#80 バイト早退
あんなに楽しかったバイトが辛くなってきた。
茜さんとママさんはいつも通り接してくれるんだけど、親父さんの視線が辛くて辛くて。俺が茜さんと喋るたびに監視してくるのマジでやめてほしい。っていうか料理中によそ見は危ないからやめたほうがいいと思う。
言うまでもないが、最初のほうは客からも弄られたよ。俺のリアクションから、あんまり触れちゃいけない案件だと察してくれたのか、途中からは何も言われなかったけどさ。
これだけ聞くと親父さんだけ頑固な冷血親父ってイメージを抱くかもしれんけど、娘を持つ父親としては当然なんだろうなって思うと、俺も何も言えんよ。娘さんと奥さんに怯えつつも態度を崩さないんだから、ある意味では尊敬できる。
でもな? 茜さんを公衆の面前で抱っこした件については許してほしい。なんなら俺が被害者側だから。強要された側だから。
「進ちゃん、ウチの旦那が本当にごめんなさいねぇ」
親父さんの目を盗んでママさんが謝罪に来たが、親父さんに見られると厄介だからやめてほしい。っていうか単純に、申し訳なくなるからやめてほしい。
「いえ……私に非がありますから……」
「進ちゃんは人間ができてるわねぇ」
本当にそうだろうか? むしろ人間ができていないからこそ、こんなよくわからない事態に陥ってるのでは?
「ウチは一人娘だからねぇ。お父さんも過保護気味になっちゃってるのよ」
「まあ、なるでしょうね」
そういや高校生の頃に友達が『姉貴の帰りが少し遅くなっただけで親父が不機嫌になるから鬱陶しい。大学生だぜ? 今時二十一時ぐらい普通だろ』とかなんとか、愚痴ってた気がする。どこの家も同じようなもんなんだな。
「でもねぇ、茜ちゃんはもう二十二歳よ? お酒だって飲めるし、選挙権だってあるのよ? 夜通し遊んで朝帰りするのが普通だと思うの」
普通かどうかは知らんけど、少なくとも父親にとやかく言われるような年齢ではないな。海外ならまだしも日本の治安なら、よほど変なところに行かない限りは問題ないだろう。そりゃ、男に比べたらリスクは高いかもしれんけど。
とりあえずこの流れ、旦那の愚痴が続きそうな流れを断ち切っておこう。いつ親父さんが戻ってくるかわかったもんじゃないし。
「まぁまぁまぁ、何かあってからじゃ遅いですし……」
「あら? 今、私のことをママって……」
誰が呼ぶか! 確かに計り知れない母性を感じるけども!
「仕事中だぞ、キミ達」
うおっ! 最悪のタイミングで戻ってくんなよ、心臓止まるかと思ったわ。
「お父さんは小さいわねぇ」
「……もうすぐお客さんも減ってくるから、それまで頑張りなさい」
「はぁい」
ここまで来ると、この二人の馴れ初めがちょっと気になるな。どっちからアプローチを仕掛けたんだろ。俺の予想ではママさんが強引に迫ってきて、気付いたら外堀全部埋められてたってパターンなんだけど。
「中岡君、妻が無駄話をしてきても無視していいからね」
「無駄だなんて、そんな……」
「仕事に関係ない話は無駄話だよ。妻の暇つぶしのために人件費払ってるんじゃないんだよ、私は」
「……はい」
確信したよ。俺は多分、もう親父さんと上手くやっていけない。何かの間違いで茜さんと交際することになったとしても、親父さんとの付き合いが無理で破局する。
茜さんは意外と我が強いから、親父さんより恋人を優先してくれると思うけど、そういう問題じゃないんだ。俺のせいで家族仲が悪くなるなんて耐えられないんだよ。
ともかく仕事に集中しよう。ママさんを無視するなんてとてもできないから、話しかけてこないことを祈ろう。
「進ちゃん、進ちゃん。さっきの続きなんだけどね」
なんだこの人、無敵か? なんでさっきの出来事から十分もしないうちに話しかけられるんだ? しかも親父さんがいる状況で。
ほら、耳を傾けてきてるよ。目線は食材を見つめてるけど、耳は我々の会話に一点集中してるよ。五感全てを活かしてこそ真の料理人じゃないのかよ。食材の声を聞けよ。いや、何言ってんだ俺は。
「茜ちゃんの年齢ならボーイフレンドの一人や二人いてもおかしくないと思うのよ」
「二人はおかしいですけど、まあ言いたいことはわかります」
確か茜さんって女子高に通ってたんだっけ? いやまあ知らんけど、そうでなきゃ辻褄が合わない。黙ってても卒業までに二、三回は告白されるはずだし。
「大学にも行かなかったし、常連さんも既婚者のオジ様ばっかりだし、このままじゃお家断絶になっちゃうわ」
娘しかいないんだったら、養子でも取らない限り断絶する運命なのでは?
