 私の愛しい人。腰まで伸びたピンク色の髪と、長い前髪の向こう側で目を閉じている。睫毛の先に微かな涙の粒が浮かんだが、降り注ぐ鮮血の赤に流されてしまった。

 爆音と共に上空から降り注ぐ赤い雨は、路地裏にかつては生き物であった者たちの体温を撒き散らした。

 

 私の目は涙で溢れ返っていて、チエの表情はよく見えない。

 このままずっとこうしていたい。私はチエを抱きしめる。生臭い豚共の腹を裂いて溢れ出る、髄液まみれの腹わたの悪臭の中でも、あなたは未だに燦々と輝いていた。たとえそのおろしたての黒いチャイナ・ドレスが、爆散したあいつらの血肉にまみれて汚れていたとしても。

 

 あなたはこの腐り切った世界で唯一の宝石。

「シドとナンシーなら、こんな時何て言うんでしょうね」

 チエは私を見上げながら言った。

「ほら、あの映画……あったじゃないですか。二人が路地裏でキスしている間、ビルの屋上からゴミがいっぱい落ちてくるやつ……」

「……ああ、テリー・ギリアムの」

「違いますよ、アレックス・コックスです」

「えっ? 『シド・アンド・ナンシー』でしょ? テリー・ギリアムだよ」

「違います。アレックス・コックスです」

「ゲイリー・オールドマンのやつでしょ? 絶対テリー・ギリアムだって!」

「だから違います!」

「てか今どうでもいいわ!」

 空を見やると、有事通信社の国民総監視塔オール・アロング・ウォッチング・タワーが傾いていた。

 

 それは高さ300メートルの巨大な三角錐の形をした建物で、この世のしがらみそのものだった。

 私たちはかつて天から授かったブラフマーをすっかり使い果たして、息も絶え絶えになりながら、人っ子一人いない裏路地の壁に寄りかかっていた。

 もう今では、全てがどうでもよかった。

 私に残っているのは目の前のチエだけだった。


 「そうですよね……私ったら、こんな時まで馬鹿みたい……」

 チエはそう言って笑った。私はその人懐っこい笑顔を見るといつでも満たされる。これさえあれば、この糞溜めのような世界に産まれ落ちたことさえ許せる気がしてくる。

 勇気が、湧いてくる気がする。

 

 チエは血でベタついた手で私の頰を撫で付けた。か細い指先には微かに温もりが感じられた。それは彼女の体温だったのか、上空から止めどなく降り注ぐ血と臓物にがもたらした熱だったのかは分からなかった。

 ゴミ溜めのような国。

 私たちが出会えたのは奇跡だったと思う。自分の鼻息が微かに漏れ出る音がした。

 

 私の髪は、死に絶えたドス黒い静脈の赤。

 あなたの髪は、生命力に満ち溢れた煌めく動脈のピンク。

 

 なぜ私と同じ人体実験を受けた訓練施設ブートキャンプ出身の人間が、そこまで綺麗な髪の色をしているのか。ブラフマーの発現した人間は、ドス黒い血の赤に染まってしまうというのに。

 何度その手を汚しても、チエの心身の内側には、何の穢れも知らない純正が眠っている。 


「あちらさん、もう殆ど残ってないですよ。遂にやりましたね。ルカちゃん」

 こんな状況であっても敵陣の状況を知覚出来ているとは。チエの感覚は未だ研ぎ澄まされていた。

「うん。ありがとう。でも、ごめんね……全部巻き込んじゃって……」

「いえ、気にしないでください」

「いや、本当にごめん。最悪だ、あたし。いっつもこうなんだから」

「いえ、本当に大丈夫なので……」

「大丈夫じゃない! あたし、最後までこうなんだ。向こう見ずで突っ走って、周りに迷惑かけまくって、もう本当に、何もかも最悪……」

「最悪じゃないです!」

 

 私はチエに強く抱きしめられた。

 ブラフマーが、身体の奥深くで力強く鳴り響いた。

 その瞬間、私たちの頭の中だけに、繰り返し聴いてきたあの思い出の曲が流れ始めた。

 グローヴァー・ワシントン・ジュニアの「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」だった。およそ一世紀以上前の名曲だ。

 チエは大粒の涙を両目に浮かべて、私を見上げながら叫んだ。

「ルカちゃんは、史上最悪の被検体なんかじゃないです!」

 

 力強く、頭上の傾きつつあるタワーの中にいた、有事通信社の社員たち、幹部連中、そして社長、会長の身体が、次々と破裂し、暴発し、空中を彷徨い歩き、窓の外へと投げ出され、夕暮れのトーキョーラマの空へと真っ赤な花火を打ち上げてゆくのを感じた。

 

 それはとても綺麗で、私たちの上へとさらなる無慈悲な血のシャワーを降らせた。

 遥か彼方から聞こえる豚どもの悲鳴と、ビル・ウィザースの歌声が混じり合ってゆく。


 

 −僕ら二人なら−

 −きっとやれるはずさ−

 −僕ら二人なら−

 −天空に城を建てられる−

 −僕ら二人なら−

 −君と僕となら−


 

 チエの指先が、私の短い襟足へと触れた。私はもう一度彼女へ長い口付けを返した。

「そう。あたしたちは、失敗作なんかじゃない」 

 チエの頬に温かな灯が点った。それは訓練施設ブートキャンプで見たかつての氷の微笑ではなかった。私たちのキスはいつでも、腐り切ったライ麦パンのハムサンドを齧るようなざらついた感触がした。

 だが、人殺しにはそれでちょうどいいのだ。

 

 私はこの瞬間が永遠に続いてくれればいいと思った。

「あいつら、通信社の連中……」

 国民総監視塔オール・アロング・ウォッチング・タワーからこの世界を監視していた連中は、次々と起爆してゆく次元爆弾と、連鎖し続ける私たちが残したブラフマーの暴発によって、ただひたすらに爆ぜていった。

 

 天国に一番近い場所で、身も心も同体となって爆ぜるのはさぞかし快い気分だろう。

 バベルの塔と呼ぶには畏れ多い。身の丈に合わない高給スーツと、液晶画面に映る下卑た広告の山と、乱高下を繰り返す株価の中毒となった豚共が築き上げてきた糞の塔だ。

「気にしなくていい」

「気にしてないですよ」

 腕の中にいたチエがまっすぐに私の顔を見上げた。

「いや、気にしてる。これから、どうしてけばいいのって顔してる」

「……いえ、してないです」

「いや、してる!」

「してないですって!」

「いいや、してるって!」

 

 私はチエの腹から大量に流れ出てゆく血の海の中で、次第に自分のブラフマーの光が消えてゆく瞬間を幻視した。

「でも、これからもずっとルカちゃんといれば、大丈夫……ですよね?」

「うん、大丈夫」

 私はチエに最後のキスをした。

「きっと、大丈夫にしてみせるから」

 そしてチエの最後の微笑みが、私をしっかりと、力強く捉えた。


 私は頭上で爆散し続ける通信社の連中の肉塊と、私たちのブラフマーによって瓦解しつつある国民総監視塔オール・アロング・ウォッチング・タワーを見上げた。

 阿鼻叫喚。バベルの塔に蛇のように絡み付く業火。叫び声の洪水が耳元へ届く。

「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」のアウトロはいよいよ終わりを迎えていた。

 

 この世は地獄。

 人間は糞の詰まった袋。

 私たちは身を寄せ合い、その最後にして至上の瞬間が訪れるまで、''恥骨の薔薇''と''肉の林檎''を静かに擦り合わせていった。

「チエ……ありがとう。大好き」

「……私もです。ルカちゃん」

 誰かの脳味噌の欠片が、頬にぽとりと落ちてきた。

 

 時間は止まった。

 どこまで巻き返そうか。

 やはり、3ヶ月と7日前がいい。

「3」と「7」……私の中にある、あの聖なる数字。

 ここから物語を始めたいと思う。


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