第26話

 九月一日。夏休み明けの登校初日。直は、ポニーテールを高めに結って気合がはいっている。朝はリスニング対策の英語を聴くのがルーティンになった。

 校門の前で立ちどまって深呼吸する。スマートフォンを手にとった。英語ニュースからテイラー・スウィフトの『アンチ・ヒーロー』にきりかえる。それから、闘いに出向く戦士のような足取りで、歩をふみだしていく。


 階段をあがると、通路にかの男子達がたむろしていた。彼らを横切る際にちょっと見する。 

 ——あ。今なんかいわれた。 

 ……と、思ったが止まらずに知らん顔で通りすぎた。

 

 朝のホームルームが開始するまで、英語の参考書をひらいてイヤホンで音楽を聴きつづけた。そうやって自分で自分を周りから遠ざけた。

 真が一方的に制作したプレイリストは、英国ロックの名盤とアメリカンポップスのヒットソングがごた混ぜになっている。エド・シーランの『キャッスル・オン・ザ・ヒル』が流れてくると、夏休みの思い出が走馬灯のようにうかんだ。 

 とそのとき、前方のドアから美結と優香が入ってきた。三人は、ほんの一瞬その重苦しい空気を共有して皆それぞれ視線を散らした。



 始業式は、しんどいものである。音楽を聴くことも、参考書を手にすることも許されない。軍隊のように整列して、左右前後を人間に包囲される感覚が、直は苦手である。あまつさえ校長の話は冗長がすぎる。滑舌が悪くて、お経でもあげてんのかよ、といいたくなる。 

 最後に、新任の教員の紹介で終わった。養護教諭は産休に入ったので新しい女性が着任したようである。直は、プールに水没した一件を回顧する。前任の石井先生は優しかった。 


 初日は短縮日課で昼過ぎに下校だ。直は、駅前で真と待ち合わせていた。彼女を見るなり、彼は「辛気臭い顔してる」と軽く口角をあげた。

 真のマンションでお昼ご飯を食べることになり、直はキッチンを借りてオムライス二人前を料理しようとした。

 はじめ、真横で見物していた真が「自分もやってみたい」といいだしたので直はおどろいた。 

 真が作った完成型は一般的なぼうすい型ではなく、チキンライスの上に卵が乗った状態。雑な見た目に比して、絶品だったので微笑すると、「やっと笑ったね」と彼は目を細めた。

 久しぶりの学校に疲れたことは、黙っておいたが、真には見抜かれていた。 

 昼食のあと、本来の目的である勉強を開始。直は模試を三日後に控えていた。


 

 * 



 模試を受け終えた翌週の月曜日。

 午後の授業は英語で、長文を和訳して問題に答えるものだった。

 約七百字程度の英文を読み、直は解答用紙に記入した。解答用紙には横線や括弧など記号が書きこまれてあった。

 ——よし。と机上にシャーペンを置く。あとは教師の合図を待つのみである。 

 ぼうっとしていると、教壇に立つ女性教員と視線がぶつかった。彼女は眉をよせて、直に目をつけた。すぐに、さりげないそぶりでやってくると、直の席を通り過ぎるふりをして背後からひそかに解答用紙を見下ろした。  


 下校時間になったので、リュックに教科書をしまい教室を出ようとした。その時、「日向さんちょっといい?」と担任に呼びとめられた。


・・・


 担任につれられてきた先は、保健室だった。

「失礼します」

 直は、おずおずとした口調で小さく挨拶する。入室すると思わず目を走らせた。カウンセラーの田中と新人の養護教諭の山崎がいるではないか。

「ここ、座って」 

 担任の伊藤がテーブルの椅子をひく。部屋の中央に位置する机に、四人は勢ぞろいで腰かけた。が、どうにも直にはこの状況が三対一で、よくないことが起こりそうに思えてならなかった。

「あの、なんですか。私は、どうして呼びだされたんですか?」 

 直の質問に伊藤がこたえる。


「日向さん、夏休みまえのホームルームで性について話したことを覚えてる?」 


 ——は? と、むちに打たれた気分の直は混乱した。彼女が「はい」と首をたてにうなずいたのを確認して、伊藤は続けた。


「じつは、あれからね。学年の一部の男子達が性についてわるふざけしたことをいってるようなの。それも女子にむかってよ。あとネットでもうちの学校の生徒が問題発言してるって情報がまわってきてね」 


