Valkyrja Wyrd

灰蒼

光弾の射手

第1話プロローグ

 幾つもの息を呑む音がした。懐かしい響き。けれど昔のような高揚感は生まれない。

 それは予感というより確信に近かった。

 力を抜いた瞬間にはもう結果が視えていた。

 風を切る音ともに、短い髪が小さく揺れる。直後、すぱん、と音がした。

 彼女の視線の先には一つの的。そこには的に立つ三本の矢の姿。

一兜ひととさんやっぱり弓道部入りなよ~」

「ほんとほんと、こんな実力者なかなか見ないって」

「確か中学で全国経験あるんでしょ?しかも結構上位だったよね。うちに入ってくれると助かるんだけどな~」

 先輩女子たちの言葉に彼女は見えないようにため息を吐くと、愛想笑いを浮かべ「ごめんなさい」と一言謝り、弓道場を後にする。

 再びため息を吐きながら弓道場から出ると、「星羅、どうだった?」と外で待っていた友人の亜紀が不安を宿した目で訊ねてきた。

「やっぱり無理」

「でも外で見た感じ凄く良かったけど」

「それでももう、弓道を楽しめる気がしないから」

「そっか。じゃあ、仕方ないね」

 困ったような笑顔を浮かべる亜紀に心の中で謝りながら、しかし星羅の決意は変わらない。もう弓は引けないんだ、と。


 一兜星羅は中学時代、知る人ぞ知る有名人だった。というのも、全国でも上位に食い込むほどの弓の使い手だったからだ。しかも美少女と来たら話題にならないわけがなかった。

 靡く長い黒髪は彼女を示すアイデンティティであり、それを見た途端ライバルの女子たちは緊張に顔をこわばらせ、男子は顔を綻ばせる――。

 よく見る大会の光景。

 おそらく弓道を真剣にやっていた同世代の学生なら、一兜星羅の名前を知らない人はほとんどいなかっただろう。

 しかしそれも過去の話。星羅は高校へ上がる前に弓道を辞めた。

 理由は二つ。

 一つは全国大会で優勝できなかったから。

 優勝は中学時代の彼女の一番のモチベーションだった。その優勝を終ぞなしえることなく中学を卒業してしまった星羅の弓道に対するモチベーションは、自身が想像しているよりもずっと落ちてしまった。

