第2話 ラン・ラン・ラン
脚に軽い痛みを感じて目を覚ました。
「ハッ!?」
慌ててあたりを見渡すと、もう外は暗いようだった。
「まさかさっきのはすべて夢だった……なんてことはないよね?」
その場合、半日後には身体を清めて綺麗なドレスを着て客の相手をしなければならない。差し迫った現実を思い出して吐き気を催した。
私が吐き気をこらえている間にも、脚には軽い痛みを感じる。
何かと思い視線を落とすと、私の脚をカラスがつついていた。
「カラス? どうして倉庫に?」
私と目の合ったカラスは、数歩歩いてから、振り返って私を見た。
「え、なに?」
察しの悪い私に苛立ったようにカラスはもう一度私の元に戻り、数回つついてから、また数歩歩いた。そして私を振り返る。
「ついて来いってこと?」
カラスは肯定するように一度鳴くと、さらに歩き始めた。
「そういえば、死神さんが使いを寄越すって言っていたっけ」
ということは、このカラスが使いなのだろう。
死神の使いがカラスなのは、それっぽい気もする。
「あなたについて行けば、死神さんのところへ行けるんですか?」
カラスは一声鳴くと、歩いて倉庫から出て行った。見失ってはいけないと慌てて追いかける。
すると倉庫から出た私を待っていたのは、ジャン・クランドルだった。
「どこへ行くんだ?」
「……散歩です。夜風が気持ちいいので」
私の答えにジャンは納得していないようだった。
「お前が逃げると思って待機しておいて正解だった。まさか侯爵家への恩を仇で返すとはな」
「最低限の衣食住をもらった恩は、使用人としての仕事で返しているつもりです。本当に最低限の衣食住しかもらっていないのだから、私の働きはお釣りがくるレベルだと思います」
「お前の仕事にどれだけの価値があると思っているんだ? 自惚れるのも大概にしろ!」
怒りのこもった声でジャンが怒鳴った。
ああ、この人とはいくら話をしても無駄だ。
そう悟った私は、足元のカラスを見た。
「カラスさん、西の森へ行けばいいんですよね?」
カラスは私の言葉に短く鳴くと、私の意図を察したように羽を広げて空へと飛び立った。
ジャンよりもよっぽど話が通じる。
「走りますよ、カラスさん!」
言うと同時に私は駆け出した。冷たい夜風で耳がチリリと痛む。
上空では、私と同じスピードでカラスが飛んでいる。
「まっ、待ちやがれ!」
私が走り出してから一拍置いて、ジャンが侯爵家らしからぬ言葉遣いで叫んだ。そして私を追いかけて走ってくる。
スタートダッシュで距離を稼いでいたはずなのに、ぐんぐん私とジャンの距離は縮まる。小さく痩せた私の脚力と、健康な青年の脚力では勝負になるはずもなかった。
このまま私を捕まえればジャンの勝ち。
私に勝ち筋があるとすれば、西の森まで逃げ切ることだ。
西の森は惑わしの森と噂されている。そこまで逃げてしまえば、いくらジャンでも私を追いかけては来ないだろう。
しかし森まではまだまだ距離があるのに、ジャンは数メートル後ろまで迫ってきている。もっと速く走ろうと頑張るものの、短い私の脚では限界があった。
だけど諦めるわけにはいかない。
99%不可能だとしても、1%の希望が残っているなら、挑戦する価値はある。
私は走りながら顔を後ろに向けて、すぐ後ろを走るジャンの顔目がけて唾を吐きかけた。
「うわっ、汚っ!?」
不意を突かれたジャンは走りを緩めて自身の顔を拭った。
「もう許さねえぞ!」
そして怒りに顔を歪めながら、再び私を追いかけてきた。
西の森まであと少し。唾吐きではもう不意をつけないだろう。あとは単純な脚力勝負だ。
私は全力で走り続けた。
息はとうに上がり、心臓はバクバクと良くない音を立てているが、気にしている場合ではない。
「ハァハァ……森が見えた」
走り続けるうちに、ついに森の入り口が見えた。だがジャンもすぐ後ろまで追って来ている。もう小細工は効かない。走り続けるのみだ。
……しかし。
「つかまえた!」
いきなり後ろから腕を引っ張られた私は、バランスを崩して派手に転んだ。両手両膝がズキズキと痛む。
残念だけど、ここまでか。
ああ、悔しい。もう森は目と鼻の先だったのに。
諦めかけた瞬間、前を先導していたカラスがジャンの顔目がけて飛んできた。そしてそのまま嘴で攻撃を始める。
ジャンは片手でカラスを払いつつも、私を掴んだ方の手は決して離そうとはしなかった。これでは森へ逃げることは出来ない。
このまま攻撃を続けていると、あのカラスはそのうちジャンに怪我をさせられてしまうだろう。
だからもう……気持ちだけで十分。
私は上体を起こし、捻挫や骨折が無いことを確認してから、立ち上がった。手のひらと膝からはだらだらと血が流れている。だけど、立てる。
「ありがとう。あなたの気持ちは受け取りました」
そう言って、私はカラスに向かって笑ってみせた。
帰ったら厳しい仕置きを受けるだろうが、明日からは地獄の日々が待っているだろうが、それでも私は生きている。
きっと生きることだけが、私に許された望みなのだろう。
