第三場 漱石先生、なおも「明暗」を執筆せんとす
明転。漱石、寺田、岩波が車座になって向かい合っている。
漱石 (豆をほおばりながら)第一次作戦は失敗だ
寺田 作戦だったんですかあれ
漱石 うるさい、次だ次、何かいい作戦はないかね
寺田 うーん、奥様を三越に買い物に行かせてその間に書くとか
漱石 毎日三越に行かせるわけにもいかんだろう
寺田 じゃあ浅草十二階に観光に行かせて
漱石 それも同じだ
寺田 じゃあ帝劇に
漱石 それ君が行きたいだけだろ
寺田 わかりました、先生が執筆してる間僕が見張ってますから、奥様が来られた時にサインを送ります。こうやって(変なゼスチャー)
漱石 よしやってみよう
二人してしばらくサインの練習。
漱石 (息を切らせて)疲れるからこれはやめよう
寺田 (息を切らせて)そうですね
岩波 あのー
漱石 岩波くん、意見があるときは挙手したまえ
岩波 はい、先生(挙手)
漱石 はい岩波くん
岩波 先生が口述してそれを誰かが書き写すというのはどうでしょうか?
漱石 ……
寺田 ……
岩波 ……?
漱石 岩波くん
岩波 はい!
漱石 君ねえ、普通の事言ってどうする普通の事言って
岩波 はあ?
漱石 それでもお笑い芸人かね君は
岩波 え?え!?
漱石 いいから君もなにか一発やりなさい
岩波 ええ!?
岩波、無茶振りをされてなにか一発芸をさせられる
岩波 ど、どうでしょう先生
漱石 うん、君にはお笑いの才能はないな
岩波 ひ、ひどい
寺田 先生、こういうのはどうでしょう、奥様の前で僕がいちいち先生のお言葉に英語で受け答えして、そのたびに先生が「欧米か」って突っ込むんです
漱石 わははそりゃ面白い、今度やってみよう
岩波 もはや当初の目的がなんだったかもわからない
漱石 そうだ寺田くん、この洗面器を鴨居に仕掛けて、ふすまが開いたらアイツの頭に落ちるようにしよう。アイツ驚くぞ
岩波 先生、もう「どうやって原稿を書くか」じゃなくて「どうやって奥様をギャフンと言わせるか」に目的がシフトしてます!
漱石 細かいことを気にするやつだな君は
岩波 ありがとうございます!
漱石 褒めてないよ!いいんだよ、とにかくアイツの鼻の穴を開かせてどっちがこの家の亭主かわからせてやるんだ。さあやろう寺田くん
寺田 合点承知のすけです
寺田、洗面器を持っていこうとするがなぜか洗面器をじっと見たまま動かない。やがて洗面器をゆすったりなでたりしながら
寺田 (洗面器をじっと見て)面白い、実に面白い。先生ほらこれ、洗面器のお湯を波立たせるとまるで楽器のような音色を響かせます。ふむ、これはきっと洗面器と盆との間に生じた凹凸のために、お湯を動揺させるといわゆる「傾斜運動」を起こすわけですが、こちらのコップの方は動かないから両者の間に周期的な摩擦運動が起こり、まるでグラドニ板を弓で弾いた時のような振幅現象を見せるんですな。それが空気間を伝わり、音響となって我々の耳に届くわけです。なるほど実に面白い(ブツブツ)
寺田、ブツブツ独り言しながら去る。
漱石 こんな時まで物理法則の研究をしてやがる。熱心というか物理オタクというか。さて後はどうしてやろう
漱石、考え事に夢中になるあまり、煎り豆をぼりぼりと食べ続けている。
岩波 先生、夏目先生
漱石 ん、なんだ?
岩波 その、大丈夫ですか、そんなに召し上がって
漱石 これか?なに構いやせん、こいつをぼりぼりやっている方が頭の働きが良くなるのだ
岩波 しかしそんなに食べたらまた奥様に……
漱石 なにい?(ムキになって)女房が何だというのだ、大体いい年した男が女の顔色伺ってどうする。そんなだから近頃の若いもんは女どもにつけあがられるんだ
岩波 すみません。しかしこれからは男も女性の権利を尊重して対等な立場として女性の意見にも耳を傾けて行く時代だと思います。と娘が言ってました
漱石 なんだね、君は俺が古い人間だと言いたいのか
岩波 はい。いえ!決してそのような意味では……
漱石 言いたい事はわかる、俺だって最近の女性の社会進出についてどうこう言うつもりはないよ。だがねえ、平塚らいてうや「
岩波 はあ
漱石 主義主張はご立派だが、女が男のまねして料亭で芸者遊びをしたりするようなことが「女性の権利」ではなかろう。男には男の、女には女の役割というものがあるんだ。そこ踏み外しちゃあいけないよ!そうだろう、君!?
岩波 せ、先生?
漱石 それをなんだ!近頃じゃ亭主の言う事にいちいち口答えしやがる、こうして人並みの生活ができるのも俺が汗水流して働いてるからこそだって事をちっともわかっとらん!だいたい、だいたい……(呻きだす)
岩波 先生!?
漱石、口を押さえて退出、袖から激しく嘔吐する声。
岩波 先生、大丈夫ですか!?
漱石 (フラフラとしながら戻ってきて)ふう……おい岩波くん
岩波 はい!
漱石 何か食うもんないか?
岩波 はあ?
暗転。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます