神のうたた寝

めてげ。

 

 今日、私は死ぬだろうと確信した。

 思考は嫌に透き通っていて、呆けた頭が久しぶりに怜悧なものになっている。しかし、私は指先一つ動かせないし、今来る死に対して怯えさえ感じなかった。

 それは記憶する機能が衰えてから覚悟していたからだと思う。それどころか心中は凪いていて、安堵を覚えていた。

 病院の白い一室。白く、薄汚れている一角が見える。世界で最も優しい死が私の元にやってくる。

 身に余る結果じゃないか。だから、この死は甘んじて受け入れよう。生涯を振り返ってそう思う。

 だが、当然ながらそのくるべきものを待つのにも時間はかかるもので、思うように動くことのできないどうしようもない私は思考の産物で暇を潰さなくてはならない。

 死を直後にする人間はまず、人生を顧みるものだ。あらゆる物語では常套の流れだろう。私の理解している限りでは。


 私の畢生というのは人並みの幸せと人並みの不幸で出来上がった山積だった。両親と妹と共に悠々自適に暮らし、互いを尊重し合う良い友人を持ち、仕事の人間関係にも恵まれ、ときに困難に受けて立ち、時に後悔しきれないこともあったが、非才ながらも自分らしく生きた。

 この通りに私は偉人のような後世に残るようなことに尽くしたこともないし、むしろその恩恵を受ける側で、だが私の人生には何もなかったという割には、私がいた痕跡はあって。

 つまりは、平々凡々な人生だったということだ。が、それは悪いものでもないし、何より幸せだった。

 

 温もりが私の手元にやってきた。操られるように見れば私の娘だった。

 娘の顔を見た、細い皺が彼女の額に刻まれていた。

 その隣で困惑に顔を硬直させた女の子がいた。娘の娘。私の孫にあたる存在。私の手を握る娘の手をじっと見つめている。どんな出来事よりも集中して見つめていた。

 いつ、意識が溶け切るか、こちらを伺っている。今か今かと。

 じっと、女の子の顔を見る。すると顔の中心から歪み出す。その歪み方はコーヒーにミルクを落とした時と重なる。スプーンでかき混ぜて、くるくると。

 だんだんはっきり見えてきた時に映ったのは紛れもない、妹の顔だ。


 私が年齢が二桁を越える前後のことだったはず。外は土砂降りだったことは記憶に刻まれている。隣で寝ていた妹が飛び起きて私に飛びついた。

「ねえさん」

 顔をくしゃくしゃにして涙を堪える里奈りなを抱きしめた。

「来世でも一緒にいようね、ずっとあたしのおねえちゃんでいてね」

 しきりに「ねえさん」と泣き、上擦った声がどこか妄執めいていて、けれど力強かった。

 私は妹のその勢いに気圧されながらも彼女の背中を摩った。私はここにいるよと、伝え続けた。それでも彼女は泣き止まず、私は言ったのだ。そう、確かに何かを言った。無神経で彼女にとってショックな言葉を。


 その日から妹とはあまり話さなくなった。

 

 衝撃が、あった。

 遠くで荒い息遣いが聞こえる。重たい体を引き摺る気配が私の懐古の念を焚き付ける、期待と戸惑いで私の手の平は汗で滲む。

 とある衝迫が顔を出す。それは幼稚で、考えないようにしていたものだ。蓋で押し込めて、明後日の方向を眺めて、自分を助けてくれる何かを探していた。その何かは行方をくらませた夫で、自身の行く末を彼に委ねたのだ。

 だけど今、押し込んでいた欲求が輪郭を顕にした。

 妹に会いたい。

 しかし、死神は私の寿命の延期を許してはくれなかった。

 今を生きているようで過去を生きているよう、死んでいるようだ。確かに生きているはずなのに死んでいる、黄泉平坂とはこのことか。

 瞼が降りる。もう二度と開くことはないだろう。

「姉さん」

 記憶のものより、新鮮で、必死で、重たくて、

 あの日何があったかは忘れてしまったけれど、あなたの手をとって安心させたい。その一心で手を手繰り寄せた。

 誰かの暖かくない、冷たくもない手が触れる。しわくちゃで私と瓜二つ。

 どこまいっても、彼女は私の妹だ。その健気さが私の心を揺さぶった。

 幸せを噛み締めながら沈む意識に身を任せた。

 ああ、でも神様、こればかりは、

 __次も妹が妹のままで。




 紙の束がデスクに叩き置かれる音、部屋を行き来する雑踏、飛び交う指示と話し声。そんな活気に溢れかえるオフィスのなか、一つ毛色の異なる音色が聞こえる。それは綺麗に並列された机の一角、デスクに突っ伏したリサが発する寝息だった。

