ムーンシールド
早瀬
夏に降る雨が好きだった。
噴き出す汗を拭いながら外を歩いていると、不意に腕に弾ける雫。やがて目に見える透き通った筋がまばらに増えていき、灼熱したアスファルトの熱を冷ます。
その直前に、雨の匂いを感じる。その匂いが僕に何を思わせるのかは分からない。コーヒーや花の香りのように、それ自体に心地よさを感じる匂いとは違う。郷愁か、あるいは憧憬かもしれない。いずれにせよ、記憶の向こうにある何かが雨の匂いを感じることで僕の心の琴線に触れる。何が潜んでいるのかは分からないが、好ましく感じるのであれば、少なくとも悪いことではない。そう思うからこそ、記憶の糸というものを敢えて手繰ろうとしたことはなかった。
その匂いを感じることができるのは、降り始める直前の僅かな時間だけだ。幾筋もの雫とアスファルトの黒く染まる光景が目に見えて分かる頃には、もうその匂いは消えている。
夏という季節は、四季の中では一番嫌いだった。よく言う話だが、過ごしやすい春や秋は別としても、厳寒の冬は厚着をすればそれなりに凌げる。しかし、夏は全裸になっても暑いし、衛生面に注意していてもどこかしらでゴキブリを見かける。僕がこの世で一番嫌いなのは父親とゴキブリなのだ。
今年の夏は過去最悪の猛暑で、冷暖房のない部屋で扇風機をつけていても、不快な温風を浴びるだけなのでまるで役に立たなかった。図書館やコンビニなど、どこでもいいから近所で冷房の効いている所へ行こうと思い、シャツを着替えて外に出た。
駅前の通りに出ると、体中から汗を噴き出した人々がひっきりなしに往来を繰り返していた。太陽は中天に昇り、湿気の漂う嫌がらせとしか思えない熱が容赦なくまとわりついてくる。部屋を出て五分と経っていないのに、僕もまた無尽蔵な発汗人間と化していた。駅前にある二階建ての本屋に入って立ち読みでもしながら涼もうと思い、手の甲で額の汗を拭いながら歩を速めた。
本屋の手前にある信号を渡ろうとした時、傍らに立てられている柱時計の下に小柄な人の姿があった。そこには二人掛けのベンチがあり、地面にビニール袋を置いた老婆が腰を下ろしていた。買い物帰りだとは思いつつも、僕はそんな推測より老婆の表情に意識を奪われた。買い物帰りの途中で一息ついているにしては、やけに放心気味な弱々しい表情を車道に向けていた。何をするでもなく、腰の曲がった姿勢で座ったきり、ただ呆然としているのだ。不思議に思いつつも、特に声を掛けようとまでは思わなかったので、そのまま素通りして本屋へ飛び込んだ。映画や音楽の雑誌を立ち読みしながら涼み、三十分程してからアルバイトへ向かう時間が近くなったことに気付き、適当な文庫本の小説を買って店を出た。一度家へ戻る途中、再び柱時計の下のベンチを通り掛かったが、既にあの老婆の姿はなかった。
大塚駅前から都電荒川線に乗車し、飛鳥山公園を右手に眺めながら王子駅前で下車する。週三回のアルバイト先へ向かう、僅か十一分の移動だ。
珍しく車内は空いていたので、乗車してすぐに席に腰を下ろすと、僕は買ったばかりの文庫本を読み始めた。その数分後には、栞を挟むのも忘れて再び本を閉じていた。車窓から見える飛鳥山公園の桜も、この時期は緑一色に染まり照り付ける陽光を浴びて輝いている。過ぎた期間を数えた方が、再び春が訪れるまでの月日よりもずっと短い。それでも再び満開の花を咲かせる光景を想像し、呆然と見入ってしまう。そうしている間に、電車はカーブを曲がって王子駅前に到着する。心持ち意識が宙に漂うような感覚に囚われながら、陰鬱な銀鼠色の空の下を力なく歩き出した。湿気の強い暑さに体が拒絶反応を起こしているようだった。
