EP08-壱:八方塞りの少年
血の
握った拳の内側に流れる血潮が騒がしいくらいに熱くて。
眼前に倒れ込んだ相手は、
取り巻きらしい女子たちの蒼白した顔など、ほとんど視界には映っていなかった。
ただ。こんな人間は殺さなければ、と。そんな言い知れぬ衝動だけが、思考の全てを占有していく感触。
――光一、ダメっ!
背後に聞こえたのは、親友の声。思わず振り向いた先には、今にも泣き出したい気持ちを
泣き出す少女を守るように抱きながら、
――ひとごろし……!
親友の腕の中から、オレを指さした少女の瞳。そこに溜まった大粒の
その顔があまりにも……美しかったから。
『おい、少年⁉』
その絶叫で我に返る。
気付けば、
周囲を見渡せば、地下研究室の下に設けられた演習場という名の灰色の
どうやら、また意識が飛んでいたらしい。これで何度目だろうか。
『少年、今日はもうやめよう』
脳へと直接に響く女主人様の声。しかし抗議の意思を込めて、天井に取り付けられた監視カメラへと視線を移す。
まだ、ここでやめるわけにはいかない。
『気持ちはわかるが、こんな方法じゃ何も解決しない』
だったら解決してくれ。あんたはオレの〈
こんな身体のまま放置されたのでは、それこそ何も解決できない。
『わかったよ……。でも、今日はこれで最後だからな』
念を押される。言われなくてもわかっています。そう答えたいが、残念なことに今は声が出ない。だからこそ
『いくよ……ミッションコード、変身』
「……ッ⁉」
腹の奥底、そこに埋め込まれた〈
『
気付けば、硬い床に伏していた。手足には電流が
「少年⁉」
誰かが駆け寄ってくるのが見える。
「だから言ったのに……」
長くしなやかなダークブラウンの髪と、白衣を着ていてもわかる美しい
「っ……ッ……」
声にならない空気の振動だけを返す。唇は動くのに、やはり
もどかしい。拳を叩きつけたいほどに怒りばかりが込み上げてくる。
だがその感情を向けるべき対象は、オレだけ。こんな情けない姿を
「少年、焦るな。ただでさえ君には休息が足りていない。あの〈ネクロ〉との決戦からまだ一週間しか経っていないんだ……」
七日前、宿敵の罠に掛かってオレは死にかけた。
いや、危険に晒したのはオレ一人ではない。オーナーも狙われ、敵陣まで
「しかし、変身できない原因がわからないのは
起き上がりかけた身体に、
あの力……『
それも、あんなに幸せそうな声で、笑いながら。
結果として、暴走しかけたオレは自らの力で変身を解除した……らしい。正直、今も実感らしいものはないまま。ただ記録として残ったデータを見て納得するしかなくて。
「とにかく少年、君は少し休め……店も開けなくていいから」
何とか立ち上がるも、首は横に振る。もちろん、実験を続けろという意味ではなく、閉店したままで良いという発言に対しての否定。
「まったく、君ってやつは……」
コーヒーを
「でも先にシャワーを浴びておいで。汗びっしょりだぞ」
言われて気付く。黒のタンクトップがぴったりと肌に貼り付いている。いかに改造された身体とは言っても、確かにこれでキッチンに立つのは
この地下アジトは、かつて別の〈組織〉が使っていた施設らしい。今でこそオレたち二人の隠れ家だが、過去には少なくない人間が生活していたようだった。
師匠がここを制圧したのは二年前。この施設を極秘裏に建造した〈組織〉のトップが、その〈実験体〉に殺された時だったという。
埋め込まれた〈
人智を超えるテクノロジーを実体化するこの〈
そこに陥った〈実験体〉……被験者にされてしまった人間を止める方法は、たった一つだけ。
暴走する〈
蛇口を
その性質上、〈
それを壊すということは
そんな残酷な現実を生み出す魔性の宝石が、今もこの街で
悪質なのは、配っている〈
倫理観に欠けると
しかし、孤独が人の正常さを奪うというのは、理解できない話でもない。
五歳の頃、オレは両親を
生き残って、しまった。
それ以来、この顔は笑みと呼べるものを作れなくなった。
心因性のショック状態と診断され、時間が解決してくれると医者は言ったが。今でも自分の思ったように笑うことはできない。
