5.3 リリース

 基本的にこの学園で行う授業は、様式化された学術データのインストールとその定着前後のフォローがほとんどだった。学園ではロストを起こさないことを指標とし、インストールの順序やプロセスを重要視していた。様式化されたデータは重複部分も多く定着に非常に時間がかかる構造だった。そんなことは自分でやればいいだけのことで、みんなでそろってやるようなことではないとシンタロウは思っていた。しかし、インストールの授業とは別に、エミュレータの実習や様式化がなされていない部分の座学の授業は信じられないほど高度なものだった。


 例えば、エミュレータの基礎となっている物質の最小粒度だ。俺たちが知っている物理学のそれとは比べ物にならない粒度まで解析されている。そして、ここでは俺たちは全てマテリアル上の座標で表現されている。座標の位置を見れば、演算装置側の本体である自分が視認したことになるし、座標の位置が交われば演算装置側の自分の触覚として反応する。全てはマテリアル上で粒度と密度を変えているだけだ。俺たちを表現するフィジカルは「依り代」であり、結局のところグエンのようなポインタでしかなく演算装置と蓄積データの実態の位置とは何ら関係のない別の場所にポインタの座標が示されているだけだ。


 実際にはその座標にはマテリアルがあるだけで何もないのだろうか。物質的なものは本質においてみな実態がなく空である。ふと曽祖父が信仰していた極東の国の宗教の教理を思い出した。いや、そうであるならば、その教理はその逆もまた真だという。それならば、何もないはずのマテリアル上に見えているもの全てが現実で、結局それが俺たちの真実だということにもなる。どちらも同じことを言っているのだろうがシンタロウにはよく理解できないことだった。


 スカイラーが不安だと言っていたのは、もしかしたら、このことだったのかもしれない。彼女が話す断片的な情報を聞いていたが、あの時は何のことかよくわからなかった。だが、要するに彼女が信じていた、人間が依って立つような価値観が「あの日」崩れてしまった、ということかもしれない。彼女は確か、拠り所になるような信仰や教理をもっていなかったはずだ。それが関係する可能性はないだろか。価値観を再構築するために何かヒントになるようなものを見つけられれば、スカイラーが立ち直ることができるかもしれない。シンタロウはソフィアのPAにこのことを送るとソフィアから、スカイラーは意外と繊細なのであり得るかもしれない、どう伝えるか考えておくという返答があった。


 サンドボックス空間でベースフレームのみのエミュレータ空間を実体験することができた。この世界ではベースフレームの上にユニークとなるスキンを当て人間として生活している。普段意識することはないが、このリージョンでは全ての人間が、その原理原則を理解した上でこの世界を生きているのだった。そして、UCL-1や他の住居リージョンではエミュレータ外部とコンタクトがとられており、その共通の前提を元に新しいエミュレーティングテクノロジーが次々にリリースされている。


 最新の大型バージョンアップでリリースされる新機能はオリジナルの外観スキンと世界観つまり、パースペクティブをカスタマイズできるものだそうだ。そしてそれは、他人がどんなスキンを当てているか、どんなパースペクティブを持っているかは関係がなく、世界観が異なっているもの同士のコミュニケーションの場合、そのコミュニュケーションの内容自体が緩衝されるという。


 例えば、中世をベースとした剣と魔法のファンタジーのスキンとパースペクティブを当てている人と、近代のサイバーパンクの世界を模したスキンとパーススペクティブを当てた人が会話しても不整合は起きずに緩衝され、相手も自分と同じスキンを当てているように見ることができるというのだ。そこでは表面上の事実も現実も抽象化される。目的がドラゴン退治なのか、暴走したAIとのデジタル戦争なのかは些末なことになるということだ。大型バージョンアップのリリースは1週間後、UCL-1の本大陸の北エリアから順次展開される。


 他人とのコミュニケーションを緩衝すると聞いてシンタロウは違和感を覚えた。それはコミュニケーションとは逆だ。行きつく先はさらに細分化されて、いずれ分解できない個になる。そしてシンタロウが感じたそれは、以前サクラを自分自身だと感じたことと同じことのような気がした。だとしたら結局、コミュニュケーションとは他人を見て自分を認識しているに過ぎないのではないかと妙に腑に落ちた。




 数日が過ぎた頃、ソフィアとサクラはそれぞれクラスメイトと食事することが増えていた。いつものように食堂の混合席でシンタロウとグエンは2人で夕食をとっていた。グエンは犬用フードを一度も食べることなく今日もシンタロウと同じシチューを食べていた。


「シンタロウさん、これなんの肉ですかね?繊維質のパターンからはチキンのようですけど味はビーフっぽいですよね。すっごく美味しいんですけど、でもなんだか僕、怖いですよ。グロテスクな生物の肉だったらやだなぁ。」


 グエンはそんなことを言いながら、2杯目のシチューを持ってきてほしいとシンタロウにお願いをしていた。シンタロウのクラスメイトのカミラとクレトもいつもシンタロウたちと同じ時間に食事をしていたので、自然と一緒に食事をするようになっていた。カミラがシンタロウの隣に座り、話し始める。


「次のリリースで出るワールドセットシリーズのベータの話聞いた?」


 いやまだ知らないとシンタロウは答えた。


「エミュレータ外部とも連動するんだって。それって、エミュレータ運営と契約すれば個人でカスタムしたオブジェクトを好きな時にマテリアルに投射して実体化できるってことみたい。」


 カミラがそう言うと、カミラと一緒に来たクレトが続ける。


「そうそう、で俺思ったわけ。デフォルトスキンからファンタジー系のワールドセットのスキンに変えるじゃん?で運営とマテリアルの契約をすればオリジナルの魔法とか召喚獣も使えるってことだよな?マジ胸熱じゃん?それができるなら俺はずっとそのワールドセットで過ごしたいよ。」


 クレトが興奮して早口で話す。クレトはいつもゲームの話ばかりしていたのでファンタジーになじみがあるのだろう。


「あのさ、本気で言ってんの?それって、こっちがこれまで通り、何も変わらないデフォルトのワールドセットで授業受けているとするじゃん。で、クレトはファンタジーのワールドセット使って授業受けるふりして遊んでいるだけだとする。でも、こっちから見たら、クレトはちゃんと授業受けているように見えるってことになるわけ?そんなのでいいのかな。」


 カミラはクレトの世界観にあまり興味がなさそうだった。


「抽象化のレイヤーの性能って試したことある?」


 シンタロウはそんなにうまく動作するのか気になって聞いてみた。


「もちろん。カミラとプロモーションのサンドボックスで会話して試してみたけど、違和感なかったよな?」


 クレトの意見にカミラは同意した。


「でも、私はピンとくるワールドセットなかったかな。だから、リリースされてもしばらくは様子見かも。そもそも他人のスキンも言動も変えてそれでコミュニケーションが取れているって言えるのかな。今だって友達でもなければPAばっかで直接話すことってあんまりないっていうのに。友達まで直接話さなくなったら、いよいよ、みんないるのに独りぼっちの世界になっちゃうよ。」


「まぁそんなこと言わないでさ、ベータがでたらみんなでワールドセットのファンタジーやろうぜ。2週間は本大陸の北エリアだけの一般開放版が利用できるからさ。ベータ登録するかどうかはその後決めればいいじゃん?サブセットのレビュー見る限り「デーモン・キング」か、「バトル・オブ・ザ・ゴッド」とも迷ったけどやっぱり「ラビリンス」がおすすめらしいね。」


「みんないるのに独りぼっちの世界」と言ってから考え込んでいるように見えるカミラを横目にクレトはそういってシチューを掻き込んだ。




「今度のリリースのベータ版、ファンタジー系のワールドセットのクリア報酬がすごいらしいよ。」


 ジーネ・ブリンズ・セラトがそう話をしながらダークトーンのレッドからパープルにグラデーションした長い髪を指に巻いていじっている。サクラはセラト家のゲイミー、ジーネ、ロドルと一緒にヴィノ用のソファー席で食事をしながらワールドセットの話をしていた。


「それ俺もみた。マテリアルの契約を一本くれるのはマジでやばいな。オリジナルの魔法作れるじゃん。」


 ゲームが好きなゲイミーが嬉しそうに話す。


「抽象化レイヤーで緩衝するってことはワールドセットのパブリックデータを共有しているコミュニティ内だけでしか視認できない可能性が高いね。オリジナルのオブジェクト作っても使える範囲は限定的なものかもよ。」


 物静かなロドルが答える。セラト家のヴィノは全員同じ髪色をしている。


「なんでも実体化できるなら私もクリア報酬欲しいな。」


 サクラがポツリとこぼす。


「お、サクラもやる気になったか?」


 ゲイミーは意外だと少し驚いたが、嬉しそうにサクラに声をかけた。


「うん、私もやってみたい。ジーネもロドルもやろうよ、ね?」


 サクラから誘ってくるとは思いもしなかったようでジーネとロドルはお互いの顔を見合わせた。


「まぁ、ゲイミーとサクラがそういうなら、私たちもベータの一般公開部分だけならやってみてもいいけど。」


 ジーネがそう答えると、ゲイミーが声を出して喜んだのでサクラもそれに呼応した。サクラは、ヴィノと人間では性能差があり過ぎるというノア・バーンズの言葉を思い出していた。人間の細胞や器官を自分の中に実体化できるなら性能差を埋められるのではないかと思った。試さないよりましだよね。サクラは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。




 ソフィアはネファとネイティブ用のテーブル席で食事をとっていた。


「ヘンリーってコールマン家の長男のこと?」


 ソフィアはネフィに聞いた。


「調べたの?そうよ。あなたのリージョンにはいないのよね?」


 そうよ、とソフィアは答えた。ヘンリー・コールマンは死産したソフィアの兄に付けるはずだった名前だ。あれからしばらくその名前が何だったかマニュアルで思考してやっと今日思い出した。それはソフィアが幼いころに母から一度だけ聞いた話だったのですぐに思い出せなかった。ソフィアのライフログが蓄積される前のことだったので、ネフィから名前を聞いた瞬間のシークではライフログ内でヒットしなかった。


「私はリリカ家の長女でコールマン家の長男のヘンリー様と結婚することになっているの。生まれた時から決まっていたみたい。でも私が知ったのは最近のことで、まだヘンリー様にお会いしたことがなかったから。それでソフィアさんならヘンリー様がどんな人か知っているかしらと思って聞いたの。でも気にしないで。それにみんなに聞いて回っているみたいで失礼よね。」

 

 リリカ家はティア2現実からティア3住居リージョンであるUCL-1へ初期移住を果たした家系だった。その安全性や快適さ、エミュレーティングテクノロジーを使った先進的な世界を求めて、ティア2現実からティア3住居リージョンへ移住を希望する者は多かった。ただ、その権利は非常に高額で、一般層が簡単に手を出せるような金額ではなかった。


 元々ティア2現実の資産家クラスであったリリカ家は、本格化した宇宙開発とエミュレータ移住が、家業である不動産業の将来性に陰を落すのではないか懸念していた。一般向けにエミュレータへの移住が始まったことを商機として捉えたネフィの祖父は、保持していた資産すべてを売却し、その一部を投じて移住の権利を購入した。今ではリリカ家は、初期移住者の人脈などの強みを生かして、ティア間の商品・文化の輸出入業や、裕福層向けの移住コンサルティングを生業としていた。そして、リリカ家がティア3住居リージョンに移住後、ネフィの父親はバージニアの旧家のベネット家の次女と結婚した。二人の長女として生まれたネフィは母親そっくりだった。


 コールマン家はベネット家と古くから親交があった。ティア3検証リージョンでもそれは同じだ。ベネット家の次女は結婚を機にワシントンに引っ越してしまったが、子供が13歳の時にしばらくバージニアに戻ってきていた期間があった。その時、ソフィアはコールマン家に頻繁に遊びに来ていたその子供と遊んであげていたことがあった。その子も母親に似たかわいらしい女の子だった。ネフィに見覚えがあったのはその子のことを思い出していたからだった。


 ソフィアは自分のリージョンにいるネフィの母親を知っていること、そのリージョンのネフィの母親の子供と遊んだことがあることをネフィに伝える。子供の頃の仕草がどちらのネフィも同じだったことが分かると懐かしむように話が弾み、2人の距離は一気に縮まった。ネフィは信頼できる血筋の友人が近くにいて心細さが和らいだと喜んだ。ソフィアも年の離れた妹ができたようで、ネフィに徐々に心を開いていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る