一緒に暮らす相手が死神とはいえ、私が幸せに暮らすなんて、高望みだったのだ。
「……ささやかな望みのはず、なのになぁ」
私がすべてを諦めかけたそのとき、森の中から思わぬ伏兵が飛び出してきた。
「うわあーーーっ!?」
狼だ。
森から飛び出した狼が、ジャンの腕に嚙みついたのだ。
ジャンは噛みつかれた手を振り回して狼から逃れようと暴れた……掴んでいた私の腕を離して。
そしてこの機を逃すほど私は愚かではなかった。
素早く体勢を立て直すと、森へ向かって一直線に走り出した。その間も狼はジャンの腕に噛みつき、カラスはジャンの目の前を飛行して目くらましをしてくれた。
「ここは惑いの森じゃない。私の幸せに続く森だーーー!!」
身体中の力を振り絞って叫びながら森に逃げ込んだ私は、そのまままっすぐに走った。
しばらく走ってから後ろを振り返ったが、ジャンが追いかけてくる気配は無かった。
代わりに、いつの間にかカラスと狼が私の近くにいた。
「クレア様、お怪我は痛みますか?」
「いいえ、私は他人より回復が早いから平気……え?」
答えてから二度見をした。私に質問をしたのは、先程のカラスだった。
通常なら、カラスが喋るなんて!と思ったかもしれないが、死神と話している身としてはそこまで驚くことでもない。
「喋れるなら最初から喋ってくださいよ」
「喋れるのはこの森限定なんです。ここはシリウス様の魔力が満ちていますから」
そういえばこの森には死神さんが魔法を掛けていると言っていた。
疑っていたわけではないが、こうして魔法を目の当たりにすると死神さんの力を信じるしかない。
「遅くなりましたが、クレア様。お礼を述べさせてください。今朝は助けてくださってありがとうございました」
「今朝……あっ! もしかして薪に埋まってたカラス!?」
「はい。そのカラスが私、リアです」
カラスも恩返しをするんだあ、とのほほんとしながら微笑んでいると、そのカラスが地面に頭を擦りつけ始めた。
「急にどうしたの!?」
「先程は申し訳ございません。リアがもっと早くあの者に目くらましの攻撃をしていれば、クレア様がお怪我をされることはなかったはずなのです。それなのにリアは、恐怖心に打ち勝つことが出来ずに、クレア様が怪我をするまで何も出来ず……」
私は慌ててカラスを地面から抱え上げた。
「あんな形相で追ってきたら誰だって怖いですよ。それなのにあなたは私を助けてくれました。私がここにいるのは、あなたと狼さんが助けてくれたからです」
隣を歩く狼にも目を向けた。カラスとの連係プレーで確信していたが、この狼も死神さんの使いらしい。
「俺もクレア様があんな奴に追われていると知っていたら、森で待機などしないで駆け付けていたのに。不甲斐ないッス」
「こうして無事に森に来られたんですから、結果オーライですよ。ありがとうございました」
それにしても、どのくらい歩けば城に辿り着くのだろう。
膝から血がだらだら流れているから、どこかで一回休憩をさせてほしいというのが本音だ。
そんなことを思っていると、森の中に突然馬車が現れた。
……いや、ぱっと見で馬車と呼んだが、正しくは馬の代わりに狼が繋がれている。この場合は狼車と呼ぶのだろうか。
「クレア様、中へどうぞ」
促されるままに狼車に乗った……が。
「あっ、ごめんなさい」
喜んで狼車に乗ってから気付いた。
膝から流れた血がいつの間にか靴にまで付いていたようで、綺麗な狼車に早速血痕を付けてしまっていた。
「お気になさらず。むしろそんな足でよくここまで歩けたものです。城に着いたら手当をしましょう」
私が狼狽えていると、一緒に狼車に乗ったカラスの使用人が慰めてくれた。
もしこれが侯爵家での出来事だったら、こんな甘い対応では済まなかっただろう。侯爵家の持ち物に血痕を付けてしまったら、夜通し折檻をされていたはずだ。
とはいえこの甘い対応もカラスが独断でしているだけで、城に着いたら死神さんに折檻されるかもしれないが。
それとも死神だから折檻ではなく、もっと私の思いもよらない方法で仕置きをするのだろうか。
そう思うと自然と身体が震えたが、だからといって血を止められるわけでもないので、私はただ狼車に揺られていた。
しばらく狼車に揺られていると、狼車の中で一緒に揺られていたカラスが不思議そうに私のことを見つめていた。
「どうかしましたか?」
「あの、クレア様。一つ質問をしたいのですが……あのとき、どうして笑っていたのですか? あの男に捕まってしまったとき。もうダメだと思ったはずなのに」
カラスの言うあのときとは、先程の、森の目前でジャンに捕まったときのことだ。
「もうダメだと思ったからですよ」
「どういう意味ですか?」
「辛いときこそ笑わないと。それが人間の強さってやつですから」
これが私の持論であり信念でもある。
辛い状況を何でもないことのように笑うのが、攻撃用の牙も爪も持たない人間の戦い方だ。
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