ライト戯曲・胃痛胸焼け、夏目漱石

南 群星

第一場 漱石先生、「明暗」を執筆する

登場人物       


夏目漱石(49)   

夏目鏡子(39)

寺田寅彦(38)

岩波茂雄(35)

医師(40)

男(?)



時と場所


大正五年(1916年)十二月、東京、夏目漱石邸




幕開く。大正五年(1916年)十二月、東京にある夏目漱石邸。畳敷きの簡素な部屋に布団が一式敷かれている。下手奥に文机、壁には日本画らしき絵が一幅かけられている。暗転の中、枕もとの小灯りだけが薄くともっている。

布団の中で隠れるように何かをせっせと書き続けている男はかの文豪夏目漱石。胃潰瘍と糖尿病、加えてリューマチが悪化して病床から離れられないでいる。彼が今書いているのは、朝日新聞に連載中の小説「明暗」である。



漱石   「二人の間に何度も繰り返された過去の光景シーンが、ありありと津田の前に浮き上った……その時分の清子は……」清子は……うーん「津田という男を」……いや「津田と名のつく一人の男を信じていた」だな。「だからすべての知識を彼から仰いだ」(推敲して)よしよし、さて……


鏡子   (声のみ)あなた



漱石、声を聞いてあわてて布団にもぐる。漱石の妻、鏡子が入ってきて明かりをつける。明かりがつくと漱石は尻を天に突き上げた格好でうつ伏せになっているのが露わになる。足元には点滴の架台が立っていて、チューブは漱石の肛門につながっている模様。ただし結合部は小さな衝立ついたてによって客席からは見えない。残念。鏡子は上背のある、背筋のピンと張った意志の強そうな美人である。鏡子、漱石の枕元を見て



鏡子   まあ、また隠れて原稿を書いてらしたのね。点滴中は安静にしていろとあれほど先生にきつく言われたじゃありませんか


漱石   仕方ないだろう、こいつは新聞連載なんだから〆切は毎日やってくる。毎日書かねばの食い上げだ


鏡子   そりゃあそうですけど、あまり根をつめられては治るものも治りませんよ。いま玄関に……(ふと気づいて)あなた……また隠してらっしゃいますね?


漱石   何のことだ


鏡子   とぼけないでください、布団の中



漱石   何を言ってるんだ、布団の中がどうしたというんだ



鏡子、漱石の布団を引っぺがそうとする。漱石必死に抵抗する。



鏡子   あ、ボインのねーちゃんがトップレスで歩いてる


漱石   え!どこどこ!?


鏡子   えいっ(布団をひっぺがして)やっぱり


漱石   ああー!!ひ、ひきょうもの~!


鏡子   あきれた、またいつの間にそんなに買い込んで


漱石   (開き直って堂々と布団の中に隠していた煎り豆をポリポリとかじりながら)こいつはな、お菓子じゃない、薬なんだ。いいか、豆をかじると口の中の口咬筋こうこうきんが刺激される、口咬筋が刺激されると脳が活性化して頭の働きが活発になるんだ。これは俺が小説を書くために必要不可欠な、大事な薬なんだ


鏡子   何を言ってるんですか、胃潰瘍で何も消化できないからこうしてカテーテルで栄養を摂っているというのに。それでまた後でゲーゲー吐いて後始末させられるのは私なんですからね


漱石   なんだ亭主に向かってその口のきき方は


鏡子   あらそれは悪うござんしたわね、じゃあお好きなだけ召し上がってゲーゲー吐いてご自分でお掃除なさればいいんだわ


漱石   なんだと!



険悪な空気の中、空気を読まずに痩身長躯の男が入ってくる。寺田寅彦、日本が誇る近代物理学の権威であり、かつ漱石門下の文人でもある。



寺田   夏目先生、おかげんはどうで……(二人の様子を見て)はっ、こ、これは失礼しました!!


漱石   おい待て寺田くん、君いま何を勘違いした!?


寺田   いえいえ、夏目先生におかれましてはこのようなご趣味がおありだったとはついぞ存じ上げませんでしたが、いや人には人の、嗜好しこうというか性癖というものがありまして、いや僕は決してその様な事で先生に対する尊敬の念が失われるようなことは決して……


漱石   何を言ってるんだ君は!?これは「直腸カテーテル」というやつだ!


寺田   は?


漱石   ほら、俺は胃を悪くしてるだろう、食いもんがろくに消化できずにいるからこうして腸の粘膜から直接栄養を補給しているのだ


寺田   なんだびっくりした、てっきり僕は先生が猟奇的趣味に走られたのかと思いました


漱石   アホか


寺田   仲間だと思ったのに


漱石   やってるんかい


寺田   てへぺろ(・ω<)


漱石   なんだ「てへぺろ」ってのは。お前も寺田くんが来ているならなんで早く言わないんだバカモン


鏡子   それをお伝えしに来たのにあなたがギャーギャーわめき散らすから言いそびれてしまったんです


漱石   いちいち口答えをするな!


鏡子   はいはい、もう少ししたら病院から先生が往診に見られますからね。あとこれはボッシュートです。でれっでっででーん♫


漱石   ああ、おれの豆!