 だからなんなの。それがどうかしたの。といいたいところを直はこらえた。次に口出ししたのはカウンセラーの田中だ。


「男の子だけじゃない、女の子たちもよ」と意味深な発言に、どういうことですか? と直は訊ねる。


「『キスや性行為したくない』それが理由で恋人と仲がわるくなったり、彼から暴力をふるわれそうになったって相談にきた子もいるのよ……」

「すみません。だからどうしたんですか。なんで私にそんなことをいうんですか?」 


 きっぱりとした口調で返した直は、胸騒ぎが止まらない。すると黙していた養護教諭の山崎がついに口を開いた。


「日向さん、性的なことをしたくないんですってね。『無性愛者』って自分でいってるそうじゃない」

「はい。そうです」 

「日向さんは、無性愛者だと自認するには早すぎると思うの。どこでそんな言葉を知ったのかしら?」

「それくらい、ネットで検索したらわかることじゃないですか」

「いいえ。誰かに教えてもらったんでしょう?」

「そうだったら。なにか問題でもあるんでしょうか」

「私は、看過できない。無性愛について日向さんに教えた大人には、絶対賛成できないわ」

「……どうしてですか?」

「性的欲求が発育する時期に、無性愛の存在を教えるのは自我の形成に悪影響、かつ性欲の発達のさまたげになります」

「性欲の発達? いいえ。十八なら、セクシュアリティやオリエンテーションを自認するには充分です」 


 そこでカウンセラーの田中が口を挟んだ。

「ねぇ、日向さん。その教えてもらったって相手の人から、無理やり体を触られたりしなかった? ささいなことでいいから。心配事があったらきかせてちょうだい」

「はぁ!?」と直は呆れて顔をゆがませた。とどのつまり、伊藤が「日向さん。あなた、一学期の終業式に男の人にバイクで連れていかれたそうね。どこへいったの?」と迫ってきた。


 自分は一体なんのためにここに呼び出されたのだろう。と直は、必死に頭の中を整理しようとするが、三者に萎縮させられてかたまった。

 

 ——美結?


 友人の顔がふっと浮かんだ。


 おそらく、終業式のことを話したのは美結である。彼女がどれほど事態を誇張して伝えたのかは定かでない。幸いにも、真の素性はバレていない。美結も元教育自習生だと気がついていなかったのだろう。そして、養護教諭・山崎の敵意に身の危険を感じる。早くこの場から逃げなければと直感した。その上、田中については、忌避きひ感が一層増した。この人は、カウンセラーにむいていない。ほかの学生の相談を開示するのは守秘義務に反するし、『きかせてちょうだい』という時の顔は非常に無理強いをせまるもので、『話なさい』といっているみたいだ。


「ちょっと聞いてるの日向さん、大丈夫?」 


 担任の声に、意識が呼び戻された。直は黙ったまま、手の平を握りしめる。


「私は、自分の意志で無性愛について学びました。確かに、みんなにカミングアウトしたけど、無性愛をまわりに勧めたりしてない。私がどんな悪いことをしたっていうんですか。……どうしてそんなに異質なことのようにいわれるのかわかりません」 

 

 担任の伊藤は、親切な口調で直を説きふせた。

「あなたの考えはわかりました。教育する立場として、私たちは一応いっておくべきことを伝えたまでなのよ。どう生きるかは日向さんに決める権利があるし。でもきょうここで話したことは、忘れないで。自分が正しいって過信するのは危険よ。いいわね?」 

 

 いいえ、わかりません。はっきりそういい返したかったが、直は思いを顕示せずに保健室をでた。

 いやおうなしに教誨きょうかいじみた話を聞かされて、直はくたびれ顔になった。とぼとぼ廊下を歩いていると、またも別の教師に呼びとめられた。

 今度は、きょう午後に授業した英語教師。


「日向さん、さっきの答案用紙なんだけどね。採点しおわって」と近づいてきた。

「……な、なんですか」

「すごいわ。ほとんどパーフェクト。解答に時間もかかっていなかったし、夏休みにがんばったのね」 

 そして最後に「この調子でファイト! ファイト!」と拳を見せて去っていく。

 なぜだかわからなかったが、直は胸が苦しくなって泣きたくなった。ほめられたのに嬉しい気持ちが込み上げてこない。喜びとは少しちがう感覚だった。


 スマートフォンを取りだしてメッセージを打つ。相手は、真だった。

(話がしたい。次、いつ会える?) 

 しばらくすると、(明日)と返事がきた。

 

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