EP08-壱:八方塞りの少年


 血のにおいがする。


 握った拳の内側に流れる血潮が騒がしいくらいに熱くて。


 眼前に倒れ込んだ相手は、痙攣けいれんしたまま起き上がってこない。灰色の廊下に、鼻から噴き出した血の波紋を広げながら。ただびくびくと震えている。


 取り巻きらしい女子たちの蒼白した顔など、ほとんど視界には映っていなかった。


 ただ。こんな人間は殺さなければ、と。そんな言い知れぬ衝動だけが、思考の全てを占有していく感触。


 渦巻うずまいたドス黒い感情に任せて、追撃を加えようと再び腕を振り上げた瞬間。


――光一、ダメっ!


 背後に聞こえたのは、親友の声。思わず振り向いた先には、今にも泣き出したい気持ちをこらえる必死な顔。


 泣き出す少女を守るように抱きながら、ぐにオレを射貫いぬく視線が、怖かった。


――ひとごろし……!


 親友の腕の中から、オレを指さした少女の瞳。そこに溜まった大粒のしずくが、困惑したオレ自身の姿を映し出して。


 あわててやって来た強面こわもての男性教師が肩を掴んできても、オレの眼には彼女の顔しか見えていなかった。


 その顔があまりにも……美しかったから。




『おい、少年⁉』


 その絶叫で我に返る。


 気付けば、膝立ひざだちのまま荒い呼吸をしている自分がいて。


 周囲を見渡せば、地下研究室の下に設けられた演習場という名の灰色の空洞くうどうで。


 どうやら、また意識が飛んでいたらしい。これで何度目だろうか。


『少年、今日はもうやめよう』


 脳へと直接に響く女主人様の声。しかし抗議の意思を込めて、天井に取り付けられた監視カメラへと視線を移す。


 まだ、ここでやめるわけにはいかない。


『気持ちはわかるが、こんな方法じゃ何も解決しない』


 だったら解決してくれ。あんたはオレの〈支配人オーナー〉だろう。


 こんな身体のまま放置されたのでは、それこそ何も解決できない。


『わかったよ……。でも、今日はこれで最後だからな』


 念を押される。言われなくてもわかっています。そう答えたいが、残念なことに今は声が出ない。だからこそ夜更よふけから無理を言って〈実験〉してもらっているわけだが。


『いくよ……ミッションコード、変身』


「……ッ⁉」


 腹の奥底、そこに埋め込まれた〈獣核ゲノム・コア〉が燃えるようにうずく。まるで何もかもを拒絶する幼子のように、神経の全てが暴れ出す。


ERRORエラー


 気付けば、硬い床に伏していた。手足には電流がほとばしったようなしびれ。痙攣けいれんする指先は空を切るのみで、何も掴めないまま。


「少年⁉」


 誰かが駆け寄ってくるのが見える。


「だから言ったのに……」


 長くしなやかなダークブラウンの髪と、白衣を着ていてもわかる美しい体躯たいく。神様に整えてもらったような目鼻立ちをゆがませてオレを見るのは、このオーナー様だけ。


「っ……ッ……」


 声にならない空気の振動だけを返す。唇は動くのに、やはりのどからは音が出ない。


 もどかしい。拳を叩きつけたいほどに怒りばかりが込み上げてくる。


 だがその感情を向けるべき対象は、オレだけ。こんな情けない姿をさらしたまま、のうのうと生きているオレ自身への激情だ。


「少年、焦るな。ただでさえ君には休息が足りていない。あの〈ネクロ〉との決戦からまだ一週間しか経っていないんだ……」


 七日前、宿敵の罠に掛かってオレは死にかけた。


 いや、危険に晒したのはオレ一人ではない。オーナーも狙われ、敵陣までおびき出された。あと一分でも遅ければ、彼女は死んでいたかもしれない。


「しかし、変身できない原因がわからないのは厄介やっかいだな。やはりあの力の謎を解明するしかないか……」


 起き上がりかけた身体に、戦慄せんりつが走る。


 あの力……『RIOTライオット』と叫んだシステムの記憶。断片的で曖昧あいまいなそれを辿たどる限り、不死身にも思えた宿敵〈ネクロ〉を圧倒し、惨殺ざんさつしたのはオレということになる。