「…リサさん?」

 そぞろとリサの部下は彼女の肩を叩いた。彼女の背中に携えるが鬱陶しげに動く。

 勘弁してほしいと思う反面、彼女が眠りに耽るのも詮ないとも思った。

 リサは天界のとある支部でとても長い期間を経て部長に就任した。その支部というのは治安維持を司る機関に属しており、ここ近くは下界の不届者の騒擾の始末で多忙を極めた。そのためか、リサは休憩を挟むことなく現場という現場を潜り抜け現在、とうとう過重労働に耐えきれなくなったリサの体が根を上げ机に突っ伏したまま夢境へと迷い込んでしまったのだ。

 部下としても彼女の努力は皆知っていた。そのため彼女の居眠りを看過していたのもある。

 さりとてここは職場、誰かのために、自分のために歯車のように働かなくてはならない。

 部下はそのように、自分のため…リサの溜まりに溜まった仕事を彼女自身が目前にして気絶しないためにも、一肌脱ぐことにしたのだ。

「リサさん。起きてください」

 彼女は眉間に皺を寄せる。充分に寝たのだから眠りが浅くなっているのだろう。

 今度は力強く出てみることにした。

「リサさん!このままでは未来のご自分を苦しませることになりますよ!」

 この言葉はリサが休まず働き続ける部下に言った言葉でもあった。奇しくも、過剰労働から過剰休憩へと状況が転じているが。

 顔を腕から覗かしたリサの瞼が痙攣した後、うめき声をあげた。

「…りなあ」

「あら?」

 寝ぼけているな、これは。

 部下は水を持ってくるべくそばを離れた。

 リサの思考は未だ覚醒し切ってはいなかった。それは長時間、椅子に座って寝ていたので体がだるかったのもあるがそれはほんの一因だ。大きな要因として、彼女は夢の内容を忘れたくなかった。あわよくばまだ夢に浸っていたかった。

 娘がいた。娘には子供がいた。そんな夢だった気がする。あれはなんの夢だっただろうか。

 だが、当然ながら来るべきものは来るもので、リサは体だけ机から起こした。

 しばらくそうしていると部下が器を持って戻ってくる。

「リサさん、水、持ってきました」

「ありがとう」

 押し付けられるままにリサは水を口にする。

 乾燥した喉を潤すにつれ頭にかかっていた霧がはらわれていく。視界は依然としてはっきりしないものの、いい眠気覚ましになった。

「どれくらい眠ってたのお」

 重たいものを背負ったような声と回らない呂律。リサは気まずそうに口を手で覆った。新鮮だなとという思いは胸臆に潜め、部下はなんともなさげに言った。

「92年くらい…でしょうか」

「居眠り程度じゃないわね」

 もはや職場で寝る睡眠期間ではない。

 しかし、ふと思い出す。では睡眠を取るのだろう。

 同時に過去に居眠りから飛び起きた仲間たちを思い出す。その中には泣いていた者もいたし、叫んでいた者もいた。逆に冷静な者もいた。そんな大多数の中ほとんど皆、口々にこう言うのだ。

__まだやり残したことがある。

__ここはどこだ?

__私は帰らなくてはならない。

 どこへ?周りが聞くと冷静を取り戻した彼らは、忘れているか、荒唐無稽な話を語って上司に謹慎処分を食らわされるか最悪左遷させられる。過剰な罰だと思うだろう。それは誰もがそう感じていた。だからこそ、あからさまに感じさせられる闇に誰も触れようとしなかった。

「そういえば」

 部下の声色が数段上がる。リサは部下の顔を覗いた。

「リナさんもリサさんを追うように眠ったんですよ」

 しまったと顔を顰め、謝ろうとする部下をリサは言葉で遮った。

「リナのところに行くわ」

 椅子から立ち上がり足をもつれさせる。動揺しているのかもしれないと部下は思った。微かにリサの耳には朱を帯びていた。

 スタスタと歩いていくリサの背中が見えなくなるまで、部下は動かなかった。すると、自分がするべき責務を思い出し自身の持ち場に足を向けた。


 リナは仕事机に突っ伏し、体を大きく膨らませては縮ませた。その姿はリサと同様に起床後の腰を懸念せざるをえなかった。

 リサは彼女の肩を揺らそうとしたが、既の所で手を止めた。

 自分の妹も過労で疲弊していたのだ。せめて私が寝てから彼女が寝るまでの分までは起こすのはやめておこう。

 片足の向きを変えた。自分のデスクの方向。

__そうだ、こんな労働環境のもとに返してやるのはかわいそうだ。

 リサは振り返らなかった。起きた時どんな夢を見ていたか聞いてみようと、思っていたのだ。どうせ忘れているだろうが、とも。

 だからこそ、リナのほおが濡れていたことに彼女は気づかなかった。きっとその事には誰も知ることはないだろう。

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神のうたた寝 めてげ。 @metege_613

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