そんな不快極まりない気候に見舞われたこの日、僕はある変わった男と出会った。以前から知ってはいた相手だったから、出会ったと言うよりは、初めて話をしたと言うべきだろう。
大塚駅へ向かう通り道の、古い町並みを留めた閑静な住宅街。古びた二階建ての一軒家の、通りに面した二階のベランダにいつも彼は立っていた。
一階の庭には、大きなイチョウの木が生えていた。葉を付けている時期には二階のベランダはほとんど隠れて見えなくなってしまうだろう。それが冬の寒空の下ではすっかり葉を落とし、枝の広がりが形作る光景は、遠目にはそれ自体が一枚の葉のようにも見えた。
大学の講義の時間は日によって違っていたので、僕が家を出る時間には毎日ばらつきがあった。しかしその家を通り過ぎる時、入り組んだ枝の隙間からは必ず彼がベランダに立って通りを見下ろしている姿が見えた。つまり彼は、毎日僕を見ていたのだ。通学の朝や昼、帰り道の夕方や夜。きっとアルバイトの行き帰りの時も。
始めはちらりと目を向けるだけで素通りしていたのだが、連日の同じ光景と、いつもここを通る時に彼に見られていることがあまりに気になっていたせいか、僕は思い切って声を掛けることにした。八月十五日の昼下がりだった。
彼は、自分をえび夫と名乗った。子供の頃にえびばかり食べていたので、周りの友達からそう呼ばれていたそうだ。佃煮、天ぷら、フライ、刺身。朝昼晩と三食えびを食べる日もざらだったらしく、幼稚園の頃の弁当にいつも何かしらの形でえびが入っていた為に、えび夫と呼ばれるようになった。
姓が掘られた表札は玄関脇の壁に下がっていたが、彼はあくまで十数年も前のあだ名で自分を呼ぶよう僕に言った。理由を聞いてみると、彼は一階の庭に入るよう僕を促した。黒塗りの所々に錆が目立つこじんまりとした鉄製の門を開けて中に入ると、左手にある芝生の庭に移動した。ちょうど二階のベランダを真上に見上げる格好になって、初めて彼の姿をはっきりと目にすることができた。彼はパジャマ姿で、痩せこけた頬が特徴的な青年だった。年を聞いてみると、僕と同じ十九歳だった。
「えび夫って名前で呼ぶのは嫌かい?」
「嫌じゃないけど、どうして今更そんなあだ名で呼ばせたいんだ?」
至極当然の疑問だった。恐らく彼自身、未だにそのあだ名で呼ばれてなどはいない筈だ。しかし彼は彼で、僕を見下ろしながら至極当然のように、
「名前なんてどうでもいいんだ。僕にとっても、君にとっても」
と言った。投げやりな口調とも言えた。
彼がいつもベランダに立って、毎日飽きもせずに通りを眺めていたのは、往来者の観察が目的だった。
午前中は駅の方へ向かっていく人々を眺めてはどこへ行くのかを想像し、午後は駅の方からやってくる人々を眺めてはどこから帰ってきたのかを想像する。何らかの病を患っているらしい彼には、外出が許されない立場で外と接することができるのはそれだけだった。
もっとも彼自身は、通り過ぎていく人々にとっては、特別興味をそそられることもない目立たぬ看板のような存在だったのかもしれない。イチョウの木の枝に紛れて、ベランダの彼の姿に気付かない人々も決して少なくはなかっただろう。
僕たちは特別親しくなったわけではないが、僕が通りかかった時に運良く彼がベランダに姿を現している時には、庭に入って会話を交わした。まあ、十中八九彼はそこにいたが。
ある時、僕は夏は嫌いだが、夏の雨の匂いは好きだという話をえび夫に聞かせた。
「雨の匂いか。それは、ペトリコールっていう物質の匂いだってどこかで聞いたことがあるよ。正体は、雨が降っていない時に植物が土壌に発している油らしいんだけどね。ちなみにペトリコールっていうのは、ギリシア語で『石のエッセンス』っていう意味らしいよ」
「石のエッセンス……」