「私としては夜の街に出て、良い男を引っかけてきてほしいんだけどねぇ」
それは中々ハードルが高そうだな。一人で海をうろつけばいくらでも声をかけられそうだけど、見境なくナンパしてくる軟派な男じゃダメなんだろうし。
あっ、親父さんが一瞬硬直した。
「最近はマッチングアプリとかいうのがあるらしいけど、それはちょっと親としては怖いのよねぇ」
夜の街で男を引っかけるのも大概だと思うんだが、どこが違うんだろうか。先に現物を見られるってのが大きいんだろうか?
「今からでも大学に行かせようかしら」
さっきから言おうと思ってたんだけどこの人、大学を婚活会場か何かと思ってらっしゃる? そりゃサラリーマンよりは出会いの機会があるかもしれんけど、学ぶところだからな? 学ぶついでに恋人を見つけるだけの話だからな? いわゆるサブクエストだからな?
「確か一ヶ月ちょっとよね? 茜ちゃんと出会ったの」
「ええ、ちょうどそれぐらいかと」
一ヶ月で家に上がって手料理を食べさせてもらったり、デートに行ったり、キャンプに行ったり、よくよく考えると凄いスピードだな。ギャルゲーの主人公になった気分だよ。このままじゃ刃傷沙汰エンドになりそうだけど。
「進ちゃんが男らしくチューしてくれれば話は早いんだけど」
早いっていうか飛躍してんだよ。一ヶ月でキスする男が男らしいって、アンタの男性像おかしいって。
親父さんの握ってる包丁がこっちに飛んできそうだから、本当にそういう話をするのはやめてほしい。茜さんも明らかに盗み聞きしてきてるし。
未智さんとキスしてしまった件は絶対に黙っておこう。飛鳥さんにしたイタズラも同様に黙っておこう。黒ひげ危機一髪ばりに刺されまくりそうだし。
「ははは、茜さんが望むならいくらでもしますけど、俺からはしませんよ」
茜さんと親父さんの体が同時にピクッと動いたが、見なかったことにしよう。
「あらあら、進ちゃんは受け身なの?」
「受け身というか、俺なんかが汚すわけにもいきませんし……」
そりゃこの先あるかもしれんよ? 『あれ? 今キスできんじゃね?』って流れがさぁ。でもそれって俺の思い込み、独り相撲の可能性もあるわけであってだな。茜さんが俺に向けてくれている好意も、親父さんの過保護の反動な気がするし、良い男がどっかから湧いてくるのを待つのが一番平和だよ。
「んー、茜ちゃんのほうは進ちゃんのこと好きみたいだけどねぇ」
「……周りに男がいないから消去法でそうなってるだけかと。ほら、恋に恋するってヤツですよ」
もしかして余計なことを言ってしまったのではないだろうか。茜さんの笑顔が妙に怖い。二人っきりになったら何をされるかわからんし、バイトが終わったら速攻で逃げ帰ろう。
「そんなことないと思うけどねぇ」
「いやぁ、俺なんて全然もう……茜さんならいくらでも良い男を見つけられるでしょうし、そんなに急ぐこともないと思うんですよ。お母さんを見るに、十年後も二十年後も引く手あまたでしょうから」
っていうか本当にお母さんなのか? バーのママさんもそうだけど、美魔女多くねえか? 俺のオカンなんて目に見えて老けていってるのに。
「へぇ、カッコいい男の子がいたらそっちに行っちゃうと思っとるんやね」
あっ、いつの間に後ろに……。
「そ、それはまあ……俺なんかより良い男は世の中にいくらでも……」
「お母さん、お父さん、お客さんいなくなってきたし、ちょーっとお仕事抜けさせてもらうよぉ」
茜さん?
「進ちゃん、おデートしましょうねぇ」
茜さん?
「茜、仕事は最後まで…………遅くならないようにな」
親父さん? ちょっと睨まれたぐらいで怯まないでくれないか? 大事な娘さんがしょうもない男を連れて、どこかに行こうとしてるんですよ? 過保護発動させてくださいよ。
お母さん? そのサムズアップはなんですか? 俺? 俺に向けてんの? 何を頑張れとおっしゃるんです?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます