最期の月
ゆうき
1話完結
1章
虚ろに濁っている僕の目は、どこにも焦点を合わせることはない。
疲れた。
疲れ果てた。
頭にはなにも浮かんでこない。
半開きの口からは、ため息のような呼吸音がこぼれている。
口を閉じると窒息してしまいそうだ。
完全に詰まりきった鼻は、いっさい役目を果たしていない。
強くこすったせいで赤く腫れたまぶたは、少しずつ熱を持ち始めていた。
怖いけれど、今日決着をつける。
今日でなければいけない。
ここで怖気づいて明日が来てしまったら、またあの日々が始まってしまう。
8月31日。
夏休み最後の日。
今僕は、薄暗い雑居ビルの屋上にいる。
夏休みの間、ここには何度も来た。
誰にも使われなくなった古い廃ビル。
屋上のドアには太いチェーンが掛かっていたが、チェーンを止める南京錠はどうみても安物で、思い切り捻り上げてみたらあっけなく壊れた。
そして僕をここへ導いた。
何度もここへ来て、全てを終わらせようと試みた。
屋上から下を覗き込むと、体が震えてしまってここにいることに耐えられなかった。
だからすぐに下まで降りて行って、安心しながら「まあ今日はただの下見だから。時間はまだあるから」と誰が聞いているわけでもないのに、強がって言い訳をしてきた。
でも、もう時間はない。
第2章
うん。
やるか。
靴を脱ぐと、しゃがんで綺麗に揃える。
家では靴なんて脱ぎっぱなしで、揃えたことなんてないのに。
こういう時に限って、人は丁寧な行動を取りたがるみたいだ。
いや、こういう時だからか。
最後くらい、良い人になってもいいだろう。
そうやって自分を肯定したい。
自分は生きるのに向いていないけれど、心の綺麗な純粋な素晴らしい人間だったと思いたい。
それを分かってくれる人に恵まれなかっただけで、運が悪かっただけで、自分はなにも悪くなかった。
そんな穏やかな気持ちで終わりたい。
靴下でコンクリートの上に立つと、足の裏から冷たさが昇ってきて、じわじわと何か暗いものに浸食されていくような気がした。
まだ昼間の熱さが空気に籠ったままで、生暖かい風が吹いているのに、足先は感覚が無くなりそうなほどに冷たい。
じっと目を閉じて大きく息を吐いて、ビルの向こう側に向かって歩き出した。
一歩一歩が深い泥沼の中を歩いているようで重かった。
たった数メートルを移動するのにも息が切れた。
一歩進むごとに体から力が抜けて、血の気が引いていくのを感じた。
これが本当の恐怖というものなのだろう。
死にたいと思った時も死ぬと決めた時も、ここから下を覗き込んだ時も、ここまで怖くはなかった。
いや、むしろ死にたいと思うことに怖さなんてなかった。
そこに現実味なんてなかったから。
ちょっと遠出をするくらいの、軽い気持ちだった。
苦しみを終わらせるお手軽な方法を見つけたような感覚でしかなかった。
でも「死」が現実味を帯びてくると、これはそんなものとは全くの別物だと分かる。
骨の髄から違和感が染み込んできて、体の自由が奪われていく。
体が小刻みに震えて上手く立っていることも出来ない。
みぞおちの辺りが中から押し広げられて、吐きそうになる。
帰りたい。
いやダメだ。
今日で終わりにするんだ。
恐怖に震えながらも、なんとかビルの縁までやって来た。
下から吹き付ける風が強く、バランスを崩しそうになる。
ビルから少しはみ出した足先が急に冷たくなり、靴下が汗でぐっしょりと濡れていることに気が付いた。
下を覗いてみると、月明かりで照らされているはずの道路は真っ暗でなにも見えなかった。
辺りはそれなりに照らされているのに、自分の真下はなぜか黒く塗りつぶされていた。
どこまでも何もない闇だけが続いていて、ここから落ちたら宇宙の深淵まで落ち続けてしまいそうな気がした。
目を閉じてしまいたい。
このまま眠ってしまいたい。
恐怖で力が抜けきった体では、意識を保つことも難しい。