ギリシア人は本当に想像豊かな民族だな、と僕は思った。普通に生活していて、そんな言葉はまず考えつかない。まさか油の匂いだとは思ってもみなかった。
「僕もあの匂いは好きだな。何でかって言われると特に理由はないんだけど、何となくね」
同感だった。理由はあるのだろうが、考えるのが面倒な気がした。だから、特に理由なんてなくても構わなかった。
しばらく話をして別れを告げると、彼は僕の背に今年は海へ行ったかと聞いた。
行っていないと答えると、そうか、とだけ無感情に呟く声が聞こえた。
翌日、大学へ向かう電車の中で、かつての幼なじみと出くわした。出くわすという表現はあまり良い意味ではないように思う。実際、良い意味ではなかった。
彼女は高科恭子という名で、家が近所ということで昔はよく一緒に遊んでいた。幼稚園から小学校まで一緒に通い、別々の中学校に通うようになってからはあまり顔を合わせることもなくなっていた。
「最近会わないね」
と彼女は言った。最後に顔を合わせたのは半年くらい前だったような気がする。今でも家が近所なのでその気になれば会いに行くことはできるが、別に会う理由はなかった。古典的な恋愛ストーリーの登場人物のように、幼なじみで恋愛感情が芽生えるなんてことはないのだ。たまに道端で出会うものの、挨拶してすれ違う程度だ。
彼女は友達の家へ遊びに行く途中らしく、僕の大学の最寄り駅より二つ手前の駅で下車すると言った。それまでの十数分の間、僕たちはドアのすぐ脇の所に立って、久し振りに落ち着いて話をした。まともに話をするのは五年ぶりくらいだった。とはいえ、僕には特に話すことなどなかったので、ほとんど黙ったまま流れていく外の景色をぼんやりと眺めていた。始めは恭子の方も気を遣って話しかけてくれたが、僕が素っ気ない返事ばかりをするせいか、遂には黙り込んで僕と同じように外に目を向け始めた。駅へ到着して電車のスピードが緩やかになった時、彼女は、ねえ、と僕に声を掛けた。振り向くと、ぎこちない表情が僕を正面から見据えていた。
「雪村君、変わったね」
昔は名前で呼ばれていた。姓で呼んだのは、僕に対する親近感が薄れたせいだろう。
「変わったって、どんな風に?」
「何ていうか……話しかけづらい雰囲気。もしかして、私のこと避けてる?」
「別に」
そう答えた時、ちょうど電車の揺れが止まった。ドアが開きホームへ降りると、恭子は浮かない顔をしてわずかに片手を上げ、僕に別れを告げると人混みの中へ消えていった。
その日の講義は、あまり身に入らなかった。別れ際の恭子の言葉が、僕を縛りつけていた。そこから意識を遠ざけることはできなかった。仕方がなく、僕は彼女の言葉の意味するところを講義中や昼休み、帰りの電車の中でもずっと考えていた。
僕が恭子を避けているのは事実だ。正確に言えば、恭子一人を避けているのではなく、全ての人を避けているのだ。別に好きで避けているわけではないが、今までに僕を形作ってきたありとあらゆるものが、僕をそうさせているのだろう。その核心的な元凶の眠る箱が、僕の中に転がっている。その蓋を開けるまでもなく、中に潜むものが常に僕を呪縛しているのだ。
月並みな言葉で言えば、それは父の幻影だった。
幼い頃から、僕は父に育ててもらったという記憶がない。一年の半分以上は海外出張で家にいなかったし、たまに帰ってきても泥酔状態で、その度に母と激しく口論している姿しか見たことがない。僕が中学生になった頃には毎日家へ帰ってくるようにはなったが、しらふの姿は一度として見た記憶がなかった。深夜に帰宅し、土足で家の中に入り、タクシーを下に止めてあるから金をよこせとがなり立てる。翌日は学校があるのに、眠っているところを叩き起こされ、理不尽な説教をされる。お前は頭が悪いとか、うちは貧乏だから学費は自分で稼げとか、会社が潰れそうだから夜逃げするとか、離婚をするからどっちに付いていくか考えておけとか、毎晩のように同じことを繰り返し聞かされ、毎晩のように近所迷惑になるほど大声を上げた両親の口論を聞かされてきた。
