夜間勤務は要注意


 

「これ、どうぞ。なにか困ったことがあったら、いつでも来てくださいね」

「あ……」

 

 差し出された名刺を震える手で受け取る。

 名刺に書かれた名前は『怪物討伐専門株式会社[花ノ宮]代表取締役 花ノ宮明人はなのみやあきひと』。

 自分よりも二つほど年下の少年は、この一年後に世界の“王”の中でも最強と名高い『竜血鬼 折宮六花オリミヤロッカ』に“人間の王”と認められる。

 手帳に挟んだその名刺は、ニュースで彼の――夜凪冬兎よなぎふゆとの宝物になった。

 

 

 

 

 ――四年後。

 

「これもよろしくな」

「オレの分もよろしくー」

「これ明日までだから、必ず今日中に仕上げておいてくれ」

「お先でーす」

「お……お疲れ様、です……」

 

 夜凪冬兎、本日二十五歳の誕生日を迎えた。

 就職して二年、最強にブラック企業である。

 

(元々僕の気が弱くて断れないのもあるけど……容赦ないな)

 

 押しつけられる仕事量は日々増えていき、終わっていなければ罵られる。

 もう数日家に帰っていない。

 今日も仮眠室で数時間寝てまた仕事だろう。

 タイムカードは課長が勝手に切っている。

 出勤時間のタイムカードもちゃんと切らねば遅刻として給料を差し引かれるだろう。

 

(あ、このファイル、開発部に届けなきゃいけないやつ……)

 

 ちょうどいい、開発部の隣の自販機でコーヒーを買ってこよう、眠い。

 そう思ってファイルを持って立ち上がり、ふらりと部屋を出る。

 会議の資料を作って、企画書を作って――

 やることを頭の中で順序立てていると、電気が消えた廊下から足音が複数。

 目を見開く。

 

「え?」

 

 キキキ、と高い声で笑う小さな生き物。

 劣化吸血鬼――人間が下等吸血鬼に血を与えられて変質した、吸血鬼の劣化版。

 しかも四つん這いで舌が長い。

 暴食型だ。

 ヒュ、と喉を空気が通る音。

 遭遇した時のミュート死亡率は――ほぼ100%。

 

「あ……い……」

 

 なんでそんなものがここに、と思う前に腰が抜ける。

 劣化吸血鬼が口を開けて、長い舌をくねらせた。

 その瞬間、高校生の時に土鬼に襲われた時のことを思い出した。

 四つん這いの、人の子どもくらいの大きさの、怪物。

 この世界に溢れる、人間を“捕食する生き物”たち。

 どんなに強い結界を張っても、怪物たちは入り込んで人間を襲う。

 腰を抜かして尻餅をつく。

 あの時も死にかけた。

 あの時は――助けてくれる人がいた。

 石竹色のふわふわとした髪が風に揺れる。

 口許には笑み。

 

「ひい!」

 

 一思いに突き刺して殺すことはせず、足下を舌が貫いて床に穴を開ける。

 その瞬間、ハッとして後ろに向かって走り出した。

 スマホで緊急救難信号を出し、近くの部屋に入り扉に鍵をかける。

 

「わああああ!?」

 

 キキキ、という楽しげな笑い声とともに、ドアノブが舌先で貫かれた。

 間違いない、あの劣化吸血鬼は狩りを楽しむ最低限の知能が残っている!

 慌てて真ん中あたりのデスクの下に隠れて、口を両手で覆う。

 大丈夫、救難信号を出した。

 近くに討伐専門部隊や、警察官がいれば駆けつけてくれるはずだ。

 ヒュー、ヒューと涙と涎で変な音が立つ。

 息を殺せ、もっと。でないと、死ぬ。

 

「キキキ、キキキキ」

 

 わざとずる、ずる、と音を立てているみたい。

 近づいてくるその足音に、涙が溢れてくる。

 学生時代の記憶が蘇ってくる――四年前の、塾帰りの――

 

「キキキキキキキキキ!」

「――!!」

 

