瑠魅香
『私は魔女のルミカ。難事件は私におまかせ!』
百合香がそんな他愛ない書き出しの漫画を、折ったコピー用紙に鉛筆で描いて友達と見せ合ったのが、小学3年とかその辺だった。すでにバスケットボールは始めていたが、一方でごく普通の女の子でもあった。
月日が過ぎてバスケットに専念するようになり、その後しばらくルミカとは疎遠だった。
中学2年くらいから、小説を書き始めた。それでわかったのは、自分に絶望的に文才がない事だった。なので、誰にも読ませた事はない。
高校に入ってから、少しダーク寄りのファンタジーを書こうと思い、「瑠魅香」という同世代の魔女が地底世界を冒険する物語をこっそり書き始めた。
やはり文才は成長していない。どうしてなのか、不思議なくらいである。無駄に諦めが悪い百合香は、それでも書くことをやめなかった。文芸部の吉沢さんあたりに読ませたら、気の毒そうな視線を向けられる事だろう。
その書かれた小説を読んでいるのは、自分だけの筈だった。自分だけでなくてはならない。
それが、氷の世界から現れた、自分の姿の真似をしている幽霊少女に読まれていた。どれほどの精神的拷問か、わかるだろうか。氷の化け物100体の方がまだ可愛く見える。
『いくよ、百合香』
その、百合香の秘密の小説を勝手に読んでいた少女が、百合香の肉体を拝借して、「瑠魅香」と名乗り現れた。
百合香は、その様子をぼんやりした視界から見ていた。音もナローレンジ気味である。ちょうど、VRゴーグルを通して見る視界に似ている。手足を動かせる感覚はない。これが、自分の肉体を通じて瑠魅香と共有している感覚らしい。
「いくよ、百合香」
百合香の身体を一時的に借りた瑠魅香は、自分の内側に移動した百合香に語りかけた。
『大丈夫なの!?』
百合香の声がする。自分の声はこんなふうに百合香に聞こえていたのか、と瑠魅香は思った。
「大丈夫、大丈夫」
『来るわよ!』
二人がおしゃべりをしている間に、巨大な氷の蛇は再び襲いかかってきた。うねる前半身をぐんと上に持ち上げて、覆い被さるように体当たりしてくる、文字通りの蛇行は、人間の感覚では全く読めない。
瑠魅香はそれをかわそうとしたが、初めて物理的な世界で肉体を動かすためか、まだその感覚が掴みきれていないらしかった。
『ちょっと!』
「うわっ!」
すんでの所でかわしたものの、足は大きくバランスを崩して、瑠魅香はその場に盛大に転んだ。受け身を取っていないせいで、肩をもろに打ち付ける。
「あうっ!」
『ばか!受け身を取りなさいよ!』
「仕方ないでしょ、初めてなんだから」
どうにか態勢を直した瑠魅香は、
「なるほど」
と呟いて、腕をついて起き上がった。
「よーし」
銀色の巨大な杖を構えると、こちらを伺う大蛇に向かって突き出す。その様子を、百合香はVRの視界から見ていた。
『その杖はなに!?』
「何って、あなたの書いた小説の主人公が持ってるじゃない」
そう言うと、瑠魅香は杖の先端に意識を集中させた。青白い光が、ピンポン球のように収束する。その周囲では、電気のようなエネルギーがスパークしていた。
『あなた、それ…』
百合香が何か言おうとする間もなく、大蛇は牙をむいて瑠魅香に噛み付いてきた。バーチャルの視界で見る百合香は、噛まれるのは自分の身体なのだと思うと気が気でなかった。
もう駄目だと思った、次の瞬間。
バタバタバタ、と大蛇は尻尾をはげしく打ち付けて悶えていた。見ると、何か空間にエネルギーの網のようなものが張りめぐらされ、それに引っかかって大蛇は身動きが取れなくなってしまっていた。
『な…なに?』
「これが、私の魔法」
瑠魅香は得意げに腰に手を当てた。
『魔法!?』
「ふうん、肉体を持つってこういう感覚なのね。予備知識はあったけど」
『あなた、魔法が使えるの!?』
百合香が、頭の中から問いかける。
「もちろん。だって、あなたが創造したのだもの。瑠魅香という魔女を」
瑠魅香は、百合香が小説の主人公に与えた能力を知っている。向こう見ずで直情径行、魔法の実力は高いが、性格のせいでそれを十分に発揮できない。それが、百合香の書いた小説「ルミノサス・マギカ」の主人公、瑠魅香だった。
「小説の中で使ってたでしょう?雷の網で、盗賊団をまとめて捕らえるシーン、あそこ痛快で好きよ」
『戦闘中に書評はいいから!』
「それもそうね。さっさと片付けよう」
改めて、瑠魅香は動けない大蛇に杖を向ける。瑠魅香に警戒して、逃げ出そうとしているのがわかった。
「女の子を襲っておいて、逃げようなんてムシがいいわね」
瑠魅香が意識を集中すると、空間に紅い輪のようなエネルギーが現れた。それは大蛇の首の周りに定位すると、じわじわとその直径を縮めて行く。
『なんかそれ、エグくない?』
あからさまにドン引きしている風である。
「何言ってるの?あなたが、連続殺人犯を処刑するのに瑠魅香に使わせた魔法よ。小説の中で」
『…忘れた』
作者に忘れられた可哀想な魔法のリングが、さらにその直径を縮めていく。大蛇は必死にもがくが、もはや逃れる術はなさそうだった。
『ブラッディー・エンゲージリング!!』
瑠魅香が声をかけると、血染めの指輪は一瞬で収束して、大蛇の首をギロチンのごとく切断した。
ごとん、と嫌な低音を響かせて、大蛇の首が青紫の床に落ちると、首から下の体も崩れ落ちて、ぴくりとも動かなくなった。
「見て、百合香!どんなものかしら」
自信満々で瑠魅香は胸を張ってみせた。
『あんなエグい魔法、書いた覚えはないわ。血染めの結婚指輪って、悪趣味にも程がある』
「じゃあ読み返してみなさいよ、自分で」
ふふふ、と瑠魅香は笑う。
「これが、人間の身体というものなのね。熱を帯びているのがわかる…これが、生命なのね」
感動するように、瑠魅香は百合香から拝借している身体を観察した。その様子で、百合香は服装が変わっていることに気付いたようだった。
『ねえ、今どんな格好してるの』
「え?見たい?」
『ここからじゃわからない。紫のドレスなのはわかるけど』
そうね、と瑠魅香は頷いて、杖を壁面に向けた。
「鏡よ、現れよ!」
杖を一振りすると、凸凹の壁面がバーンと弾け、試着室の鏡のように広い鏡面が現れた。
そこに映るのは、黒いロングストレートを垂らした、紫のドレスに身を包む魔女の姿だった。
「どう?素敵でしょ」
『…まあまあね』
「ご謙遜。顔とスタイルはあなたのものでしょ」
瑠魅香は、鏡の前でくるくると回り、ドレスのスカート部分を持ち上げたりしてみせた。
「それにしても、こんな重いもの下げてよく動けるわね」
瑠魅香は、両方の胸を持ち上げてユサユサと揺すった。
『なにしてんのよ!!』
百合香の怒声が脳内に響く。
「これ、おっぱいって言うんでしょ?」
『黙りなさい!!手を離して!!』
「けち。それにしても、下がスースーするわね、この服装」
今度はスカートを大きくめくる。バスケットで長年鍛え上げた、白い太腿が現れた。
『そそそ、それ以上持ち上げないで!っていうか、身体を返しなさい!!』
「やーよ。もうちょっと、体験させて」
瑠魅香は、肉体の動かし方を練習するかのように、くるくると回りながら歩き始めた。
大蛇を倒し、どれくらい歩いただろうか。
「めちゃくちゃ重いと思ったけど、慣れたらこんなものかって思うわね、人間の身体って」
瑠魅香は左腕を振り回して言った。
『人間の身体も色々と不便よ』
「そうなの?」
『今まで観察してたのなら、わかるでしょ。色々と…デリケートなものなの、特に私達女の子は』
百合香は、そこまで言って言葉を途切れさせた。