それでも良かった。たとえ笑顔が戻らなくても、親友が笑っていてくれるなら。
なのに。あの陽だまりの笑顔さえ、オレは守れなかった。
あいつの手を掴んでさえいれば、運命は違ったかもしれないのに。
この手は、何も掴めないまま……。
ふと、手先に鈍い痛みが走る。見れば、いつの間にか握っていた拳がタイル張りの壁を
まただ。ここ最近、力のコントロールが上手くできないでいる。まるで改造施術を受けたばかりの頃のように。
もう普通の人間ではない。力加減を一つ間違うだけで、触れた相手を
慎重にシャワーを止めて、そそくさとタオルで頭を
まだ指は震えていた。
どうしたらいい。変身機構は〈スポンサー〉を追うこの戦いで、決して失ってはいけない力だ。悪魔のような幹部級の敵だって、まだ何人残っているのか知れないのに。
泣いている誰かを笑顔にしてほしい。そんな亡き親友の願いを踏み
殺すことでしか救い得ない
早く、取り戻さなければ……。
ピピピと、脳内で音がする。こうして物思いに
さっさと服を着ることにしようと、いつも通りの黒いシャツにチノパンを合わせる。
寒さなど改造施術を受けたこの身体には大した問題ではないが、
地下を出て、喫茶店スペースへと上がる。昨夜のうちに掃除をしておいた店内は綺麗なままで。手間のかかるような仕込みなどない。時間が来たらすぐにでも店を開けられる状態だった。
外に出る。十一月にしては
「お~い、バイト少年くん~!」
鼓膜に届いたのは、
焦げ茶色にチェック
この男こそ、街の名探偵を自称する迷探偵。
「この
「そうですか。開店時間前ですので、お引き取りを」
「ちょっとぉ⁉ 何ですかいその
悪いがコントに付き合ってやる余裕はない。ただでさえ指先が
「いや、それよりも! バイト少年くん、君の名前を
「
「ふふふ、ならば当ててあげよう!
微妙に合ってない。正しくは
しかし妙だ。この探偵は確かに常連だが、こちらから名前を告げたことは一度もないはず。それでここまで近い語呂が並ぶだろうか。
「あれ、違った? 南じゃなくて
余計なお世話だ。
「とにかく! 君に渡してくれって依頼なんだよ!」
差し出されたのは、封筒。黒塗りの上品な材質が使われた紙は、手触りからしてもかなり秀逸な一品なのは間違いない。
「こちらは……?」
「実は昨夜さ、ビアガーデンでバイトしてる可愛いお姉さんと意気投合しちゃってね。舞台役者をしてるって。で、
何を言っているんだ、こいつ。
「でね、君の話をしたら、これを届けて欲しいって言うもんでさ? あんな目で見つめられたら、断れなくってねぇ~」
鼻の下を伸ばしているところを見る限り、その相手とお近づきになりたいらしい。
「それでわざわざ開店前に来たんですか」
「まあ、吾輩も忙しい身だからね」
嘘つけ。日がな一日コーヒーを
「ではでは、吾輩はこれにて!」
逃げるように去っていく背中だ。まあ、そんなものを見つめていても仕方がない。
とにかく封筒の中身だけは確認しておこう。その綺麗な店員さんとやらが何者でも、こちらに覚えがない以上は何かの勘違いかもしれない。もし本当に南光一郎なる恩人を探しているのなら、きっとオレではないだろうから。
しかし封筒から出てきたのは、一枚のチケット。劇団アンティーク・ネオ主催『終末に響く
舞台のタイトルにも、もちろん一座の名前にも覚えはない。やはり勘違いだったのだろうと思った瞬間、視界に飛び込んだ文字は。
ジーニー。
(気軽にジーニーって呼んでね?)
思い起こされるのは、冗談めかした子どもの声。
まさか、奴がオレを呼んでいるとでも。
いや、よくよく考えてみれば取引は終わっていない。奴は〈ネクロ〉の打倒と引き換えに情報を渡すと言っていた。ならば、この劇場で
場所は、
できれば二度と行きたくないと思っていたところだった。
(ひとごろし……!)
脳の奥にこびりついた同級生の悲鳴が、今も消えない。
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。
あいつが……親友が守ったものは、今もそこにあるのだろうか。
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