第2章 期待

第3話 期待Ⅰ

 シャワー室の扉を開け、タオルを手に取った。

 エメラルドの何処へ行こう。先日はエメラルドの王都で苦い経験をしたから、今日は東にあるあの町にしよう。

 何となく街の雰囲気を想像しながら身体を拭いていく。

 今日はカノンに出会えるだろうか。不安と少しの期待が入り混じったまま、タオルをタオルラックに戻した。

 そのまま着替えてみたのだが、ぼんやりしてしまったせいか、間違えて魔導師の衣装を着てしまった。

 これでは二度手間だ。

 エメラルドの衣装はカイルに見付かっては処分されてしまうから、クローゼットではなく、ベッドの下に隠してある。それを引っ張り出し、早速着替えようとしたその時――

 あの慌ただしい足音が聞こえてきたのだ。


「クラウ様!」


 カイルはドアを開け放った途端、その場に崩れ落ちた。

 もしや、エメラルドに行こうとした事がバレてしまっただろうか。


「すみません……。ちょっと、息を、整えさせて下さい……」


 言葉を発するのも辛そうな状態だ。余程急いでこの部屋に来たのだろう。

 カイルが俯いているうちに、エメラルドの衣装をベッドと布団の間に隠した。


「どうしたのさ、そんなに慌てて」


 きっと「どうしたのではありません!」と怒られるだろうと思っていた。

 しかし、カイルは何も言わない。

 ひと時の間、嫌な空気が流れる。


「緊急事態が……発生しまして……」


「緊急事態?」


 聞くと、カイルはコクリと頷く。


「まさか……百年前に起きたような事?」


 百年前と言えば、誰もが知っている『スティアの大災害』が起きた年だ。

 嫌な予感が脳裏を掠めるが、カイルは首を横に振る。


「じゃあ、何?」


 座り込んだまま、カイルは生唾を飲み込んだ。


「地の魔導師様が……現れました」


 瞬間、カノンの笑顔が思い起こされる。

 自然と涙が零れ落ちていた。


「えっ……?」


 口が中途半端に開く。


「その子は……カノン?」


「恐らく、そうでしょう」


 やっと、やっと君に逢える。

 上手く言葉が出てきてくれない。震えそうな心に、身体まで震え始める。


「カノン……」


 遂に腰が抜けてしまった。

 尻を打ち付けても痛みが分からない。頭がぼんやりする。


「それが、何でも異世界からいらしたそうで……。直ぐにお会いするのは難しいかと……」


「異世界……?」


 どおりでエメラルド中を探しても見付からない筈だ。まさか、異世界で転生するとは思ってもみなかった。

 カイルはようやく立ち上がり、俺の前まで来ると、目線を合わせるように座り込んだ。


「良かったですね、クラウ様」


 良かった。本当に良かった。

 段々と感情が戻ってくる。

 高鳴る鼓動と感動の涙は止める事が出来ない。

 声を上げて泣き始めた俺の肩をカイルはずっと撫でていた。


 カノンの生まれ変わりが現れても、会議が早まる事は無かった。

 食べ物が喉が通らず、眠れない日々が続く。

 そして、会議がいよいよ明日と迫った深夜、ベッドの中で一人考えを巡らせていた。

 君は一体どんな姿なのだろう。焦茶の長い髪に、大きな丸い緑色の瞳――いや、まだ緑色にはなっていないか。小さな鼻に、薔薇色の小さな口、どちらかと言うと、美人と言うより可愛らしい顔立ちだ。

 妄想は膨らんでいく。

 声はどうだろう。低いのだろうか、高いのだろうか。高い方が良いな、と思いながら、思考は百年前へと移っていた。

 窓辺に立つ君の姿はまるで天使のようだった。

 駄目だ、このままでは本当に眠れなくなってしまう。

 布団を頭までかぶり、一度思考を停止させた。

 それなのに。


“『地』の子、どんな顔してるのかな”


 リエルは大き過ぎる独り言を呟く。


“やっぱり、カノンに似てるのかな”


「リエル、眠れなくなるからストップ」


“あっ、ごめん”


 「ふぅ……」と大きな息を吐き出し、今度こそ眠ろうとを瞼を閉じた。


――――――――


 何だか頭が痛い。睡眠不足が続いたからだろうか。

 「んー……」と唸りながら瞼を開けた。白い天蓋に白い天井――いつもの景色だ。


「今、何時……?」


 瞼を擦りながら、木製の壁掛け時計を確認してみる。

 丁度七時だ。


「カイル……早く来てくれないかな……」


 兎に角、鎮痛剤を飲んで頭痛を抑えたい。


「カイルー……」


 呼んでみるものの、声が小さすぎて届きはしないだろう。

 三十分程、溜め息を吐きながら、ベッドの中で唸り声を上げていただろうか。

 ようやく部屋の外からカイルの足音が聞こえてきた。


「クラウ様、おはようございます!」


 その大きな声が頭に響く。


「カイル、声大きい」


「どうされたんですか?」


「頭、痛い……」


 掛け布団を掴み、何とか痛みに耐える。

 すると、カイルは部屋から出ていったのか、物音は一切聞こえなくなった。

 数分後に再び足音がすると、視界に青い短髪が映った。


「鎮痛剤をお持ちしました。飲んでください」


「うん……」


 布団を剥がし、上半身を起こしてみる。

 カイルが錠剤を二粒渡してきたので素直に受け取った。そのままコップの水で飲み込む。

 一息つくと、カイルは俺の額に手を当てた。


「お熱は無いみたいですね」


 やはり、寝不足が祟ったのだろう。


「カイル、今日の予定は?」


「十時から会議があります」


 十時まではあと二時間半、と言ったところだろうか。

 それまでに頭痛が治まってくれることを願う。


「会議、遅らせてもらえるように頼みましょうか?」


「ううん、大丈夫」


 頭痛くらいで会議を遅らせてたまるものか。今日は待望の『地』の子に逢えるのだから。

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