 優勝できなかった自分への言い訳はできたはずだった。

 教えてもらった先生を悪く言うつもりはないが、全国に出場する周りの学生たちに比べて星羅の通っていた道場は有名とは言えない、小さな道場だった。

 近くの道場がそこしかなかった。

 遠くの有名道場に通って、ひとり親の母親に心配を掛けたくなかった。

 結果、満足に能力を伸ばしきれなかった。

 ――だから仕方ない。私は悪くない、と。

 しかし星羅にそんな言い訳はできなかった。自分を騙すようなやり方は、前に進むならその方がいいとわかっていても、許すことができなかった。

 二つ目の理由は怪我をしたから。

 中学最後の大会を終えたあと、星羅は受験勉強に勤しむべく塾に通っていた。

 今まで弓道に熱心に取り組んでいて他の人より勉強が遅れがちだったからだ。もともと地頭はいい方で勉強には苦労しなかった。

 けれど。ある日の塾の帰り、交通事故に遭った。

 命に別状はない。事故当時も意識はあった。

 しかし星羅の右手には僅かな違和感が残るようになってしまった。

 その僅かな違和感は日常生活を送る上ではまったく不便がないものの、弓道という分野においては彼女が満足できる弓を引ける状態とは言えなくなった。

 フォームがもともと綺麗だったからこそ高校の部活動体験でもそれなりの弓を引くことはできたが、所詮それなり。全国で上位に食い込める力はもうない。

 それでも、どちらの障害も弓道に本気だったなら打ち破ることはできただろう。

 中学で優勝できない程度なんだ。高校で優勝を目指せばいい。もう高校生なのだから、一人で遠くの道場に通っても問題はない。

 怪我で残った違和感も、何度も弓を引くうちになくなっていくはずだ。

 そんな考えがありつつも弓道から離れたのは自分が本気じゃなかったからなのだ、と。そのことに気づいてしまった。きっとそれが弓道を辞めた一番の原因だった。

 過去には本気だったときもあったのだろう。

 最初に弓を握ったときは満足に弓を引けなくなった今よりもずっと下手糞だったけれど、楽しかった。

 本気だった期間もきっと長かった。

 でもいつの間にかその本気が義務へと変わり、楽しいはずだという過去の思い出に囚われてしまって。

 じゃあ弓道から離れて楽になったかと言われれば、そんなことはないけれど。

 今は何にも本気になれない。何もかもが虚無だ。

 これでいっそ勉強もまともにできないなら自暴自棄になれてよかったのに、割となんでもそつなくこなせてしまう自分が嫌だった。

「星羅、私ソフトボール部入ったからさ」

「うん、じゃあまた明日ね」

「……うん」

 亜紀に気を遣わせてしまっていることに申し訳なさを感じつつ、本気になれるものが亜紀に嫉妬も覚える。

 亜紀は中学時代ソフトボール部のエースだった。

 もとの中学は決して強豪校ではないからソフトボールで推薦はもらえなかったようだけど、本気になれるものがあるならなんだって羨ましい。

「私は上を目指しすぎたのかな」

 こんなこと亜紀の前では言えないけれど。

 もう上は目指さなくていいから、本気になれるものが欲しい。


 ***


 家に帰ると母親に「お姉ちゃん家にこれ持って行ってえ」と小包を渡された。ずっしりと重たいそれは食生活が危うい姉への栄養満点弁当なのだろう。

 姉は星羅と歳が七つ離れている。本来なら今年から就職している歳。

 しかし星羅の姉はとても優秀なせいか、大学生時代に株だのなんだのと投資で稼ぎ、現在では不労所得なるものを確保しているらしい。高校生にはよくわからない領域だ。

 そんな彼女は家族に縛られることなく一人でのんびりと暮らすためにわざわざ二駅しか離れていない場所に家を借りている。大きくはない1Kのアパートだが、本人はその狭さが結構気に入っているようだ。

「お姉ちゃん、お弁当」

 合鍵で部屋の中に入ると、ごみで散らかった部屋でお腹を丸出しにしながら幸せそうに寝ている姉の姿があった。

 女性としてどうなんだというだらしない格好をしているが、母親の遺伝を多分に受けた姉はかなり小柄で童顔なのでただの女児にしか見えない。ちなみに星羅は父親似なので小さすぎず大きすぎない平均的な身長だ。

 寝ている姉をよそに、星羅は片づけを始める。

 姉の身体を蹴り飛ばしてごみを拾い、常備してあるごみ袋(大)にさっさとごみを放り込んでいく。

 眠りの深い姉はいつものことながら、どれだけ蹴ろうとも眠りこけていた。

 もう本気で蹴り飛ばしてやろうか。そうすればさすがの姉も起きるはずだ。

 ごみを片付けたら洗濯を始める。相変わらず溜まった洗濯物が籠の中にわんさかと入っていて……

 ――おい、下着はどうした。下着が一着もないんだけど。

 額に手をつきながら洗濯機を回し、部屋に戻る。

 星羅は未だに寝こけている姉の胸ぐらを掴んでぐっと持ち上げた。

「お姉ちゃん!」

「うひゃあ!」

 耳元に大音量で叫ぶと姉は兎のようにぴょんと飛びのく。

「あ、あー……おはよう星羅ちゃん?」

「今五時なんだけど」

「あれ、今日土曜だった?」

「一七時」

「な、なーるー……」

 相変わらず女児みたいな顔と身体と声をした姉だ。そして性格もほとんど女児。この人年齢以外はまったく姉ではない。

「とりあえずこれ、お母さんからお弁当」

「あー、ありがとう」

「それと、下着くらいつけて。上なら未だしも下は着けて」

「この世界にはノーパン健康法というものが――」

「そんなものはない」

 姉は涙目になりながらお弁当を食べる。

 怒られている最中なのにご飯にはちゃっかり手を付ける辺りやはりこの姉は何も反省していないのだろう。いつも通り、フリだけだ。

「星羅ちゃん、髪切ったんだね」

 そんな中姉が気付いたのは当たり前と言えば当たり前、星羅は弓道時代のアイデンティティとも言える長い髪をバッサリと切っていたことだった。

「うん。もう高校生だし、心機一転って感じで」

「そう言えば星羅ちゃん、もう高校生だっけ?」

「貴女が大学を卒業している年に中学を卒業しています」

「そう言えばそうだった」

 はあ、と星羅はため息を吐き、部屋の中を見回す。

 簡素な部屋だ、というのはいつもの感想だった。

 片づけをしない姉の部屋はいつも散らかっているけれど、片付けさえしてしまえば逆に簡素過ぎると言っても差し支えなくなる。テレビもなければ漫画もない。あるのは五年ほど前に発売された高性能VR機器がテーブルの上にあるだけだった。

「お姉ちゃんまたゲームしかしてないの?」

「べふにへーふはっかひひへふはけはないほ」

「飲み込んでから言って」

 ごくん。

「別にゲームばっかりしてるわけじゃないよ」

「じゃあ一日の何割がゲーム?」

「五割」

「それって本当に一日の五割になるんだよねえ」

 この姉はたぶん一日一二時間ゲームをしている。あとは寝て、たまに自分の収入にかかわる数字のあれこれを見て、ネットサーフィンをしているくらいなのだろう。

「星羅ちゃんもこのゲームやってみなって。すんごい面白いよ。ソフトはダウンロードしたらいいだけだからさ。VR機器は予備のやつあげるよ?」

「私そういうのはいいから」

「ええ~、妹と一緒にゲームやるのお姉ちゃんの夢だったのに~。星羅ちゃん弓道でずっとお姉ちゃんとゲームしてくれなかったから」

「もう高校生だし。勉強しなきゃだから」

「どうせ高校の勉強なんてたいしたことないんだからさ~。星羅ちゃん頭いいんだし大丈夫だよお。お姉ちゃんが教えてあげるからさ~」

 星羅の姉はこんなどうしようもない人間ながら頭はいい。でなければ大学在学中に投資とゲームでほとんど一日を潰しておきながら国立大学を卒業するなんてまず無理だろう。

 もちろん星羅にもこの姉の遺伝子、正確には両親の遺伝子が入っている。頭はよく、容量もいい。姉ほどとは言わずともそこそこの大学に行く分なら、ゲームをしながら高校の勉強なんて簡単じゃないかと言われたら否定はできない。

「ねえやろうよお~。一緒にゲームしようよ~。今うちのギルマスがリアルで忙しくなってるせいで活動が少なくなってて暇なんだよお~」

 駄々っ子みたいに姉が服を引っ張ってくる。

 ああもうっ!姉なのに我儘妹みたいな駄々っ子モードはほんと、面倒くさい。

「お願いいい。星羅ちゃんやってくれなきゃやああ。お姉ちゃんと一緒に遊んでよおおお」

 ……はあ、まあお金は出してくれるみたいだし少しくらいはいいか。

 星羅は長年付き合ってきた身から、いかに早く諦めるかがこの姉との付き合い方だと弁えている。

 どうせ暇だし、嫌になったら姉も無理にしようとは言わないだろう。

「少しだけだからね」

「大丈夫、星羅ちゃんもすぐに嵌って自分から課金するようになるから!」

 心の中で大きなため息を吐きつつ、現実ではあしらうように「はいはい」と姉の言葉にテキトーに相槌を打つ。

「はい、じゃあこのVR機器着けて」

「あれ、ダウンロードするんじゃないの?」

 最近のVRは完全没入フルダイブ型。ゲーム世界に入り込むものだと聞いたことがある。

 それほどまでに作りこまれたものは今の時代であろうとダウンロードにそれなりの時間を要するはずなのだけど。

「実はもうダウンロードしてま~す!」

 この姉、最初から駄々を捏ねる気だったか。

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