 それも、あんなに幸せそうな声で、笑いながら。


 結果として、暴走しかけたオレは自らの力で変身を解除した……らしい。正直、今も実感らしいものはないまま。ただ記録として残ったデータを見て納得するしかなくて。


「とにかく少年、君は少し休め……店も開けなくていいから」


 何とか立ち上がるも、首は横に振る。もちろん、実験を続けろという意味ではなく、閉店したままで良いという発言に対しての否定。


「まったく、君ってやつは……」


 コーヒーをれていた方が心も休まる。それはオーナーも知っていてくれることだからか、許してくれた。肩をすくめてのお小言付きだが。


「でも先にシャワーを浴びておいで。汗びっしょりだぞ」


 言われて気付く。黒のタンクトップがぴったりと肌に貼り付いている。いかに改造された身体とは言っても、確かにこれでキッチンに立つのははばかられた。


 この地下アジトは、かつて別の〈組織〉が使っていた施設らしい。今でこそオレたち二人の隠れ家だが、過去には少なくない人間が生活していたようだった。


 師匠がここを制圧したのは二年前。この施設を極秘裏に建造した〈組織〉のトップが、その〈実験体〉に殺された時だったという。


 埋め込まれた〈獣核ゲノム・コア〉が被験者を暴走させ、職員全てを喰い荒らした痕跡だけが残っていたと。それは紛れもなく〈獣化〉としか呼べないものだったとも。


 人智を超えるテクノロジーを実体化するこの〈獣核ゲノム・コア〉が持つ最大の問題点であり、しかしどうやっても解決不可能な暴走状態……〈獣化〉。


 そこに陥った〈実験体〉……被験者にされてしまった人間を止める方法は、たった一つだけ。


 暴走する〈獣核ゲノム・コア〉を壊すこと。


 蛇口をひねって降り注ぐ熱湯を浴びながら、この問題もこんな単純な動作で終わるならどれほど良かったかと考えずにはいられない。


 その性質上、〈獣核ゲノム・コア〉は容易に取り外しができるものではなく。それは体内に結合した瞬間から、死ぬまで一蓮托生いちれんたくしょうの関係になるということで。


 それを壊すということはすなわち……相手を殺すこと。


 そんな残酷な現実を生み出す魔性の宝石が、今もこの街でうごめいている。


 悪質なのは、配っている〈出資者スポンサー〉だ。


 倫理観に欠けるとみ嫌われた技術者にこそ、資金と〈獣核ゲノム・コア〉を渡す姿勢。世間の評価から遠のいて孤独に研究する人間に、甘い声をかけながら自分たちの〈実験〉を行わせるという醜悪しゅうあくさ。


 しかし、孤独が人の正常さを奪うというのは、理解できない話でもない。


 五歳の頃、オレは両親をうしなった。乗っていたバスが事故に遭い、たまたま窓から放り出された自分だけが生き残った。


 生き残って、しまった。


 それ以来、この顔は笑みと呼べるものを作れなくなった。


 心因性のショック状態と診断され、時間が解決してくれると医者は言ったが。今でも自分の思ったように笑うことはできない。


 それでも良かった。たとえ笑顔が戻らなくても、親友が笑っていてくれるなら。


 なのに。あの陽だまりの笑顔さえ、オレは守れなかった。


 あいつの手を掴んでさえいれば、運命は違ったかもしれないのに。


 この手は、何も掴めないまま……。


 ふと、手先に鈍い痛みが走る。見れば、いつの間にか握っていた拳がタイル張りの壁をえぐっていた。


 まただ。ここ最近、力のコントロールが上手くできないでいる。まるで改造施術を受けたばかりの頃のように。


 もう普通の人間ではない。力加減を一つ間違うだけで、触れた相手を容易たやすく壊してしまう「殺戮兵器」、その紛い物。その自覚はずっと持っていたはずなのに。


 慎重にシャワーを止めて、そそくさとタオルで頭をおおう。


 まだ指は震えていた。


 どうしたらいい。変身機構は〈スポンサー〉を追うこの戦いで、決して失ってはいけない力だ。悪魔のような幹部級の敵だって、まだ何人残っているのか知れないのに。


 泣いている誰かを笑顔にしてほしい。そんな亡き親友の願いを踏みにじる邪悪を討つためにも。


 殺すことでしか救い得ないたましい輪廻りんねに戻す。そんなとむらいのために戦い続けた師匠の遺志を継ぐためにも。


 早く、取り戻さなければ……。


 ピピピと、脳内で音がする。こうして物思いにふけってしまった時のために設定しておいたアラームだった。


 さっさと服を着ることにしようと、いつも通りの黒いシャツにチノパンを合わせる。


 寒さなど改造施術を受けたこの身体には大した問題ではないが、昔馴染むかしなじみのチョッキを羽織はおる。そして首元にはひもネクタイだ。正確には、補助脳と連動したこのブローチ型スピーカーを付ける。


