第十一場 漱石先生、今まさに死せんとする

寺田が駆けつける。遠くで何かを踏み外したような音。



寺田   先生!夏目先生!おい岩波さん電話!お医者を!お医者を呼んできてくれ!


岩波   (声)だめでーす!


寺田   なに言ってるんだ、早く先生を!


岩波   (顔を出して)慌てて、かわやに落ちましたー!


寺田   バカー!



寺田、顔をしかめて医師を呼びに立ち去る



鏡子   あなた、あなた!しっかりしてくださいあなた!


漱石   (うわごと)正岡……


鏡子   えっ?


漱石   正岡、ふざけるなよ……なにが「どちらか一つしか選べん」だバカヤロウ


鏡子   あなた、正岡さんなんていません、目を覚ましてください!


漱石   おれはどっちも選ばないぞ。なに、ちゃんと元気になって「明暗」を書ききってやるさ……


鏡子   あなた!



医師、寺田、岩波が駆けつける。岩波はズボンを脱いでワイシャツにサルマタ一丁という姿。



鏡子   先生!


医師   むう、いかんな(注射の準備)


岩波   先生!


寺田   先生!


漱石   (虚空に向かって)俺は絶対元気になってやる。そうしたら、また好きなもんを好きなだけ食ってやるんだ……お前とは良く食ったなあ、松山で蜜柑を二人して食べ比べしたり……アイスクリームを大食いしたり、ああ、お前に騙されて鰻丼をおごらされた事もあったっけ……はは、なんだかお前との思い出はいつも何か食ってばかりだな……俺は食うぞ、たらふく食ってやる。煉瓦亭のポークカツレツ、木村屋のアンパン、玉ひでの軍鶏しゃも鍋に重盛の人形焼……


鏡子   あなた、こんな時になってまでいじきたない


漱石   鏡子と行くんだ……


鏡子   えっ?


漱石   鏡子と……一緒に……行くんだ、正岡、お前とじゃないぞ、鏡子と二人で行くんだ……今までの分……ずっとしていた分、一度でも一緒にどこかへ連れてってやればと思っていた分、一度だけでも亭主らしいことをしたやりたかった、「ありがとう」って言いたかった。だから、だから……


鏡子   そんな……ずるい……ずるいです、あなた……


医師   奥さん……


鏡子   だってそうでしょう!今までさんざんっぱら好き放題してきたのに、最後の最後になって「いい人」で終わろうだなんて、ずるいじゃないですか……それじゃあ、それじゃあ私は最後まであなたを嫌いになれないじゃない!


医師   奥さん……


鏡子   しっかりしてください、またいつものように憎まれ口を叩いてください、生きてください、あなた!


漱石   水を、水をここにかけてくれ…死ぬといけないから……


鏡子   あなた!


漱石   あと……(いやにはっきりした口調で)何か食わせてくれ



漱石、死す。享年四十九歳。一同、なんとも言えない微妙な雰囲気。



医師   (脈を取り)えーっと、ご臨終、です……



一同、なんとも言えない微妙な沈黙。



鏡子   「何か食わせてくれ」って……「何か食わせてくれ」って……なんですか!それじゃあ私が夫に何も食わせてない鬼嫁みたいじゃありませんか!あなたでしょう、だったらちょっとは文豪らしい事言って死んでくださいましよ!なんですか「何か食わせてくれ」って!



鏡子、悲しんでるんだか怒ってるんだか悔しいんだか可笑しいんだかもうわけのわからない心境になっている。



寺田   い、いやあ、僕は中々に先生らしい、哲学的というか、含蓄がんちくのあるお言葉だったかと……(岩波に)ねえ?


岩波   た、確かに!りし日の明治という時代の終焉とともに没した先生の偉大な足跡を表したかのような……(医師に)ねえ?


医師   いやあダメでしょこのセリフは



岩波、寺田二人してツっこむ。鏡子、あきれたようにくすくすと笑いだし、



鏡子   もう……



鏡子、漱石の死顔に近づき、



鏡子   あなた、ねえ、まだ聞こえています?あなた、ありがとう……ありがとう……ありがとう……



鏡子、漱石に「ありがとう」とささやき続ける。一同、神妙な面持ちで居住まいを正す。鏡子、いつまでも漱石に「ありがとう」とささやき続けている。


舞台、静かに暗転していく。


             

                       胃痛胸やけ、夏目漱石   幕



上演記録


2014年4月18日〜20日

演劇ユニット「5M1W」旗揚げ公演

東京都 ART THEATER上野小劇場


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ライト戯曲・胃痛胸焼け、夏目漱石 南 群星 @minamigunsei

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