前夜
その日、僕の人生の目的は終わった。
否、奪われた。
それは、よくある、ありふれた、簡単な「事故」だった。
僕だって何度もそんな現場に駆けつけてきたし、見てきた。
過重労働による運転手の疲労と意識の喪失。
それだけだ。
たった、それだけの事——。
たった、それだけの事が、僕の未来と生き甲斐を奪ったのだ。
それも、僕の目の前で。
僕は、僕の生きる意味の大半を、その日失った。
それは、卒園式の日だった。
僕はその日、当番日と重なってしまった。
ついてない、とは思った。
僕の救護班の勤務体制は3部交替制だから、基本的には3日に1回しか当番には入らない。つまり、2/3の確立で平日のイベントにも出られる計算だ。
もちろん、その代わりに土日祝日関係なく当番はくるからその辺りに集中するお遊戯会や運動会はいけないことも多いし、緊急の呼び出しもあるにはあるが、逆に平日にはいるイベントには行ける場合も多い。
ただ、その平日に行われた卒園式と僕の当番日は重なってしまった。
24時間体制の救急隊にとってはそれは仕方のない事で、交代するなんてもってのほかという感覚だった。
誰かがやらねばならず、それがたまたま今回自分だった。
ただそれだけの事。
その分、何か別のもので埋め合わせはすればいいし、誕生日に一日中一緒にいられる事も多いから、別に良いだろうとも思った。
「何とか交代できないの?あの子の初めての『卒業』なんだよ?」
妻の友加子は抱えるように腕を組みながらそうきいてきたが、そんな理由で交代しては査定にも響くし、なにより他の隊員に申訳ない。
いざ命が懸かっているという時、私情を優先するような人間に背中を預けるなんて、僕だっていやだ。
それに、ほんの少し、家庭や私情よりも公務を優先する自分が、ヒーローみたいでかっこ良いとも思ってしまった。
「呆れた……」
僕がその事を伝えると、友加子は腕を組んだまま、肩を落としてそう言った。
「でも、あなたのそう言うトコロがいいんだもんね」
眼鏡の奥で笑いながら、そう付け足してくれた。
友加子は僕より2つ歳下だが、なぜかいつも僕のことを子供のように扱う。
いつも僕の無理に、腕を組んだり、腰に手を当てたりして盛大に溜め息をぶつけた後、それでも眼鏡の奥では微笑んで、結局は受け入れてくれる。
目の前で命が失われたり、逆に自分の命も懸かるこの仕事にとって、僕のことを監査しつつ、それでも最後には微笑んで受け止めてくれる友加子の存在は、僕にとって本当にありがたかった。
「ママ……?パパ……?ケンカ……?」
そこに、瑠璃子が入ってくる。
「大丈夫だよ?寝られないのかい?」
僕は瑠璃子のそばによると、屈んで瑠璃子と目線を合わせる。
「ううん?声がしたから……」
瑠璃子は声や言葉のトーンに敏感だ。
同じ園の子の中でも特に言葉の憶えが速く、最近では日曜の朝にやってるアニメ番組の台詞の意味をよく聞かれるし、文字も、もう五十音はひらがなもカタカナも書けるようになってしまった。
この前も祖父母に買ってもらった薄紫色のランドセルを眺めてはニコニコとなで回し、先に買っておいたノートには自分で名前を書き、そこに合わさる教科書のことを考えては蓋を開けたり閉めたりしていた。
その行動の一つ一つを口に出しては喜んでいる。
その辺りはまだまだ未就学児といった感じだ。
「大丈夫だよ」
僕は瑠璃子を安心させようと笑って話しかける。
「今度の卒園式の後、どうしようかパパとママで相談してたんだ」
僕はそう言うと瑠璃子を抱え上げ、テーブルの方に行くと、瑠璃子を膝の上に乗せて友加子の前に一緒に座る。
「いい?瑠璃子。パパね、卒園式は出られないんだって」
友加子は瑠璃子の目を覗くと、顔を寄せてそう言った。
「えー?」
それを聞いた瑠璃子は僕の方に顔を向ける。
少しむくれた顔の娘と目線が合う。
僕は呻きながら思わず妻の方へと顔を向けると、そこにもむくれた顔があった。
なんで友加子まで——
「パパ、お仕事なんだってー」
友加子は少しいじわるな口調で留璃子にそう言う。
「えー?」
瑠璃子も少しむくれた顔をする。
友加子とそっくりだ。
「ねー?酷いでしょー?」
「むー」
2人ともそっくりだ。
「パパだって辛いんだよ?」
どちらを見たらいいのか分らない僕は、2人を交互に見ながら何とか応える。
「んー」
瑠璃子はさらに顔を俯かせ、上目遣いで睨みならがうなっている。
「でも、パパがガンバると、いっぱいみんな助かるんだよね?」
同じ表情のまま、目だけを横に逸らす。
「ルリコ、そんなパパは好きだよ?」
その言葉で何も言えなくなる。
「ありがとう。パパがお仕事から帰ってきたら、お祝いに皆で一緒にお昼ご飯を食べに行こうね」
瑠璃子を撫でながら、なんとか考えていたことを吐き出す。
「うん!」
元気よく返事した瑠璃子は、そのまま笑顔で指切りをせがんでくる。
指切りをしながら友加子の方を見たら、妻も微笑んでいた。
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