第6章 火

第17話 火Ⅰ

 昼下がりに自室の窓を開け放つ。眼下には草原が広がり、爽やかな風のせいで海のように波打っている。所々に白い点のように見えるのは花だろうか。

 手にしたフルートを構え、すうっと息を吸い込んだ。

 ドーレーミーファーソー――基礎であるロングトーン練習を始めた。バルコニーの柵に留まっていた小鳥が歌い始め、いつもはなんとなくだった基礎練習が楽しくなってきた。

 ぷはあっと息を吸い込み、一旦休憩する。


「何ていう鳥だろう。可愛い」


 雪を思わせる白い身体に、夜を思わせる黒色の尻尾――そっと右手の人差し指を小鳥に近付けると、怖がられてしまったのか、飛び立っていってしまった。

 今度こそ一人になってしまった。気持ちを切り替えて、音階練習でもしよう。

 何回かパラパラとフルートのキーを押し、頭部管を口に付ける。


「ミユ」


「ひゃっ!」


 急な呼びかけに、反射的に驚いてしまった。

 声のしたドアのほうを顧みると、ショックを受けたような表情のクラウが佇んでいた。


「どうしたの?」


 そういえば、クラウがたった一人でこの部屋を訪ねてくるのは初めてかもしれない。小首を傾げ、様子を窺う。


「部屋に居たらさ、笛の音が聞こえてきたから。体調はもう良くなった?」


「うん。頭痛も無くなったよ」


「良かった」


 本当に安心したように、クラウはにっこりと笑う。

 それにしても、何をしにやってきたのだろう。何かをする約束もしていないし、

これから何かをしようという意思も感じ取れない。

 更に小首を傾げる。


「ん?」


 私に対してだろうか。クラウは不思議そうに首を傾げた。


「何しに来たの?」


「えっ? うーん……」


 何故か、クラウは考え事を始めてしまった。頭を掻きながら、若干眉毛を顰める。


「ミユの顔が見たくなったから。それじゃ、ダメかな」


「へっ!?」


 これはまるで、恋人に言っているような台詞ではないか。

 落としそうになった楽器を持ち直し、そっとテーブルの上に避難させる。


「私、喉乾いちゃった。会議室にジュースあるかなぁ」


「えっ? うん、あると思うよ。アレクとフレアもそこに居るかもしれなけど」


「私、行ってくるね~」


「えっ? お、俺も行くよ」


 男の人と二人きりになるのが気まずい。何かをされた事がある訳でもないのに、何だか気恥ずかしい。

 クラウを置いて足早に廊下へ出る。顔が沸騰したかのように熱い。

 幸い、会議室へ到着するまでに話しかけられる事は無かったから、あまり意識せずに済んだ。

 会議室の扉を開けると、アレクとフレアはいつもの席で紅茶を嗜んでいたようだ。お茶の香りが部屋を満たしている。

 ティーカップを持ったまま、二人は顔を此方に向ける。


「オマエら、どーしたんだ?」


「私、ジュース飲みたくなっちゃって」


 答えると、アレクとフレアは小さく笑う。


「何味が良い?」


「う~ん……オレンジ!」


「分かった、持ってくるね。座って待ってて」


 礼を言う前にフレアは立ち上がり、颯爽と部屋を出て行ってしまった。右手だけがフレアの先を追ったものの、届く事は無かった。

 扉が閉じた音と共に手を引っ込める。


「ミユ、体調はどーだ?」


「今日は大丈夫だよ。頭も痛くないし」


「そーか」


 テーブルの方へ目を移すと、丁度クラウが椅子に腰掛けようとしている所だった。何だか表情が沈んでいるように見える。

 私の対応が拙かっただろうか。ああいう時、どうすれば良かったのだろう。

 心の中で唸り声を上げ、気持ちが晴れないままクラウの隣に腰を落ち着けた。

 謝るのは違うと思う。意見を聞くのも絶対に違う。

 考えあぐねていると、クラウが口を開いた。


「あのさ、火の塔に行くのは予定通り三日後?」


「あ? あぁ、そのつもりだ」


「そっか」


 アレクが頷いてみせると、クラウは「うーん……」と唸り声を上げる。


「どうかしたのか?」


「ううん、なんでもない」


 笑顔を見せる訳でもなく、クラウはただ首を横に振る。

 私は何が何だか分からず、小首を傾げるばかりだ。


「お待たせ」


 その声にはっと顔を上げる。

 いつの間に戻ってきたのだろう。フレアがオレンジ色の液体の入ったグラスを目の前に置いてくれた。


「クラウもオレンジジュースで良い?」


「うん、ありがとう」


 また礼を言いそびれてしまった。口を噤んだまま、フレアが席に着くのを見届ける。


「何の話してたの?」


「いや、三日後に火の塔に行くぞって話くらいだ」


「そう……」


 聞くと、フレアは憂鬱そうに窓の外を見る。


「今は、外はコスモスでも咲いてるのかな」


「えっ?」


「ほら、ダイヤは秋だから」


 ダイヤ『は』という事は、他の場所に季節はないのだろうか。

 頭に、はてなマークばかりが浮かぶ。


「エメラルドは? 秋じゃないの?」


「エメラルドは春の大陸だから。あたしの故郷のガーネットは夏だし」


「トパーズは秋だな」


「サファイアは冬」


 地球とのあまりの違いに、「ほえ~……」と声が漏れる。


「気候も違うし、咲いてる花も違うし」


「っていうか、サファイアは花は基本咲かないよ。寒すぎるから」


「オレはコスモスとか、ダリアとか、サルビアとか咲いてるとこなら見たことあるな」


「アレクって意外と花の名前知ってるんだね」


 フレアがふふっと笑うと、アレクは頭を掻いてみせる。

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