そして、酔ったはずみでいつもの口論をした挙げ句、父は飛び降り自殺を図った。親として認識できていなかったし、自分にとって災厄となるだけの人物としか思っていなかったせいか、ショックを受けるべき親の死だと理解はできていても、実際には何とも思わなかった。いつしか僕は他人との間に存在する空気を無駄に色濃く感じるようになり、相手の顔色ばかり伺っては失敗を重ねるようになった。やがてそれを恐れるように、つまりは他人を恐れるようになった。独りを好むようになると、他人への関心も、感情の起伏までもが薄れていったように思える。ヤマアラシのような針を身に付け、他人を避けるようになった僕は、誰の目から見ても近寄りがたい人間になってしまった。そう言えば、半年前に恭子と顔を合わせた時、僕からは黒いオーラが出ていると言われたことがある。笑顔で冗談めかして言われたが、あながち嘘ではないなとその時は思った。僕は無意識の内に、他人を遠ざける黒い空気を身に纏っているのだ。
家に帰って眠りに就く時も、ベッドに仰向けになってぼんやり天井を見上げながら睡魔に飲まれるまでの間、ずっとそんなことを考えていた。
毎週水曜日は講義の入っていない日だったので、アルバイト先に電話をして午前中から仕事を入れてもらった。まだ昨日の恭子の言葉に始まる煩悶は続いていたが、動いていればその間くらいは忘れることができると思ったのだ。現に仕事中はそれだけに集中できたが、無理矢理仕事を入れてもらったせいか、昼時にはもうやることはないから帰ってもいいと言われた。自分から頼み込んだとはいえ、予想より早く終わったことで解放感が強まったのか、荒川線で帰る途中はこの時期の夏深き青空のように晴れやかな気分だった。
駅前を通って信号前の柱時計の下を通りかかった時、あの老婆の姿が見えた。あの時と同じように、ビニール袋を下に置いてベンチに腰を下ろし、何をするでもなく俯きがちになって呆然と車道に目線を送っていた。
いつにも増して晴れやかな気分だったことも手伝い、ふと話しかけてみようと思い立った。時折僕は、意味もなく見ず知らずの不思議な空気を発している人に話しかけてみたくなることがあるのだ。もしかしたら、自分と同じ空気を持っている可能性を求めているのかもしれないが、実際のところどうなのかは分からない。
「何を見てるんですか?」
老婆の横で立ち止まると、僕はそっと話しかけてみた。ゆっくりとこちらを振り向くと、老婆は覇気の抜けたような目を僕に向けた。
「いやぁ、別に何も」
「はあ」
「歳取ると、時間の流れるのがえらいゆっくりになるのよ。だからこうやって、ぼんやり外を眺めて時間を過ごしてるくらいしかやることがないんだわ」
「はあ、そうですか」
自分の返した言葉からも分かるが、僕は単に、そうなのかとしか思わなかった。その姿勢が今の自分にとって良くないのだと思い、僕はもう少し深く話を聞いてみようと思った。
老婆は独り暮らしで身寄りもなく、年金だけで余生を送っているのだと教えてくれた。足腰は日常生活に支障を来すほど不自由ではないので、毎日行きつけのスーパーで買い物をして、帰り道にはこのベンチに腰を下ろし、特に何を思うでもなくぼんやりと車の往来を眺めているのだった。親しい知人や孫の一人でもいれば他にやることなどはいくらでもあっただろうが、老婆にはそれもなく、毎日独りで同じ生活、同じ行動の繰り返しだった。僕にとっては日々の流れはとても速く感じられるが、老婆にとっては正反対のようだった。そのせいか、近い将来に訪れる死という観念も取り立てて恐れてはいないと言った。
