《短編》置き場

スリッパ

漁り火

――あれはな、いさというんだ。


 昔、漁師だった父親から教わった。夜の暗く深い海を泳ぐ魚たちを集めるための光なんだと。


 幼い私の目には、まるで海の上に星が現れたような、そんな綺麗なものとして映って。今もまぶたを閉じればはっきりと浮かぶほど、鮮烈な記憶として残った。




 だからだろうか。私の狩りの形がこうなったのは。




「お兄さん、遊んでいかない?」


 十月の夜にきらめくネオンの下、壁を背にするサングラス姿の若い男に声をかける。まだ二十代も折り返しに入ったくらいか、地味な服装で。


 けれどレンズ越しにもわかる冷たい瞳は、満たされない空白を埋める何かを探しているようで。それだけなのに、一発で気に入ってしまった。


 ゆっくり近づくと、男は谷間を強調したこの胸と私の顔を交互に見遣みやる。そうして、赤いドレスに合わせて付けてきたマーメイドブルーのマニキュアに目を留めると、ゆっくりとうなずいて。


 釣れた。


 その腕に自分の腕を絡ませて、店の方へと誘う。


「あら、細身に見えたけど、いい身体してるのね。ダイエットとか無縁そう」


 軽く触れるだけでもわかるほどの、しなやかな筋肉が持つ弾力。これは上玉だと感じて、思わず舌舐したなめずり。


 けれどその躯体くたいの持ち主は返事もせず、ただ促されるまま足を進めるだけ。なんだかロボットみたい。


 いや、緊張しているだけかも。そういえば私の美貌とこの身体に目を奪われていたもの。まるで作り物みたいな滑らかな肌触りだし、きっと若いから。


「もしかして、こういうところ、初めて?」


「そうですね」


 ニコリとも笑わない声は、どこか森林にまう獣じみた響きを伴っていて。おとなしそうな外見に反して、意外と肉食系なのかもしれない。


 それならそれで好都合か。


「ねぇ? 私の背中のチャック、下ろしてくれる?」


 浴槽が湯気を立てる部屋に通すと、お決まりの口上と共に背を向ける。


 どんな男だってこれで手を伸ばさないわけもない。欲望に従ってこんな場所まで来るのだもの、当然よね。


 少しの間だけ沈黙していた客は、恐る恐るといった具合で金具に指をかける。


 さぁ、さっさと下ろしてしまいなさい。そうしたら、最高の時間をくれてやるわ。ジリジリと焦らすようにファスナーが下りて、期待感に私の心臓が早鐘を打つ。


 早く、腰まで下ろしなさい。その先にあるものが見たいでしょう?


「ッ!?」


 男が息を呑む声。それが耳に入ると同時、私の背から飛び出した〈脚〉が人体を殴りつけた感触。ああ、この瞬間は何度でも味わいたいくらい幸福感に満ちている。


 いつだって私を傷つけてきた男たち。生まれながらに腕力で勝ることが決まっていて、社会の在り方として優遇もされる。そのくせ欲しい欲しいと駄々だだをこね、平気で貧しい女を食い物にできるクズたち。


 そんな男たちを、この手で蹂躙じゅうりんできる快感。


 高まる気分に呼応するように、この身体が赤く変わっていく。背から伸びるのは〈脚〉。口から噴き出すのは、昔は盛んに稼働していた工場の煙突から出るような、黒い煙。


 これこそ、私がずっと欲しかった力。


「心配しないでね。ちゃんと美味しく食べてあげる。私の美貌のためにね」


 そうしてベッドに放り出された相手の姿を見ようと、この身体をひるがえす。早くかじり付きたくて、この身がうずいて仕方ないんだもの。


 どうやって料理してあげようか。前のは手足を千切ったし、今度は縛り上げてピーピー鳴かせるのも面白いかも。あのお人形さんみたいな顔がゆがむと思うと、そそる。


「っ⁉」


 そんな思考を遮ったのは、ベッドの上からねるように飛んできたキック。


「やはり〈実験体〉か」


 何事もなかったように起き上がった男には、傷一つすらなくて。外したサングラスの下から現れた漆黒の瞳は、凍るような冷たさで。そうして、恐れるどころか鬼気迫る表情で、私をにらみつける。