 地下を出て、喫茶店スペースへと上がる。昨夜のうちに掃除をしておいた店内は綺麗なままで。手間のかかるような仕込みなどない。時間が来たらすぐにでも店を開けられる状態だった。


 外に出る。十一月にしてはさわやかなはずの朝の空気も、しかし今のオレには灰のような香りしか感じられなくて。


「お~い、バイト少年くん~!」


 鼓膜に届いたのは、呑気のんきな男の声。できればこんなタイミングでは聞きたくなかった常連客の声だった。


 焦げ茶色にチェックがらのスーツと帽子という姿は相も変わらず。おおよそ三十路みそじだろうという年代だが、万年金欠でツケ滞納の常習犯には違いなく。それでも許されるのはこいつが探偵だからに他ならない。


 この男こそ、街の名探偵を自称する迷探偵。


「この橋端はしば三平さんぺいに依頼があったんですよぉ!」


「そうですか。開店時間前ですので、お引き取りを」


「ちょっとぉ⁉ 何ですかいそのない態度ぉ⁉」


 悪いがコントに付き合ってやる余裕はない。ただでさえ指先がかすっただけで人を殺しかねない力の制御で苦しんでいる最中だ。こんな輩と一緒にいたらそれこそ危険というものだろう。


「いや、それよりも! バイト少年くん、君の名前をいてもいいかね?」


何故なぜです?」


「ふふふ、ならば当ててあげよう! みなみ光一郎こういちろう‼」


 微妙に合ってない。正しくは南野みなみの光一こういち


 しかし妙だ。この探偵は確かに常連だが、こちらから名前を告げたことは一度もないはず。それでここまで近い語呂が並ぶだろうか。


「あれ、違った? 南じゃなくてひがしだったかな……いや、光一郎が違う? 光っていうより闇って感じだもんねぇ? 君ってば笑わないしさぁ?」


 余計なお世話だ。


「とにかく! 君に渡してくれって依頼なんだよ!」


 差し出されたのは、封筒。黒塗りの上品な材質が使われた紙は、手触りからしてもかなり秀逸な一品なのは間違いない。


「こちらは……?」


「実は昨夜さ、ビアガーデンでバイトしてる可愛いお姉さんと意気投合しちゃってね。舞台役者をしてるって。で、吾輩わがはいは探偵なんだって話をしたら、前に助けてくれた年下の男の子を探しているんですと。で、聞けば聞くほど君の事っぽくてさぁ」


 何を言っているんだ、こいつ。


「でね、君の話をしたら、これを届けて欲しいって言うもんでさ? あんな目で見つめられたら、断れなくってねぇ~」


 鼻の下を伸ばしているところを見る限り、その相手とお近づきになりたいらしい。


「それでわざわざ開店前に来たんですか」


「まあ、吾輩も忙しい身だからね」


 嘘つけ。日がな一日コーヒーをすすっているだけの時もざらにあるくせに。


「ではでは、吾輩はこれにて!」


 逃げるように去っていく背中だ。まあ、そんなものを見つめていても仕方がない。


 とにかく封筒の中身だけは確認しておこう。その綺麗な店員さんとやらが何者でも、こちらに覚えがない以上は何かの勘違いかもしれない。もし本当に南光一郎なる恩人を探しているのなら、きっとオレではないだろうから。


 しかし封筒から出てきたのは、一枚のチケット。劇団アンティーク・ネオ主催『終末に響くうた』鑑賞券、とある。


 舞台のタイトルにも、もちろん一座の名前にも覚えはない。やはり勘違いだったのだろうと思った瞬間、視界に飛び込んだ文字は。


 ジーニー。


(気軽にジーニーって呼んでね?)


 思い起こされるのは、冗談めかした子どもの声。窮地きゅうちおちいったオレに強化改造を施した、あのプロフェッサー・ジーニアスとか名乗った子ども。


 まさか、奴がオレを呼んでいるとでも。


 いや、よくよく考えてみれば取引は終わっていない。奴は〈ネクロ〉の打倒と引き換えに情報を渡すと言っていた。ならば、この劇場で報酬ほうしゅうを渡すというサインか。


 場所は、黒銀くろかねアンティークシアター。


 できれば二度と行きたくないと思っていたところだった。


(ひとごろし……!)


 脳の奥にこびりついた同級生の悲鳴が、今も消えない。


 彼女は今、どんな顔をしているのだろう。


 あいつが……親友が守ったものは、今もそこにあるのだろうか。

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