「少なくとも、今の僕には想像することはできても、きっと理解することはできない心境なんでしょうね」
「私と同じくらいの歳になれば分かるよ」
遠い未来の話だ。それに、その歳になってもまだやりたいことがあれば、きっと死を拒絶するのではないだろうか。老婆の話は、この世に未練のない人の心境なのだろう。僕自身、死は別に恐れてはいない。死に伴う肉体的な苦痛は嫌だが、この世を去ること自体に対する未練はこの歳にして、もはや何もないのだ。
老婆と別れると、僕はえび夫の家へ向かった。彼はいつものようにベランダに出て通りを見下ろしていた。勝手知ったるといった所作で錆びついた門を開けて庭に入ると、僕はつい今し方の老婆との話を聞かせた。僕はえび夫がどうして病人のように痩せこけた姿で毎日外にも出ずにベランダに立っているのか、その理由を聞いたことはない。何らかの病気を抱えているのは確かだろうと思い、敢えて何も聞かずにいたのだ。だから彼は、外に出ないのではなく、出られないのだろう。その彼に先程の老婆との話を聞かせたらどんな答えが返ってくるだろう、そう思ってここへやって来たのだ。
彼は黙って僕の話を聞いていたが、終始特別にこれといった感情の変化は見せなかった。
「僕もそんな感じかな」
彼は一言、そう言った、ある意味では僕の予期していた通りの返答だった。彼は何も言わないが、えび夫は死期が近いのではないかと僕は推測していた。
死を実感するのか、達観するのか、まだまだこの先の人生が続くであろう僕には、そんなことは分からない。でも、彼は言う。そんな心境に達すると、あの世とか来世とか、そんなものは存在しないんじゃないか、と。
ただ、終わるだけ。悲観的でも絶望的でもなく、純粋にそう思うのだと言う。
最期には土に還るか、燃やされて骨になり、骨壺に入って墓の下に納められる。どちらの方が良いかと言うと、自分は土に還りたいと彼は言った。
やがて彼は、唐突に妙なことを口にし始めた。
「君は情報に絡め取られながら生活していることに気付いていないかい。……知りたいことはいつでも知ることができる。でも、知る必要もないこと、あるいは知りたくないことも常に君を取り巻いているんだ。それが情報だよ。君に雨の匂いの正体について話したよね。あれもそうさ、知らないままの方が夢のあることだってあるんだよ。あの不思議な匂いが何かは分からないけれど、心をくすぐられる。でも、それがペトリコールなんていう単なる油の匂いだって知って、少しがっかりしただろう?」
だからこの世界を嫌って、フィルターを通してしか物を見ないようにしているのだと彼は言った。
人は悲しいもので、自分に関心がないものは知ろうともしない。多くの通行人にとって、ベランダに立っているえび夫は街中の看板と何も変わりはしなかった。
「他人は自分を映す鏡だよ。その鏡が見えない者は、自分も他人も知ることができない。 エゴイストにだって他人は見えている。その鏡に映る自分の姿を知ってなお、自分を合理化する。それだけの話さ。でも、最初から鏡が見えていない人は、何て悲しい人なんだろうと思う。僕という鏡は常にこのベランダに立っているけれど、誰も覗き込もうとはしなかった。でも、その鏡を覗き込んだ人は君が初めてというわけじゃないんだ」
僕の前に、えび夫に声を掛けてきた人が一人だけいた。最後まで彼は、それが誰であったかを話しはしなかった。結局彼は、他人と接したくてもそれを恐れている人間だったのではないだろうか。彼自身、他人という鏡を覗き込むことを拒絶していた。
……つまり、彼は僕と同じ人間だったのだ。