 隠れていたディスクが突然持ち上がる。

 天井に貼りついた怪物が、赤い目を見開く。

 ディスクを窓の方へ投げた劣化吸血鬼が見開いた目をきゅう、と細めた。

 

(あ、だめだ……)

 

 死ぬ。これは間違いなく、死ぬ。

 カタ、と歯が鳴る。

 飛びかかる劣化吸血鬼がゆっくりと動いて見えた。

 だが、劣化吸血鬼がぐにゃとひしゃげる。

 巨大な虎がバキ、と劣化吸血鬼をかみ砕く。

 そのまま壁に劣化吸血鬼を叩きつける。

 

「…………」

 

 目を見開く。

 白いオーラを纏った赤い虎が足元にまとわりつく、身長二メートルはありそうな巨漢が見下ろす。

 オレンジ混じりの黒髪。長い前髪からわずかに見えるオレンジがかった金眼。

 オレンジと白と黒の大きなトレーナーと、ジーンズと白いスニーカー。

 

「綺麗な、虎……」

 

 二メートルはありそうな巨漢の足元にまとわりつく虎が鼻でクンクンと冬兎を嗅ぐ。

 涙と鼻水に興味があったのだろうか。

 でも、その涙も虎の美しさにピタッと止まってしまった。

 

「え?」

「え……?」

 

 少し驚いたような小さな声。

 聞き返すと小さく口を開ける男。

 

(あれ……この人、前にもどこかで――)

 

 どこかで会ったことがある。

 なんて、思った時廊下から激しい足音が近づいてきて、扉から若い男が入ってきた。

 

「この、破壊魔ーーー!!」

「!?」

 

 入ってきたのは茶髪のサラリーマン。

 彼は肩に白い鳥をまとわりつかせていた。

 真っ直ぐに大男の方に歩いてくると、「なんですぐ壊すんだ! うちの会社で補填することになるんだぞ!」と彼を𠮟りつける。

 

「あ、あの、窓を壊したのは劣化吸血鬼で、この人ではないです……!」

「え? あ、ほ、本当!?」

「本当。窓ガラス、破片、中じゃない」

「ア、本当だ。……ごめん、華城かのしろ、ついいつもの癖で……いや、日頃の行いとこれまでの破壊の履歴があまりにも多すぎて……」

「…………」

 

 ぷくう、と巨漢の頬が膨らむ。

 それを見上げて冬兎はようやく自分が助かったのだと理解した。

 はあ、と息を吐くと、巨漢が振り返って跪いて冬兎に手を伸ばす。

 

「怪物討伐専門株式会社[花ノ宮]事務所第一実働部隊、華城晴虎かのしろはるとらといいます。立てますか?」

「あ……」

 

 虎がクンクン、と冬兎の匂いを嗅いでくる。

 先ほどより半分以上小さくなっていて目を丸くしながらも、彼の手を取った。

 けれど、やっぱり腰が抜けていて立つことができない。

 

「す、すみません。腰が抜けていて……」

「ああ、まあ、よくあるんで。じゃあ、乗ってください」

「え!?」

 

 そう言って彼が後ろを振り返ってカモンおんぶスタイルを取る。

 ギョッとして両手と顔を全力で左右に振った。

 

「む、無理、いや、あの! 二十五にもなっておんぶはちょっと……!」

「怪我の確認とか、事情聴取しないといけない。から、ひとまず」

「う……」

「待って、華城。ケアは!? スピリットアニマルがまた小さくなっている。具現化能力を使ったんだろう!? ケアが先の方がいい」

「まだ平気」

 

 二人の会話に胸がドキドキとしてくる。

 怪物討伐専門株式会社[花ノ宮]事務所といえば、冬兎が十八歳の時にも助けてくれた対怪物の武装民間会社。

 その実働部隊といえば、ほぼ全員がセンチネルとパーシャル、センチネル系能力者をケア・サポートするガイドで構成されている。

 センチネルとパーシャルはガイドのケアがなければ能力が弱まり、暴走――ゾーニングや野生化が起こりやすくなってしまう。

 それを起こさないよう調整するのがガイド。

 人間種の全体人工の四割で、センチネル・パーシャルが二割、ガイドが二割と言われている。

 彼らの会話はまさにそれそのもの。

 そんな人種と遭遇する機会はとても少ない。

 