その感覚に反して力の入らない体が生にしがみつくように、しっかりと体を支えている。
動物的な本能が僕の意思をすべて無視して、僕を生かそうとしている。
腰が引けてしまってまっすぐ立つこともできない。
その時、真下からビルの表面を滑るように駆け上ってきた風が、僕の体を蹴り上げた。
体はフワッと浮き上がり、見えない風が僕の視界を通り過ぎて行った。
気が付くと仰向けで倒れていたが、不思議と痛みはなかった。
第3章
呆然としながら、しばらく空を見上げていた。
深くゆっくりと呼吸をしていると、頭の中のもやが晴れていく。
僕はどうして上手く生きられないんだろう。
小さい頃からずっとそうだった。
いつも周りから浮いてしまう。
最初は誰も気が付かない。
でも時間の経過と共に、みんな少しずつ違和感を覚え始める。
そうして最後には僕がズレていることを皆が知る。
人が僕みたいな奴を見つける能力は素晴らしく優秀だ。
まだ小さかった頃の算数の授業を思い出す。
「この中から仲間はずれを探してね」
「はーい」
そんな風にいとも簡単に、ちょっとした仕草や声の出し方から僕のことを見つけ出してしまう。
そして僕が何かするたびにクスクスと小さく笑い声が広がる。
小さくてもハッキリとした存在感を放つ笑い声だ。
そしていつの間にかまだ話したことがない人にも、僕を馬鹿にする空気は伝染していく。
クラスの笑いものの完成だ。
僕の何がいけなかったんだろう。
彼らみたいに人を馬鹿にして笑ったりしない。
人を傷つけるようなこともしていない。
ただ皆と少し違うだけじゃないか。
そうだよ。
僕は誰も傷つけてない。
何も悪くない。
そんな僕がどうして死なないといけないんだ。
でも生きているのが怖い。
人と関わっていく勇気がない。
どうしたらいい。
もう一度だけ。
もう一度だけ試してみて、死ねなかったらもう少しだけ生きてみよう。
死ねなければ生きる。
それでいい。
第4章
立ち上がると手足の震えが治まっていることに気が付いた。
しっかりとした足取りでビルの縁に上り、下を覗き込んだ。
そこには平凡な道があるだけで、闇も宇宙も広がっていなかった。
もう死ぬ気なんてなかった。
たぶん「どうして僕が死なないといけないんだ」と思った時点で、死ぬ気なんて無くなっていた。
きっとここに立ったのは帰り支度みたいなものだ。
自分が生きるということを確認するために、もう一度だけ死の恐怖を味わいたかっただけなんだ。
結局僕も生きていたいんだ。
自分が生きていたいと思っていることに気が付くと、自分がごく普通の平凡な人間な気がして思わず笑みがこぼれた。
気が緩んだのだ。
自分は変な奴だから誰にも受け入れてもらえないと信じ込んで、死ぬしかないと思っていたのに、死のうとすることで自分の普通さを感じさせられて少し安心した。
「帰るか」
そうつぶやくと軽快な足取りでクルリと後ろを向いた。
晴れ晴れとした気持ちでビルの縁から下りようとすると、またさっきと同じように風が駆け上ってきた。
シャツの裾から服の中へと入り込んだ風が汗を乾かし、ヒヤッとした感覚が背中のあたりに一瞬とどまると、襟元を掴んでゆっくりと引っ張った。
汗を乾かすような冷やかさとは全く違う、ゾクゾクとした感覚が体の奥から電気のように走りこんできて顔の周りを回ると目の奥でピタッと止まった。
そうして無理やりこじ開けられた瞳孔に月の光がまばゆいばかりに輝くと、強烈なコントラストによってそれ以外の全てが真っ暗になった。
自分の体重を感じなくなった足が、重力から解放された喜びを噛みしめるかのように月に向かって真っすぐに伸びていく。
そうして宇宙に戻ってしまった真っ暗な道に向かって、頭から突き進んだ。
最期の月 ゆうき @hiaiyuki
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