えび夫の葬儀は、ひっそりと慎ましやかに行われたらしい。彼に死期が迫っていたことを僕は知らなかったので、結局葬儀に参列することはできなかった。死を抱えているのは確かだと憶測していたせいか、あるいは出会って間もないしそれほど親しくもしていなかったせいか、彼の死を知ってもあまり強い衝撃は受けなかった。
不謹慎な話だが、本当に僕が衝撃を受けたのは、せめて線香だけでもあげさせてもらおうと思い、初めて彼の家へ入った時だった。そこには、恭子の姿があったのだ。彼女も僕の姿を見て驚きの表情を見せたので、えび夫は僕に恭子のことを話さなかったように、恭子にも僕のことを話していなかったのだろう。
僕は真新しい仏壇に手を合わせると、彼の両親に会釈して家を出た。息子の死期を覚悟していたのか、二人とも沈んだ表情を浮かべつつも、落ち着きだけは感じられた。
僕と恭子は、並んで歩きながら帰路に着いた。しばらくは会話もなくゆっくりと歩いていたが、曲がり角に差しかかり、夕陽の鮮やかな茜色の光が路上に貼り付いているのを目にした時、不意に彼女は口を開いた。
「もう一人は雪村君だったんだね。びっくりした」
「こっちもびっくりしたよ」
「きっと彼、何の未練もなく死んでいったんだろうな……」
「そうだろうな。未練なんてなさそうだったし」
「彼、言ってた。もう一人の話し相手も自分と同じだ、って」
「同じ?」
「未練がなさそうだ、って。……そうなの?」
えび夫は恭子にそんなことを話していたのか。僕は自分のことについては彼に何も話さなかったが、やはり互いに同じ空気を感じていたのかもしれない。
「未練か……確かにないな」
「雪村君、いつからそう思うようになったの?」
「さあ」
それきり会話は途絶えたが、次の曲がり角に差しかかったとき、再び恭子の方から話しかけてきた。
「海に行かない?」
「海?」
「彼、海に行きたいって言ってなかった?」
僕は、今年は海へ行ったかとえび夫に聞かれたことを思い出した。
「この時期の海でね、凄い景色が見られるんだって言ってた」
「どんな景色?」
「それは教えてくれなかった。だからさ、見に行ってみない?」
あまり気乗りはしなかったが、僕は恭子の誘いに乗ることにした。僕と同じ人間が見たいと言っていた景色がどんなものか、興味がないわけではなかった。
近場に海などなく、恭子に聞くと千葉の前原まで行こうと言う。前原がどこにあるのか知らずに黙ってついていくと、一時間経っても一向に到着する気配もなく、ちょっとした小旅行の気分だった。
二時間以上を掛けてようやく下車した安房鴨川駅で、僕はどうしてこんな所にまで来たのかと半ば腹を立てつつも聞いてみた。帰宅する時間を考えるだけでも気が滅入った。
「彼が子供の頃にね、一度だけ家族でここに海水浴に来たことがあるんだって言ってた」
「もう日の暮れる頃だけど、暗くなったらそんな景色なんて見られないんじゃないか?」
「ううん、夜だって言ってた」
「夜?」
僕はてっきり日没時の海の景色だろうと思っていたのだ。
駅を出てからすぐに、ヤシの木が続く遊歩道を並んで歩き始めた。海水浴を終えて帰路に就く人々の群れに逆行して歩きながら、僕たちは互いに語る言葉も持たず、ただひたすら黙って海を目指した。
砂浜に着くと、まだかなり多くの海水浴客が残っていた。僕たちは並んで立ったまま、ぼんやりと水平線を眺めてみたが、特別珍しい景色などは見られなかった。そのまま日没を迎え、雲の切れ端の散らばる濃紺の空へと移り変わっていった。
恭子は足が疲れたと言ってその場に座り、僕もまだ熱の残る砂の上に腰を下ろした。波のさざめきに耳を澄ませながら、緩やかな時間の流れに身を任せるように水平線の彼方をぼんやりと見つめる。これはこれで美しい景色だ。しかし、えび夫が求めていたのがこんな当たり前の景色だと思うと、僕には不満しか残らなかった。