「それより、この人」

「う……ま、まあ、被害者がいるのなら被害者を優先するのはわかるけれど……」

「スピリットアニマル、見えるみたい。でも、スピリットアニマルが近くにいない。から、多分、この人レイタントじゃないかなって」

「え? どういうこと?」

 

 こちらを見るサラリーマンふうのガイド。

 突然レイタントと呼ばれて、冬兎はびくりと肩を振るわせる。

 

「レイタントは普通、本人にスピリットアニマルが見えない。でも彼の周りにはスピリットアニマルも見当たらないぞ?」

「でも見えるみたい」

「本当に? えっと、俺の肩に動物、見えますか?」

 

 しゃがんで自身の肩を指差すガイド。

 それに対して、コク、と小さく頷いて「白い鳥……」と答えると目を見開かれた。

 

「どういうことだ? レイタントは普通、本人が他人のスピリットアニマルを見ることはないのに……」

「こういう逆パターンも、あるんじゃん? とりあえず移動、しよ」

「そ、それもそうだな。えっと、とりあえず落ち着いた場所へ移動しましょう。ここ、ガラスが落ちてて危険なので」

「は、は、はい……」

 

 問答無用でおぶされ、ということになってしまう。

 肩に触れて、しがみつくとヒョイ、と簡単に立ち上がる巨漢――こと、華城晴虎。

 二十五になった成人男性が子どものように縮んでしまったかのような錯覚に陥る、広い背中。

 

(あったかい……)

 

 幼い頃に両親が離婚し、母親に引き取られた冬兎は父親の背中に背負われるなんて経験はない。

 こんな感じなのか、と少し感動してしまった。

 なにより、彼に助けられるのは二度目だ。

 忘れもしない、十八歳の夏。

 日が長くなったのをいいことに、帰るのが遅れてしまった夕暮れ。

 妖に襲われた冬兎を助けてくれた二人の少年。

 冬兎よりも年下だった彼らは、まさしく人の枠を超えている超能力者たち。

 手帳の中に大切にしまってある、あの名刺――

 

「はい、はい。劣化吸血鬼を一匹討伐しました。遺伝子を調べれば行方不明者と照合できるかと――はい。被害は窓一枚とデスクひとつですかね……確認できる範囲で。それと、被害者が一名。レイタントの可能性があるのですが、スピリットアニマルの姿が見えないんです。ええ……その辺りの調査も兼ねて本部に連れて行きたいのですが、時間も時間ですから――はい、はい。ビジネスホテルの一室を――ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 一階の玄関から出た直後、どこかと電話をしていたガイド――烏丸からすまが通話を切る。

 

「ビジネスホテルの一室を確保してもらった。今夜はそこに宿泊してもらって、明日本部に来て検査をしてほしいとのことだ。もしも本当にレイタントなら、国に申請しなければいけないし。悪いが華城、ビジネスホテルまで連れて行ってくれ」

「ん」

「え? あの、僕、明日まで終わらせなきゃいけない仕事まだ残ってて――!」

「は?」

「あ……」

 

 ビジネスホテルへの道すがら、冬兎が叫ぶと烏丸が妙なものを見る目で見上げてきた。

 この時間に仕事が終わっていない。

 明日までにしなければならない仕事がある、なんて言ったら冬兎の会社がブラックだとばらしているようなもの。

 いや、実際ブラックなのだが。

 

「……なるほど、こんな時間に一般人がビルに残っているのはおかしいと思ったけれど……。申し訳ないが、御社には夜間労働禁止法違反の疑いが強いと厚労省に調査を依頼させてもらう」

「ええ!? ま、待ってください……!?」

「無申請の夜間労働でどれほどの人間が犠牲になっているのか、まだ理解してない企業があるのを黙って見逃すことはできません」

「っ……」

 

 当然だ。

 彼らの仕事の多さは、そういうブラック企業のせいなのだから。

 烏丸の冷たい眼差しになにも言えず、冬兎は華城の肩に額を埋めた。



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