鏡子、豆と原稿を取り上げる。漱石、豆を取り返したいが動けない。



鏡子   安静にしていてくださいね



鏡子、豆をポリポリ食べながら去る。



漱石   ぐぬぬ


寺田   ははは、相も変わらずの女傑ですなあ


漱石   何が女傑だ、単に育ちが悪いだけだまったく。で、今日はどうしたんだい、生憎あいにくこんな調子なもんだからロクな相手もしてやれなくて悪いが


寺田   いえ、大学の講義の帰りに神保町の岩波さんのところに寄ったら彼が是非にとも先生にご挨拶したいというので


漱石   なんだ岩波くんも来てるのか。岩波くんはどうしたんだ


寺田   それが「自分ごときが尊敬する夏目漱石先生のお部屋に同席するなどおこがましい」とかなんとか言って玄関先から入ってこないんですよ


漱石   なんだいそりゃ、俺はそんな大層な人間じゃないよ、いいから上がってもらいなさい


寺田   ほら、先生もああおっしゃられてることだし、早くお上がりなさいな


岩波   はいっ、失礼します!



玄関先から男が平伏したままずずずずーっと入ってくる。岩波茂雄、当時はまだしがない古本屋の店主である。



岩波   ごごごご無沙汰しております、岩波茂雄でございます。先年は弊社より先生のご著作である「こゝろ」を出版させていただき、まことに、まこっとに恐悦至極の次第にございます!


漱石   おいおいおよしなさいよそんな大仰おおぎょう


岩波   いえ!先生の「こゝろ」を出版させていただいた事で、ようやく我が「岩波書店」も出版社としての体裁を整えることができました。夏目先生はわが社の恩人、恩人、大恩人でございます!


漱石   わかったわかった、それはいいからさ、二人ともこちらに回っておくれよ


二人   いえ!先生より上座に座るなど恐れ多いです!



二人、漱石の足元に座したまま近づかない。いきおい、二人して漱石のむき出しの尻を眺める格好になる。二人、漱石の尻に向かって神妙な態度。



寺田   どうだい岩波さん、やっぱり夏目漱石先生ともなるとアレだね、尻の穴からして凡人とは違うねえ


岩波   はい!まったく神々しく正に「文豪」という感じの見事な菊門でございます!


漱石   やめろおお!ケツの穴に文豪もへったくれもあるかあ!いいからさっさと頭のほうに回りやがれ!


二人   はーい(二人して枕元の方に回る)


漱石   で、用件はそれだけかい


岩波   は、実は先生に折り入ってお願いしたい儀がございまして。厚かましいとは思いますが、先生が今「朝日新聞」に連載されている「明暗」の単行本を、ぜひ我が岩波書店から出させていただきたいのです


漱石   そりゃあまた随分と気ぜわしい話だなあ、「明暗」はまだ半分も書きあがってないんですよ


岩波   もちろん!今日明日にでもという話ではございません。ただ、「明暗」がめでたくご完結された折には、ぜひとも弊社で刊行させていただきたいのです。「明暗」こそは先生の最高傑作となるであろうことは疑いようもありません、それを発刊できるとなればわが社にとっても大いなる金字塔となることは必定、やがては「夏目漱石全集」を出すことが、この岩波茂雄の人生最大の願いなのです!先生、どうかお願いします!(土下座)


漱石   わかったわかった、考えておくから頭を上げたまえ


岩波   お願いします!(土下寝)


漱石   頼む気あんのかコラ


岩波   失礼いたしましたあー!!!


漱石   まったく、君は一高時代からちっとも変わらんなあ。しかしね、俺もこんな状態だし、完結するのはまだまだ先の話だよ


寺田   やはり、よろしくないのですか?お身体……


漱石   良くはねえなあ、従来の胃潰瘍に加えて糖尿がひどくてな。おまけにリューマチときやがった。それだけじゃない(自分の尻を指して)こんな治療をいつまでも続けてたらまた痔にでもなっちまわあな


寺田   なるほど、「明暗」の主人公の津田が痔もちなのはやはり先生の実体験が元ですか


漱石   そういうわけじゃない。あれは完全に創作だよ。「自然主義」の連中みたいになんでも自分の実体験ばかりを重宝がって書いているんじゃないからな


寺田   そうですか。しかし、そんなにお身体が悪くては小説を書くのも一苦労でしょう


漱石   そうなんだよ!医者の野郎は口を開けば「安静にしろ、安静にしろ」と言いやがるし、家内は家内で俺のやることなすこと邪魔をしやがるし……


寺田   それは、先生のお身体をご心配されているからですよ


漱石   そうじゃねえんだよ、アイツは俺のすることが気に食わねえんでいちいち反抗してるだけなんだ


寺田   またまた〜


漱石   ったく、忌々しいババアだよ。俺が小説を書こうとすりゃあ「身体に障るから」とか言って筆を取り上げる、飯を食おうとすりゃあ「胃に悪いから」と言って箸を取り上げやがる。おかげでここ数日ロクに筆が進みやしない。そうだ、岩波くん、「明暗」の単行本だろうが全集だろうがお任せするからよ、ひとつ協力しちゃあくれないかい?


岩波   はあっ、先生のご命令なら何でも喜んで!裸踊りでも初音ミクのコスプレでも何でもします!


漱石   しなくていいしなくていい。だからな、医者も家内もどうしても俺に小説を書かずに安静にさせたい、しかし俺はどうしても小説を書かねばならん。そこでだ、お二人に俺がなんとかして小説が書けるように手伝ってもらいたいんだ


寺田   え、僕もですか?


漱石   乗りかかった船だ、せっかくだから君も協力したまえ


寺田   うーん、帝大の物理学教室の講義もあって忙しいんですけど……


漱石   協力してくれたら君が欲しがっていた綾瀬はるかのグラビア写真集をあげよう


寺田   やりましょうぜひやりましょう今すぐやりましょう!!


漱石   よしよし、では作戦会議だ。まずはな……



三人、頭をつき合わせてヒソヒソ話を始める。気がつくと三人とも漱石のしているように尻を高く突き上げた格好になっている。やがて暗転。

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