第5話 屍たちの森

次の日。

昨日の夜から降り続いている雨は、

朝になっても、まだ止む気配がない。


出張から帰った俺は、

まっすぐ氷凪の住むアパートに向かった。


駐車場に車を止め、

濡れるのも構わず玄関に向かう。


玄関の窓ガラスが明るい。

部屋の明かりはついているようだ。


氷凪、待っていてくれ。

合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

かじかむ手がもどかしい。


部屋の中を想像する。

玄関をくぐり廊下を通る、そして部屋に入る。

温かい部屋、可愛いカーテン、心休まるミルクティー。

そして、いつもどおり氷凪が笑っているはずだ。


玄関のドアを、開ける。



室内は、誰の気配もしなかった。


靴を脱ぎ、廊下に上がる。

すぐ右に、お風呂場へ続く曇りガラスがある。


胸騒ぎがして、

その扉をそっと開けた。


そこで、氷凪が首を吊っていた。



あれだな、

意外と人間ってああいうとき冷静になれるんだな。


俺、ロボットになったんじゃないかってくらい

冷静に行動できた。


風呂場のシャワーヘッドかけの低い方、

そこにビニール紐をかけて、

座った状態で首を吊っていた。


手を触れると、

体はまだ暖かかった。


首にからまったビニール紐を切り、

優しくベッドに寝かせると衣服を緩める。


呼吸は止まっている、

胸骨圧迫をしなければ。

ああ、その前に消防に電話か。


なんだか現実感が無かったと思う。

ただ、体は勝手に動いていた。


救急車が到着する間、

ずっと胸骨圧迫をしていた。


視界の端に、

テーブルの上のリンフォンが目に入る。



昨日までの鷹の姿ではなく、

ほぼ魚の形をしていた。


ただ、魚と聞いて連想する、

よくある流線型のシルエットでは無い。


まるで蛙のような顔をした、

ずんぐりとした不気味な造形の魚だった。


魚としては、まだ未完成なようで、

あとは背びれや尾びれを付け足すと完成、

という風に見えた。



遠くからサイレンが聞こえる。


玄関の窓ガラスが赤く照らされ、

救急車が到着した。


部屋に入ってきた救急隊員が、

氷凪を担架で運び出す。

俺は、ただその様子を眺めていただけだった。


一緒に救急車にのって病院に行く。


それから、どれくらい時間が経ったんだろう。

正直、時間の間隔が無くなっていたと思う。


病院のICUで、氷凪は意識を取りもどした。

意識を取り戻した彼女の顔は、

やつれて土気色をしていた。


処置が落ち着き、一般病棟へと移る。

ベッドの上に寝ている氷凪は、

俺に気づくと弱々しく口を開いた。


「お昼にパン食べていて、

明日は仕事に行かなきゃなって考えていたの」


「そうしたらケータイが鳴って、

最初は出る気がなかったんだけど、

職場からだとまずいんで出たの」


「それで、通話押してみると、

『出して! 』『出して! 』って

大勢の男女の声が聞こえて、

そこで切れた」


「その後、部屋中が地震みたいに揺れたかと思ったら・・・、

私、ここに寝かされていた」


氷凪は、目に涙を浮かべていた。


色を失った唇が、震えている。

か細い手が、俺の手首を掴んだ。


「お願い、ケータイを解約してきて」


自分のケータイが怖くてたまらないらしい。

あんなことがあったんだ、無理もないと思う。


「分かった。

明日ケータイショップに行ってくるよ」


宥めるようにそう言うと、氷凪は安心したようだった。

「ありがとう」(ここはひまりのまま)

そういって、そのまま眠ってしまった。


その後、俺は起こさないように静かに病室を出ると、

着替えやら小物を取りに行くため、氷凪の部屋に移動した。


しばらく入院しても大丈夫なように、

下着や簡単な化粧品類を、

分かる範囲でカバンに詰め込む。


魚の形をした未完成のリンフォンは、

ひっそりとテーブルの上に放置されていた。


正直触りたくなかったが、バスタオルに包み、

そのまま押入れのなかに放りこむ。


荷物をもって、また病院に向かう。

車内では、ラジオをつける気にもなれず、

エンジン音とロードノイズだけを聞いていた。



果てしなく続く、真っ黒な海面、極寒の大地。

人間は、けして生きてはいけない氷の世界。


光も届かぬほど深い海を、ゆうゆうを泳ぐ巨大魚。

大理石のような色の皮膚、蛙のような顔。


そんな絶望的な光景が、頭に浮かんだ。




氷凪の入院している病室に、

小さなテーブルがある。

そこに小物が入ったカバンを置いておいた。


今日は病院に泊まろうと思っていたが、

看護師に断られてしまった。

俺は渋々、自分の部屋に戻る。


その夜、自分の部屋で寝ていると、

恐ろしい夢を見た。



暗い谷底から、大勢の裸の男女が這い登ってくる。

俺は必死に崖を登って逃げた。


あと少し、あと少しで頂上だ、助かる。

頂上に手をかけたその時、

女に足を捕まれた。


振りほどこうと、足を見る。

両目が落ち窪んだ女が、絶叫する。


「連  れ  て  っ  て  よ  ぉ  !  !  」



汗だくで目が覚めた。

あの声が頭に残り、何度も反芻してしまう。

時計を見ると、まだ午前六時過ぎだった。


目をつむると、またあの両目が落ち窪んだ女の顔が蘇る。

その後ろを、無数の亡者が這い登ってくる。


とても、再び眠れそうにはない。

布団の中で思いを馳せる。


氷凪との出会い、ふたりの思い出、

あのとき立ち寄った骨董品店、

店主のお爺さん、リンフォンを見たときの表情、

そして、リンフォン。


リンフォンって、一体何なんだろうな

そんなことをぼんやりと考えていた。

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