「うん。何となくはわかるよ。あまり表立って言ったりしない方がいい事があるのよね」
『…わかってくれたなら幸いだわ』
「色々、教えてちょうだい。人間として生きるって、どういう事なのか」
瑠魅香は、いつか一人の人間として生活を始める事を想像して、百合香に言った。百合香の返事は素っ気無い。
『あまり期待しないでね。まだ人生経験、16年だから』
暗灰色の鎧の人物が、黒く煌めく玉座から、跪く蒼いフードの人物を見下ろしていた。
「何か掴めたか」
低い、くぐもった声が響く。
「はい。何者かが侵入したのは間違いありません。しかし奇妙なことに、侵入者は姿をくらましたようです」
フードの人物は、少年のような、女性のような、どちらともつかない高い声で答えた。
「この城の中でか」
「はい。そして、信じ難い事ではありますが、地下の不完全体たちを、おそらくは単身で全滅させています」
「あの、出来損ないの巨体もか」
「さようでございます」
鎧の人物は、その報告に少しだけ身を乗り出した。
「いかがいたしますか」
「ふうむ…」
少し思案した様子を見せたのち、鎧の人物は言った。
「兵の配置を強化せよ。だが、わかっていようが我々の目的は、一匹のネズミを捕殺する事ではない。本来の目的を見誤ってはならぬ。もし、取るに足らぬようであれば、捨て置いてよい」
「かしこまりました」
恭しく礼をして、フードの人物は玉座の前を辞し、音もなく広間を退出した。
一方、学園敷地内、つまり氷巌城の外の世界では、少しずつ状況が悪化していた。まず、学園一帯の地域への救援隊派遣は一旦保留された。見捨てられたわけではない。じわじわと寒冷化が世界各地で急速に起こり、パニックが起きているのだ。
『この異常気象の原因は何なのでしょうか』
『地球温暖化によって、逆にユーラシア大陸北部のジェット気流が…』
病院の待合室のテレビでは、ワイドショーで喧々諤々の議論がなされている。首都近郊で夏を前に唐突に起きた降雪により、交通渋滞や多重事故、物流の麻痺などで、徐々に人々の生活に影響が出始めているらしかった。
百合香の住む都市では、学園で起きたような人間の凍結事件が数件発生しており、すでに凍死も報告されていた。
「急激な加温は避けて。特に高齢者は」
ベテランらしい医師が、看護士たちに指示を飛ばす。
「病室を出た患者は?」
「警察に届けていますが、まだ連絡はありません。市内もこの状況ですから…」
病院の受け付けに、一人の長髪の美しい女性が、食い付くように身を乗り出していた。
「あの、ここに通院している、江藤百合香という高校生の母ですが、娘はこちらに来ているでしょうか」
「ごめんなさい、今非常に立て込んでおりまして、もう少々お待ちください!」
強引にシャットアウトされ、百合香の母親、江藤真里亜は崩れ落ちた。スマートフォンの画面を何回叩いても、百合香には電話も、LINEも通じない。
待合室は、突然自宅や職場を襲った寒波により、低体温や凍傷に罹ってしまった人々で溢れていた。さらに、路面凍結により事故が続発しており、重傷で運び込まれる人間も後を絶たない。
気温は28℃くらいから唐突に10℃を下回り、さらに下がる様子もあった。これは異常気象ではなく、異常事態と呼ぶべきだと、テレビでは誰かが力説していた。
「今頃、外の世界でも寒冷化が起きていると思うわ」
瑠魅香は、暗い通路を歩きながら言った。
『どういうこと?』
百合香の声が訊ねる。瑠魅香は続けた。
「百合香、落ち着いて聞いてね。いま起きてる事は、あなたのお友達何人かの命が危ない、というレベルの話ではないの」
『え?』
「うーん。言っちゃっていいのかな」
『そこでぼかさないで!逆に不安になる』
百合香の言う事ももっともだ、と思った瑠魅香は、意を決して言った。
「あのね。この城が生まれてしまった以上、放っておけばこの星が凍結してしまうの」