海水浴客が途絶えても、僕たちは砂浜に座り込んだきり黙って海を眺めていた。ふと恭子の横顔を見ると、表情らしいものもなく、飽きもせずに海を見つめているだけだった。僕がえび夫の求めている景色に興味を示すならともかく、彼女にとってはいったい何の得があるのだろうか。僕は今の彼女のことを何も知らないが、少なくとも僕やえび夫とは違う人間の筈だった。それは観念的なものだが、空気で分かる。だからこそ、僕の発している近寄りがたい雰囲気を察することができるのだろう。
「彼は自分の死期が近いことを知っていたんだと思う」
不意に、彼女は消え入るような声を漏らした。
「でも、雪村君にはまだ先の長い人生がある。それなのに、どうして未練がないなんて言えるの?」
「さあ。ないものはないんだからしょうがないだろう」
「……中学校に入ってから、何かあったの?」
いずれは聞かれるだろうと思っていたが、実際にそう言われてみて初めてうろたえる自分に気付いた。そもそも、進んで他人に話せるようなことではないのだ。むしろ忘れてしまいたいこと……えび夫の言っていた、「情報」なのだ。知りたくないのに知ってしまう、経験したくないのに経験してしまう。それは避けられないことなのだ。
僕は黙ったきり、恭子の問いには答えなかった。彼女も僕の様子を察したのか、気まずいような顔をして僕から目をそらすと、じっと波のさざめきに目を向けたきり黙り込んだ。
僕の中には再び父の幻影が現れ、僕をきつく縛りつけていた。
他人は自分を映す鏡……僕には分からない。しかし、恭子には分かっているのだろう。だからこそ、僕やえび夫とは違う人間のままでいられるのだ。それを思うと、僕はとてもいたたまれない気持ちになり、この場から逃げ出してしまいたくなった。それでも立ち上がらなかったのは、ただの意地だったのかもしれない。
「……帰ろうか」
波打ち際を見つめながら、恭子が呟いた。
「いや、僕はもう少しここにいるよ」
「雪村君」
その場から立ち上がり、恭子は悲哀に満ちた表情を僕に向けた。
「みんな独り、私も。でも、他人は自分を映す鏡だって彼が言ってた。よく聞く言葉だけど、それを忘れてる人はたくさんいる。私も彼に言われるまで忘れてたんだけどね」
「僕も聞いたよ」
「……だったら、思い出してみて」
それだけ言うと、恭子は別れを告げて駅へ向かって歩いていった。
呆然と海を眺めたまま、どれほどの時間が過ぎた頃か。僕は立ち上がり、靴を脱いで押し寄せてくる波に足首から下を浸していた。
哀切の満ちた夜はまだ続くだろうか。それとも、もうすぐ日が昇る頃だろうか。
滑らかな海の水面を煌々と照らす仄明かり。足を洗う波のさざめきに耳を澄ませながら、僕の中の暗い海の底に沈んだ記憶を照らす。決して浮かび上がってくることはないが、確かに記憶の入り口はここにあるのだということをこの光が証明してくれていた。
幼い頃の夏の日、一度だけ父と近所を散歩したことがあった。あの時、父が酒を飲んでいたかどうかは分からない。覚えているのは、急な夕立の直前に感じた雨の匂い。あの時父は、自分の被っていた帽子を僕の頭に被せると、背中に背負って家へ連れ帰ってくれた。これと言って珍しいことではないのに、僕の記憶の一点にあの時の光景が残っていた。
光源に向かって空を見上げる。
見慣れた満月は、いつの間にかうっすらと霞むような輪を纏っていた。
それは、海の底の暗い記憶から僕を守る月の盾のように見えた。
これが彼の、そして僕の求めていた景色だろう。
ムーンシールド 早瀬 @mogetan
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