「ミッションコード……変身」




 響いた声は鋭い刀のように冷ややかで、でもやっぱり野獣の荒々しさ。そして悪寒おかんが背筋を走り抜けるのは、きっとその姿のせい。


 返り血を浴びて染まったような赤いマフラーと、亡霊のようにゆらめく銀色の仮面。それはずっと昔に読んだ絵本に出てくる怪物……いや〈死神〉のようだった。


「あんた、何なの……!?」


 たまらずいてしまった声は、自分でもわかるほどに上ずって。


終止符ピリオドだ……」


 けれど返ってきた声は、氷のように冷たくて。


「お前を殺す」


 でも同時に、激しい憎悪の炎をはらんでいた。


「舐めんじゃないわよ‼」


 振り払うように八本の〈脚〉がその仮面を狙う。あの声の出処でどころを潰したいとこの身体が叫んでいるように、力がみなぎった。


 されど触手のどれもが空回り。まるでこちらの動きなど遅すぎると言わんばかりに、最小の足捌あしさばきで近づいてくる。


「⁉」


 翻った赤いマフラーが視界から消えた。いや、あまりに華麗なステップで見切れなかったのだと気づく。そうして侵入されたふところに、重たい拳の連打が叩き込まれる。


「……⁉」


 唐突に攻撃が止まり、チャンスとばかりに迫った触手たちがその身体を絡め取って持ち上げる。


「あら、今更になって気づいた? そんな力任せなやり方じゃ、女は落とせないって……ね!」


 首を重点的に締め上げる。引き剥がそうとパンチを繰り返すけど無意味。だってこのやわらかな身体は、どんな威力でも吸収してくれる。特大の槍でも降ってこなければ負ける道理はない。


「そのマフラーが真っ黒になるまで染めてあげようじゃない。もちろん、あんたの身体に流れる血を使ってね!」




WASPワスプ




「ぁ……⁉」


 機械じみた音が聞こえたのが先か、私の〈脚〉の一本がドロドロと崩れるのが先か。


 見えたのは、敵の右腕から伸びる、銀の槍。あの細身のどこに隠していたのか知れない極太の針は、次々と吸盤を切り裂いていく。


 もう一本も〈脚〉がない。けれど逃げ場なんてどこにもない。だから。


「うらぁあああああああああああああああああああ‼」


WASPワスプ……Exterminationエクスターミネイション


 自滅覚悟の突撃。それを受け止めたのは、真正面からの刺突。


 逆流した血液がのどを通って口へとあふれていく。けれどしたたり落ちたのはドロリとした真っ黒の粘液。ああ、私の血ってこんなに汚い色になっていたんだ。


――漁り火みたいになりたい? そうだな、大きくなったら、綺麗になるさ。


 脳裏を巡る走馬灯が見せるのは、優しい父の顔。


 あの後、漁に出たきり何日も戻らなくて。そうして返ってきたのは、ズタズタになった父の亡骸なきがら


 警察が言うには、犯人は昔、海にゴミを捨てようとして父にとがめられたのだとか。それで勝手に逆恨みして船に細工をしたとも。そうして制御不能になった船のスクリューに巻き込まれて、父は命を断たれたのだと。


 それからの母は必死に働いた。ダンボールだらけの部屋で内職もして。それでも足りないからと水商売をするようになって。でも過労がたたったのか職場で倒れた母は、結局この世を去った。


 そうして独りぼっちになった私は、誰に怒りをぶつけても救われることなんてなくて。だから、力をくれると言ったあの科学者たちに身体をゆだねた。


 あいつらに復讐しても、全然、心は晴れなくて。だから悪い男はみんな罠にめて殺してやろうと思った。


 それだけなのに。


「くや……しぃ、な……」


 両親は、悪い人に殺されたからきっと天国にいる。でも私はたくさん殺してしまったから、きっと天国になんて行けない。


 私って本当にバカ。こんなことなら、何もしなければ良かった。


け……」


 耳元で聞こえたのは、私を殺した男の声。そのはずなのに、あの冷たさも、荒々しさも感じられなくて。


「もし生まれ変わったら、今度は……」


 その先が聞こえなかったのは、きっとこの身体が崩れていったせい。


 でも、どうしてか。




 その仮面は、泣いているようだった。

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