鍋を火にかけっぱなしにするとお湯が溢れるの、と言うのとさして変わらない調子で瑠魅香が言うと、百合香は愕然とした様子で訊き返した。
『この星って、地球ってこと!?』
「そう」
『それ、ガドリエルにも言われた』
百合香は、癒しの間で”女神”ガドリエルに説明された事を瑠魅香に伝えた。ガドリエルも、氷魔の目的は自分達のために世界を凍結させる事だ、と言っていたのだ。
「ふうん、ガドリエルね。何者だろうね、その女神様」
『瑠魅香も知らないの?』
「知らない」
あっさりと瑠魅香は答える。
「なるほど。で、さっきの話の続きだけど。もうすでに、何らかの異常が世界各地で起きていると思うんだ。突然気温が急激に下がる、とかね」
『そんなに早く進行するの?』
「私は氷魔の中でも若い方だから、詳しい事は知らないけどね。この前の氷巌城出現の時、私は生まれていなかったの。生まれる、っていう言葉の意味は、あなた達の言う『誕生』とは違うんだけど」
突然わけのわからない解説を挟まれて、百合香の返事が途切れた。混乱しているのだろうか。
「いずれにしても、私たちのやる事は変わらない。できるだけ早く、この城を消滅させる事よ」
『ちょっと待って』
黙っていた百合香が口をはさんだ。
『瑠魅香、あなただって氷魔なんでしょう。そんな、自分の生まれ故郷を壊すような真似を、なぜするの』
「あー、そこが大きな勘違い。氷巌城は別に、氷魔の故郷でも何でもない」
瑠魅香の説明で、百合香はまたしても混乱したようだった。瑠魅香は続ける。
「私たちの故郷は、平たく言えばこの星よ。この星に生きている生命の一形態、それが私達。ついでに言うなら『氷魔』なんて呼び方は、差別的ね。魔物でも何でもない。あなたが知っている言葉の中では、”精霊”と呼ぶのが一番近いかも知れない」
『精霊…』
「ま、便宜的に呼ぶのは構わないわ。どのみち、私は人間になりたいんだもの」
その言葉で、百合香が思い出したように話題を変えた。
『瑠魅香。どうやって人間になるつもりなの』
「え?」
当然の質問を百合香は投げかけてきた。
『私を頼ってるらしいけど、私は精霊だとかの存在を、人間にする方法なんて知らないわ。それとも、私を殺して体を乗っ取るつもり?』
「そんな事、絶対しない!!!」
突然、激昂するように瑠魅香が叫んだので、百合香は気圧されて黙ってしまった。
「私は…私は、百合香。あなたの生きている姿を見て、人間になりたいと思ったの。人間になって、あなたと一緒にこの星に生きていたい、と。悲しい事、言わないで」
『ご…ごめんなさい』
百合香は慌てて詫びる。瑠魅香は立ち止まって、目から涙が流れている事に気付いた。
「あれ…何これ、目から温かい水が流れてきた」
目尻にたまった涙を手のひらににじませて、瑠魅香はそれを眺めた。
『瑠魅香。それは涙』
「なみだ?」
『私たちは、あまりにも嬉しい時や悲しい時、目から涙を流すの』
「…そっか」
瑠魅香は、小さく笑った。
『ごめんなさい、瑠魅香。…あなたが人間になりたいというのなら、私も力を貸すわ』
「ほんとう!?」
『ええ。ガドリエルなら何か知っているかも知れないし』
「その、ガドリエルってどこにいるの?」
百合香は、癒しの間という空間がある事を説明した。瑠魅香は子供のように機嫌を直し、百合香との語らいを楽しく、嬉しいと思った。
一人でいながら、二人の精神が共にある。百合香もまた、それまで独りで戦って来た所へ、全く予想外の形で”同行者”が現れた事を、とても奇妙に、そして無意識下では、嬉しく感じているのかも知れなかった。
二人の前には、まだ暗く冷たい通路が続いていた。
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